懐 古 瞑 想 9 太陽歴四六十年――今より十一年前――ジョウストンの都市同盟軍によってハイランド王国が滅びた。最初の戦火を上げたのは同盟側の奇襲とも王国側の策略とも言われているが、今となっては定かでない。 当時は王国の皇子ルカ・ブライト率いる軍に幾度となく壊滅の危機を迎えた同盟軍だったが、それを勝利に導いたのが、かつての英雄ゲンカクの息子だった。 彼は同盟軍の勝利を見届けると、新たな同盟国――現在のデュナン共和国――の建国を見ずに姿を消した。 そして、その彼が今ここにいる。 「髪型のせいかな? あの頃と雰囲気も変わったから一目で気づかなかったよ」 彼は本当に無邪気だった。ルックが眉をひそめても気にする様子はない。いや、むしろそれすらも懐かしいと思っているのかもしれない。当時のルックも無表情か、仏頂面だった。綺麗な顔立ちなのだからもう少し愛想が良ければいいのに、とよく囁かれていた。 「隣村にきた占い師の弟子ってルックのことだったんだね。 すごい美少年だって噂だったらしいんだけど、僕らはレックナートさんがトランで有名な占い師だなんて知らなかったからさ」 きみのことだとは考えもしなかった、と笑った。 ルックが真の紋章を宿していることは軍内では公然たる事実だったせいか――現に彼はその力でハルモニアの一軍を追い払った――彼の容姿が少年のままなのは気にもとめていないようだ。雰囲気が変わったといっても、そんなものはたかが知れている。 ルックは面白くなさそうに、ふいと顔をそらした。 「僕ら……ね。 ってことは、ナナミもジョウイ・ブライトもこの村にいるわけだ」 二人の名前に、彼の顔が瞬時に強張った。 「僕もきみが姿を消してからすぐに出ていったけど、この国の大まかな事情は知ってる。 だけど、きみ達がこんな田舎で生活してるとは知らなかったな」 「……二人が生きてるって、シュウさんが言ったの?」 「シュウを一番信用してるのは、きみじゃなかったのかい」 「じゃあ他に誰が………ああ、」 彼は苦笑した。彼自身も言ったばかりだ。ルックはレックナートの弟子なのだ、と。 「レックナートさんは、全部ルックに話したんだね……」 ルックはやはり顔をそらしたままだった。 デュナンの統一戦争時、同盟軍がハイランドに降伏したマチルダ騎士団の砦・ロックアックス城を攻略する際に、軍主の姉であるナナミが命を落とした。弟を庇っての名誉の死ではあったが、同盟軍は悲しみに暮れたという。それが軍を奮い立たせる結果となり、ハイランドはロックアックスより手を引かざるを得なくなった。 一方、彼らの幼馴染であるジョウイ・アトレイドはその当時ハイランド皇女ジル・ブライトと婚儀を済ませていたため、王国最後の皇王ジョウイ・ブライトとして同盟軍に抵抗していた。しかし、最後の戦火の中で彼の姿を見た者はなく、結果として生死は不明とされ、そのままハイランド王国は滅亡した。 ――これらがデュナンにおいての正史だ。しかし現実には誤った歴史だ。ナナミもジョウイも生きている。 「僕だって全部聞いたわけじゃない。 きみ達が紋章を封印したことだって知らなかったしね」 ルックは彼の何の模様も刻まれていない右手を見て、知らず知らずのうちに自分の右手を握り締めた。 紋章の力自体を押さえつけるほどの能力を手に入れていたが、さすがに印自体を消すことはできない。それを隠すためにはめていた皮手袋が、ぎりぎりと音を立てた。 「――紋章を封印したのは数年前だよ。だからこのことは誰も知らない。レックナートさんだって知らないだろうし、シュウさんにも言ってない。 知ってるのは僕ら三人と、ルックだけだ」 「僕は別に知りたくなかったけどね」 「僕もルックだけには知られたくなかったかも」 「…何でさ」 「ルックはきっと怒ると思ったから」 ―――セラをハルモニアから連れ出す前のことだ。 自分は紋章が憎くて、紋章の意のままに進む世界が憎くて、何よりもその紋章に囚われ続ける自分が憎くて仕方がなかった。変わる未来を夢みたことなど記憶の彼方に飛んでゆき、風は黒くなる一方だった。 「魂を喰らう右手を持つ彼は、僕を殺してはくれなかった」 「輝ける盾となる右手を持つ彼は、僕を守ってはくれなかった」 勝手な言い分だと知りつつも、嘆かずにはいられないほどルックは悪夢に苛まれていたのだ。 だが、彼はそれを知るはずがない。 「…何故、そう思ったのさ」 「分からない。でもきっとそうだろうとは、確信に近いほど思ってたよ。 …多分、それは僕だけじゃない。あの人だってそう思っていたかもしれない」 ルックはそむけていた顔をようやく正面に戻した。 しかし、どうしても彼の顔を見ることができない。見てしまったら何かが崩れてしまう、そんな気がしていた。 「大体想像はつくけど……あの人って、誰のことだい」 心持ち俯いて視線を落とした状態で言うのがやっとだった。 しかしその「あの人」の名前を聞いた時、ルックはまたすぐに顔をそらしてしまった。そして「やっぱりね」と呟いた。 「――彼もきっと、少なからずルックに負い目があると思う。 理由は知らないけどね」 負い目なんか、あいつにあるもんか。うっかり口から漏れてしまいそうな言葉を、ルックはぐっと堪えた。否定はしているはずなのに、言葉にしてしまえば肯定していると認めてしまう気がしたからだ。敗北感だけは御免だ。 「ここだけの話だけど……ルック、戦争はまた起きるよ」 ルックは顔をそむけたまま、目を見開いた。 「きみも知ってるとおり、隣村には頻繁に商人が出入りしてるから、その手の噂を拾うのは簡単なんだ。 …ハルモニアが遅くとも来年にはハイランド県を狙って動き出す。シュウさんももう情報は握ってるだろうし、きっとテレーズさんやクラウスの耳にも届いてるよ。 この国はまた軍を動かすことになるだろうね」 「……僕には何の関係もないことだ」 少しの間をおいてから返したルックの声は少し掠れていた。 「ルックがそう思っていても、僕は考えてしまう。どうして人間は争わなくちゃだめなんだろう、戦わなくちゃだめなんだろう。それは、同盟軍にいた時から変わらない疑問だよ。人はちっぽけで大切な物を守りたいだけなのに、どうして血を流さなくちゃだめなんだろう。 そして、こうも思ってる。その答えをルックは知っているんじゃないかって」 ルックは何も答えなかった。それこそ、否定ともつかない肯定ともつかない黙秘だ。 ただ、ずっと力を入れていた右手をゆっくりと解放し、左手で握っていたロッドの頭部をそっと掴んだ。 その時ルックの瞳が柔らかく緩んだのを、彼は見逃さなかった。 「――そのロッド、ルックのじゃないよね。 あの子…セラっていう子のだろ?」 「…そうだよ」 「大切なんだね」 ルックはまた答えなかった。やはり表情だけでは否定も肯定も見分けがつかない。 しかし、彼はそれで満足したのかもしれない。 「きっとあの子はまだ村長さんの所だよ。 ナナミ達が案内しに行ったけど…迎えにきたんだろ?呼んできてあげるよ」 ルックが返事をする前に走り去った。 駆け出すほんの少し前に「きみとまた話ができて嬉しかったよ」と呟いた声はとても小さく、かろうじて風が教えてくれなければ、ルックも生涯それに気づくことはなかった。 セラがルックのもとに駆け寄ってきたのは、それから間もなくのことだ。彼女の後ろには誰もおらず、訊ねると「あの方々はまだ長の方と話をされています」と言った。 ルックはほっとしたように笑うと、持っていたロッドをセラに渡した。 「これは――?」 「きみもそろそろ魔法を使うには媒介が必要だろう?ここの隣村からはいい水晶が採れるからね、以前行った時に作らせておいたんだ」 きみの手の大きさには丁度いいはずだと言うと、セラはルックの顔とロッドを何度か見比べた。そして最後には、泣き出すのではないかと思うほどに柔らかい笑みを浮かべた。 「……ありがとうございます、ルック様」 嬉しそうにぎゅっとロッドを握る姿に、ルックはふと目を細めた。 そして左手で彼女の右手を取り「帰ろう」とゆっくり踵を返した。 繋いだ手はそのままで、それは彼女が幼い頃に二人で遠出をしたときと同じような光景だ。しかし、今だけはセラも子供扱いされているとは思わなかったし、ルックもそのつもりはなかった。 村を出るときに、セラは二人の青年から真の紋章の気配を感じたことを話そうとした。 しかしルックが呟いた一言で、彼女は全てを理解した。 「―――…さようなら、星主殿」 二十七の真の紋章の一つ「始まりの紋章」の経緯を、セラも知っていたからだ。 ルックは部屋の中で一人、寝台に座り窓の外を眺めていた。月は雲に隠れていたが、限られた数の星が瞬いている。 寝台はもともと部屋の隅にあったが、何年も前にセラが「明るい方がいいでしょう」と言ったので窓際に移動させた。月の光を浴びたからといって悪夢を見る回数が減るわけではなかったが、それを言ったのがセラだということは気休めになった。 ルックは何となく「これも運命かな」と呟いた。 塔に戻り、報告に行った時のレックナートの言葉が忘れられなかった。 『ルック、貴方に客人がありましたよ』 『僕に…?誰ですか』 『天魁星の子です』 この魔術師の塔には特殊な結界が張ってある。それ以前に塔のある島自体は海に囲まれ、潮の関係上船で近寄ることもできない。 しかし、一体どうやってここまで来たのかという疑問は、この際ルックにはどうでも良かった。 昼間再会した星主とは違う天魁星―――該当者はこの世でただ一人。ルックを訊ねてきたのは「生と死を司る紋章」の継承者だ。 『彼から、貴方に伝言を頼まれました』 『……伝言?』 『きみは僕を怒っているかい≠ニ』 どいつもこいつも何なんだ、とルックは下唇を噛んだ。 何故今日に限って次々と天魁星が現れるんだ。これはただの星周りか。運命なのか。でも、運命という言葉は嫌いだ。 ルックは悪夢で目を覚ましたときと同じような焦燥感に駆られていた。 丁度その時、部屋の扉を叩く音がした。ひかえめなコツコツ、という音。柔らかい音だ。 「――いいよ、入っても」 相手が誰かは確認するまでもなかった。 ゆっくりと扉が開く。器用に片手でトレイを抱えたセラが立っていた。ノブは空いた手で回したようだ。 「…なんとなく、ルック様がまだ起きていらっしゃるような気がしましたので……」 トレイには一通りのティーセットが乗っていた。香りからすると、いつもセラの部屋を訪れるときに入れてくれるものだ。 セラはそれを部屋の中央にあるテーブルの上に置いた。ソーサーやカップ、ポットなどを順に取り出す。あっという間に彼女の部屋と同じ光景が出来上がった。 「差し出がましいかもしれませんが……」 そう言ってカップにお茶を注いだ。 どうして、とルックは言いそうになった。 僕が起きていると、どうして分かったんだい。どうして、きみは来てくれたんだい。どうして、そのお茶を用意してくれたんだい。どうして、どうして、どうして―――… しかし実際はそれが言葉になることはなく、彼は寝台から立ち上がるとセラを後ろから抱きしめた。 「――ルック様?」 訝しがるセラをそのままに、彼はテーブルと対になっている長椅子に腰を下ろした。セラは丁度ルックの膝の上に座る形となり、彼よりも少し高い目線で小首を傾げた。ルックは目を細めると、少し力を入れて彼女を抱き寄せた。 彼女としては、ルックがいつも悪夢の朝に自分を抱き寄せるのと同じと思ったのかもしれない。それには特に追求しなかった。 しかし、 「セラ――…きみに触れても?」 と耳もとで囁かれた時には思わず目を丸くした。彼がそんなことを言ったのは今までに一度もなかった。 もしかしたらルックも、自分で言った言葉に驚いていたかもしれない。 しかしセラがゆっくりと頷くと、その驚きなどは意味のないところまで飛んでいった。 ルックは自然とセラの唇に自分のそれを重ねた。 ――彼が彼女を抱き寄せることには大して意味がないように、この行為にも意味はなかったのかもしれない。 しかし、意味がなくともその光景は絵になるほど言葉で喩えられる。抱き寄せる行為を眠れない子供がお気に入りの人形を抱きしめれば安眠できる様に喩えるならば、この口づけ自体の行為も可愛いがっている飼い猫の口をついばむ様に喩えることができる。だが、やはりルックは子供ではないし、セラも人形でなければ飼い猫でもないのだ。 ゆっくりセラを離すと、ルックは喉が鳴るのを堪えられなかった。それは、明らかに笑いだった。 それなのに、セラはルックの頭を優しく抱き寄せ、言った。 「ルック様、泣いていらっしゃるのですか?」 泣いているはずなどなかった。ルックは可笑しくて、または可笑しくないのに、笑いを堪えられなかったのだ。 ルックは違うよ、と答えようとした。しかしその瞬間、彼≠フ言葉が脳裏で再び繰り返された。
その時は答えることができなかった言葉が、今になって込み上げてくる。 「――…そうだよ」 思わず口から出たそれは、驚くほど自然なもので。 しかし誰に答えているのか、ルックは自分でも分からなかった。 『ルック、戦争はまた起きるよ』 『その答えをルックは知っているんじゃないかって』 魂を喰らう右手を持つ彼は、僕を殺してはくれなかったと。 輝ける盾となる右手を持つ彼は、僕を守ってはくれなかったと。 もう嘆いているだけでは駄目なんだ。 やはり、運命は自分で変えなくては駄目なんだ。 『きみは僕を怒っているかい』 もう、遅いよ。
「ルック様、泣いていらっしゃるのですか?」 「――…そうだよ」 BACK/TOP/NEXT |