懐 古 瞑 想 10 セラはひゅんと音を鳴らしてロッドを振った。外見よりもずっと軽く非常に使い易い。 長さは身長ほどもあるが決して邪魔にはならず、柄の太さも手に馴染むほどだ。なんと言っても媒介になる水晶の働きが見事なものだった。 通常魔法を使う場合、呪文と呼ばれる言の葉に魔力を乗せることがほとんどだ。しかし媒介によってはそれを必要としなくなる。セラほどの魔力の持ち主ならばそれは当然のことで、簡単な転移術やまじない程度のものならばすでに言の葉は要らず、このロッドがあれば高度な魔法もさして精神力を削らずとも頻繁に使えるようになった。 しかしこのように便利な媒介も、使う機会がなければ意味がない。彼は使わなければならない事態を想定したからこそ、このロッドを自分に授けたのだろうとセラは解釈した。実際、彼は自分をハルモニアから連れ出す際に「きみの力が必要だ」と言った。 だが、彼には秘密が多すぎるのだ。この塔で一緒に生活をするようになり早九年が過ぎ、もうすぐ十年が経とうとしている。だがその間に理解し得たものはほんの一握りだ。どんな小さなことでも知りたいと願っても、しかし彼は大きなことに限って話したがらない。見えそうなものこそ、彼は上手く隠すのだ。 不死の理由は未だ明かしてはくれなかったし、セラを必要とするその理由すらも、まだ彼女は知らされていない。 彼はとても素直だとセラは思う。これは過去に彼が他人に対しどのような態度であったかを知るか否かは問題にしていない。あくまでも彼女が自分対する彼を感じたままに表現しただけだ。 先日、初めて彼と唇を重ねた。 彼が心持ち精神が不安定な時、特に悪夢を見るという朝には抱き寄せられることが多かった。唇を重ねたこともおそらくその延長上のことなのだろう。少なくとも、セラはそう思うようにしていた。思わなければ、どうしようもなかった。彼とは違い、はっきりと愛情を自覚している彼女としては。 泣いているのかと訊ねるとあっさり肯定の返事が返ってきた。この素直さはもしかすると他では見ることのできない、彼の根底にあるものなのかもしれない。 しかし、その日から彼にはまた秘密が増えた。セラにもレックナートにも理由を告げず、書庫にこもることが多くなった。 ルックは今日も朝から姿を見せない。 だがセラがしなくてはならないのは彼を探しに行くことではない。自室でお茶の準備をして、彼が尋ねてくるのを待つことだ。 追いかけることはしない。ただ、疲れた彼が羽根を休める場で在りたいと思う。それだけだ。 最近レックナートが占うことといえば、ほとんどがルックの星巡りのことだった。 かつて赤月帝国の黄金皇帝を助けたと云われる彼女の絶対的な占い力が、今や一人の弟子のために注がれているなどと知ったら、どれだけの人間が滑稽なことだと思うだろうか。実際、彼女自身がそう思っているのかもしれない。 昔、忌まわしいハルモニアの中で見つけた一つの哀れな魂。たまらず手を差し伸べたものの、今となってはそれが正しかったのかどうかは彼女にはわからない。あの少年は、姿は変わらずとも青年になり、だが今も苦しんでいる。 先日予見したルックの周りに現われた二つの星はかつての天魁星だった。事実、その内の一人とは彼女自身が話をした。最後に言葉を交わしたのは十数年前だったが、彼はその当時と寸分違わぬ姿で現われた。ルックや自身と同様、真の紋章の呪いだ。彼の右手にはいまだソウルイーターが宿っていた。 「お久しぶりです、レックナート様」 そう言って礼儀正しくと頭を下げた少年はなんとも懐かしい声をしていた。数百年を生きる彼女にとって、十数年など取るに足らない時間だ。しかし彼の声だけはそう思わずにはいられないほど、耳の奥で深くこだましたのだ。 彼は長居をしなかった。もともとルックと話をするために来たらしいが、不在を告げるとあっさり去っていった。言付けを一つだけ残して。 レックナートには意味のわからない言葉だったが、ルックはすぐに理解したようだった。 これは後にセラに訊いて知ったことだが、あの日ルックは二度目の天魁星にも出会っていたらしい。 先日予見したルックの周りに動いた二つの星、それがかつての天魁星だと気づいたのはその時になってからだった。 彼が書庫にこもるようになったのはあの日からだ。 レックナートには大方その理由が見えていた。 彼女がハイランド県の小さな村に頼まれた占い結果、それにはハルモニアの進軍のことがありありと綴られていたはずだ。それをルックが開いたとは到底思えないが、情報くらいは拾ったかもしれない。ましてや、天魁星と再会したとなれば。 ルックは戦争を忌み嫌う。 戦争そのものを、ではない。でなければ彼はいくら星巡りとはいえ二度も戦争に参加したりはしなかっただろう。彼が忌み嫌うのはその遥か向こう、法と秩序の衝突が生み出す未来だ。戦争は間違いなくその未来へ進むための助走に過ぎない。 真の紋章の保持者でも、その未来を覗ける者はそういない。それは五行の紋章と呼ばれる、真の紋章の中でも火・水・雷・風・土を司るものの特徴だ。しかしいくら継承者とはいえ、よほど相性が合わなければその特性と引き出すことはかなわない。 ルックの場合、相性どころの話ではなかった。何といっても魂そのものが紋章に支配されている。 (――哀れな、紋章の子) レックナートはそう言って手を差し伸べたが、彼を創造した憎きあの人間は口にするのもおぞましい言葉を吐いたのだ。 失敗作、と。 ルックは紋章を憎み、未来を知らずにのうのうと戦を続ける世界を憎み、自らを創造した人間を憎み、そして自分自身をも憎んでいるのだろう。 (そして、おそらくあの子は私のことも…) 書庫で彼が何を探しているのかは容易に想像がつく。 彼は自らの魂を解き放つことによって、未来を変えることを願っている。 何度占っても良い兆しは見えない。 彼を救うには何をするべきか、もはやレックナートにもわからなかった。 「セラ……」 知らず呟いてしまう名前以外に頼れるものなどない。 レックナートはルックを救いたかった。 かつて手を差し伸べた紋章の子は、大切な弟子であり、我が子のようなものだ。 塔の中の書庫は決して広くはない。だが、縦に突き抜けるように出来ているため、量はどの王室付きの図書館にも劣りはしない。 当然、その膨大な量の本はどんなに手入れをしても埃をかぶってしまう。ルック一人がどう手入れをしようと、こればかりは仕方がない。風魔法で埃を飛ばせれば簡単だが、あいにくこの書庫には窓がなかった。自分が幼い頃は自分が、セラが幼い頃はセラが、使用していた小さな机と椅子も一緒に埃をかぶっていた。 思い返してみれば、実は昔から書庫にこもることはほとんどなかった。この塔に連れられてきたばかりの頃は読みたい本があればレックナートの部屋で、少し成長してからは自室で読んだ。書庫内に置かれた机と椅子もちょっとした調べものに使うだけで、長時間使用した記憶はない。 大体の本を読み終えたせいもあるが、セラを連れてきてもこの場所にこもることはなかった。彼女は化け物と呼ばれるのに相応しいほどの知識を最初から持ち合わせていた。本を必要としなかったのだ。…もっとも、ルックが出掛けた場合は、興味本位で本を片手に勉強の真似事をしながら彼を待っていたこともあったが。 「ここには無いとなると……やっぱり、ハルモニアしかないか」 ルックはちっと舌打ちをした。 できることならばあの国に足を踏み入れたくはない。 (うっかりあいつと顔を合わせたりしたら、どうするか分からないしね…) 僕が、と呟いた。 ルックは積み上げた本の上に体重をかけないように座り、溜め息をついた。 ここまで書庫を荒らしたことはなかった。おかげで頭からつま先まで埃まみれだ。たった今ついた溜め息で、また埃が舞い上がった。 ルックは軽くむせた後、書庫をぐるりと見回した。 ここ数日間で関連の本は全て探した。いや、実際はここ数日だけの話ではない。セラを連れてくる以前も探したことはあったのだ。――結果は今と同じ、何も収穫はなかったが。 自分が何をしようとしているか師は知っているはずだ。だから、隠したのかもしれない。しかしそれだけはあり得ないとも、一方で強く思う。 それほどレックナートのことを、ルックは信用している。しかし、それ以前に彼女は自分に甘いところがあるとルックは自覚していた。決して甘やかすような感覚ではない。近い言葉を捜すとすると――同情、哀れみ、そんなところだろう。 だがルックは、彼のプライドの高さから考えると驚くほどそれらを気にしていなかった。自分が最初、セラに向けた感情がそれらに近かったからだ。 (でも、今はやっぱり違う……) レックナートが自分に向ける感情、そして現在自分がセラに向けている感情、それらははっきりと違いがある。どこが違うのかと問われれば答えに窮するが、だが、頭では理解しているはずだ。 実際、セラに口づけたのは気まぐれな戯れではなかった。 理由は分かっているのだろう。だが、今はまだそれに目を瞑っていたい。気づかないふりをしていたい。――できることなら、計画が成功するその時まで。 「だって、この身体も魂も、僕のものじゃない」 ルックは呟くと片手で顔を覆った。埃くさかった。早く湯を使い、ゆっくりと休みたい。ハルモニアのことは後回しだ。 だが、休む前に行くべき所がある。 今日はまだ一度もセラの顔を見ていない。 「今日は朝から全然食事を取られていないでしょう? …心配しておりました」 セラはカップにいつものお茶を注いだ。 何の葉を使えばここまで良い香りがするのか分からなかったが、しかしあえてそれを問うことは一度もしなかった。 砂糖は入れない、しかし口に含むと何故か甘い。それがとてもほっとする。彼女は「普通のお茶ですよ」というが、ルックは一度も信じたことはなかった。 「ルック様、まだ髪が濡れております。 …このままでは風邪を引いてしまいますよ」 カップを置き、差し出されたタオルをルックは「ありがとう」と受け取った。彼は湯を使ったばかりで、髪がまだ乾いていなかった。 「…僕が風邪を引くといってもたかが知れてるけどね。 どうせ大したことにはならないし」 「でもレックナート様が心配されます。 当然、私もです」 「……そうだね」 ルックはほうと溜め息をついた。やはりセラの部屋は安心する。部屋の空気が安心するのか、彼女のそばが心地良いのかは分からなかったが。 セラはいつもと変わらずルックの隣に腰掛けた。あの日、唇を重ねたことはお互い何も言わなかった。だから、何も変わらなかった。セラはともかく、ルックはそれを救いと思ったかもしれない。 「――セラは僕が何を探しているのか訊かないんだね」 「訊いて欲しいのであれば訊きますが?」 セラはくすりと笑った。どうせルックは言うつもりはないのだろうということを、彼女はよく知っている。 だが、珍しくルックは真意を話した。ほんの、欠片程度だが。 「セラ、僕はね、僕の不死を解く鍵を探しているんだ。これ以上は言えないけれど…もしその鍵が見つかったら、きみに全てを話すよ。僕の紋章と、不死と、秘術と、全ての関係をね。その時には何を訊かれても答えることができると思う。 …きっと、それだけの勇気を持てると思う」 ルックはタオルを頭にかけ、俯いた。 彼が顔を隠すためにそうしたのかは分からなかったが、セラはそのタオルでルックの髪を静かに拭き始めた。毛先から水を吸い取るように、ゆっくり、ゆっくりと。 「ルック様、このままでは風邪を引きますと言ったでしょう?」 「セラ」 「……セラは何も訊きません。 あなたのそばで、その時が来るのを待っているだけです」 「…セラ」 「何も訊きません。 だから、ルック様も安心してご自分の道を進んで下さい」 やはり、この部屋は安心する。 右手が騒がないし、空気が広大な湖のように穏やかだ。 セラの声は優しく、タオル越しに髪を梳く彼女の手も温かい。 心地良すぎて、目眩がする。 「――ありがとう、セラ」 ルックは髪を梳くセラの手を取り抱き寄せた。 そして一瞬の逡巡の後、あの日と同じように静かに彼女の唇に口づけた。 まもなくルックの前髪からセラの瞼に水滴が流れ落ちたが、しかし瞳を閉じていた彼女には何の関係もなかった。 それから数ヶ月後、ルックの云う「鍵」を探す最大の機会が訪れた。 占いの通り、ハルモニア神聖国がデュナン共和国に向け進軍を開始した。後に「ハイイースト動乱」と呼ばれる戦だ。その戦地に、ハルモニアのササライ神官将も同行したというのだ。 これで、ルックがハルモニアに足を踏み入れたがらない理由が消えた。 BACK/TOP/NEXT |