懐 古 瞑 想 7







 力を持つことは実はそんなに重要なことではなかった。少なくとも、ルックはあれから間もなくそれに気づいた。
 要は力の使い方、つまり使う者の意思によってそれは左右されるということだ。彼としては目的のために力が欲しかったが、セラの存在でそれは必要なくなっていたし、何よりも自分にとって忌むべき力は使うべきではないことを知っていた。だから真の紋章を使いこなせるといっても、それを使う予定はルックにはなかった。せいぜい使えると言ったら、その能力を以って真の紋章の力を隠すことだけだった。これで、真の紋章の保持者だと悟られることはなくなった。
 そして、セラもレックナートも彼に対する態度を変えなかったことが、また一つの救いだった。
 特に、レックナートは門の紋章の裏側しか所有していない。つまり紋章の力といってもそれは不完全なもので、その使い方によってはルックとレックナートの間にある力の均衡は崩れることになる。しかしルックは門の紋章の力が自分に向けられることはないと知っていたし、レックナートもまた彼が力を解放することはないと知っていた。二人の関係がまるで変わらなかったことは、レックナート以上にルックが安堵した。
 セラに対してはルックもたくさんの話をした。特に誤解をされては困ると、自分の「不死」は彼女の考えている「不死」とは少し違うということは、彼女が完全に理解するまで何度も繰り返し説いた。
 セラの考える「不死」とは吸血鬼の始祖にかけられた月の紋章の呪いのようなもので、ルックは自分の場合はそれとは違うのだと言った。彼の場合は紋章という神がかり的なものではなく、人の手によって施された秘術のせいだという。数年も経つと、その秘術と彼の関係やそれを行った人物、そしてレックナートの存在や自分をこの塔に連れてきた理由、それが一本の線で繋がれているのだということがセラにも理解できた。
 ただ彼女にとって分からないことは、その秘術がどのようなものなのか、そして誰が何のためにその術をルックに施したのかということだけだった。
 レックナートはセラが十歳になる直前、ルックの不死の理由は時がくれば彼が自ずと話すことになると言った。ならば、今はまだその時ではないのだろう。彼女は二人を信じて、何も訊ねたりはしなかった。

 ――それが暗黙の了解になる頃には、あれから五年も経っていた。

 セラは少女から抜け出す年齢まで成長した。賢さの溢れ出る内面は当然のこと、傍目にも可愛らしさから美しさへと区別されるようになった容姿には、盲目のレックナートですらはっとさせられた。すらりと伸びた手足に儚げな細い首、真っ直ぐな金髪がよく映える白皙はまるで高貴な人形のようでもあった。頬の辺りにまだ幼さが残るが、成長の止まったルックと並ぶと年齢差はほとんど感じられない。
 人によっては、二人の間にある空気がとても微妙に見えることがあった。ルックも端整な顔立ち――本人は嫌悪しているが――のためか、二人は兄弟子と妹弟子というよりも似ていない兄妹、むしろ仲睦まじい恋人同士のように感じられることが多々あったのだ。――セラの海色の瞳とルックの翡翠のような瞳が、互いを映す時以外に緩むことがなかったからだった。

 後にルックが幸福であるという感情を理解した瞬間、真っ先に思い起こされたのはこの頃のことだったかもしれない。
 彼はセラがまだ何も訊いてこないことを言い訳にしながら「計画」に着手していなかった。セラが逃げずに傍にいてくれること、振り向けば微笑んでくれることが何故かとてもくすぐったかった。不思議と彼の目に映るもの、全てが明るかった。師もよく笑うようになった。もう風が完全に安定していると言われた。
「ルック」「ルック様」――名を呼ばれると胸のあたりが暖かくなった。
 しかし相変わらず悪夢に愕然とさせられることも少なくなかった。自分を名前ではなく「主」と呼ぶものが見せる未来。そのたびに「計画」とはなにか、と右手が嘲笑った。そしてルックは今のままでいいのかもしれないと思う一方で、やはり計画を進めなければというジレンマに襲われる。
 だが、彼はそのどうしようもない焦燥感を散らす対処法を知った。寝台から降りて、まず深呼吸をする。動悸が収まるまで何度もそれを繰り返す。その後は簡単だ。自室を出て、セラの部屋をノックすればいい。



 扉を叩く直前、ルックはこの娘は本当に眠ることがあるのだろうかと思った。しかしすぐに自ら首を振ってその疑問をなかったことにした。恐い夢を見るといって泣きついたのは、何も自分だけではなかったということを思い出したからだ。
 軽く拳を作り、その甲に突き出た部分で扉を叩く。こんこん、という鋭利な音はルックの線の細さを物語っていた。骨太な人間が同じことをしても、ここまで高い音は響かない。
「――ごめん、こんな時間に」
 それだけ言うと、扉がゆっくりと開いた。中からセラが顔を出すと、ルックは少なからずほっとした。彼女はお待ちしていましたと云わんばかりに、ルックを部屋の中央にある長椅子に案内した。
 音もなく腰掛け、一通り部屋を眺めてみる。どう見ても彼女がノックの音で慌しく起き出したようには見えない。実際、彼女が身に纏っているのは薄い夜着ではなく、普段着ている控えめな色彩のドレスだった。
 ついと首を窓の方へ向けると薄暗い空が目に映った。朝は近いのだろうが、窓の外では一羽の鳥すらも動く気配がない。
「この部屋はいいね。 静かだ」
 なんとなく視線をそのまま右手に落として呟くと、かちゃかちゃと陶器がぶつかりあう音とともにセラが隣に腰をおろした。お茶の用意をしてきたらしい。長椅子の前にある小さなテーブルの上にカップと揃いのティーポットを置いた。ポットの口からはふわふわと湯気が出ている。
「そうですか? 私はルック様のお部屋も好きですが」
 セラは言いながらカップにお茶を注いだ。ルックは「…セラがいる時は静かだけどね」とそれを手に取り、ところで、と前置きしてから
「――きみはいつも、まるで僕がこの時間ここにやって来るのが分かっているみたいだ」
と言った。
 そのまま唇を湿らす程度にカップに口をつけると、甘い香りが広がった。

 セラはルックが訪ねてくる理由を知っていた。彼は彼女に言えていないことがたくさんあったが、そういう点においては包み隠さず話すようにしていたからだ。ルックは悪夢に苛まれている。セラが彼を部屋に招き入れる理由はそれだけで充分だった。
 確かにルックがこの時間――決まって夜明け前だが――にセラの部屋を訪ねるのは少なくない。かといって、決して多いことでもないのだ。それなのに、いつやって来るのか分からない自分を、彼女はいつもこうしてお茶の用意をして待っている。ルックはそれが不思議だった。
「昔はルック様も私が恐い夢をみた時に起きていて下さったでしょう? それと同じことです」
「…あれはなんとなく、だよ」
「ならば私もなんとなく、です」
 ルックはセラの答えは答えになっていないような気がした。しかしここでにこりと微笑まれてしまうと、彼としても押し黙るしかない。
「――女性は恐いね。 きみもレックナート様に似てきたのかもしれないな。 僕は何も言えなくなる」
 セラは光栄です、と笑った。

 大抵、ルックがこうしてやって来る時は二人でお茶を飲みながら朝が来るのを待った。その間いろいろな話をする。魔法の話だったり、ルックの過去話だったり、内容はさまざまだ。ただ、一向にセラの過去とルックの紋章についてだけは、話題になることはなかった。
 話の途中で無邪気に「それは何ですか」と訊ねる少女はもういない。彼女は静かにルックの声に耳を傾け、たまに口元に手を当てて控えめに笑うだけだ。そのたびに、ルックはセラとこうして過ごすことが悪夢を忘れさせてくれるのだと実感した。
 時おり、セラは「今日はいい天気になりそうですね」と言うのと同じくらい気軽にルックに訊ねることがあった。今日もそうだ。
「やはり悪夢はお辛いですか」
 あまりにも自然な質問なため、ルックも思わず本音が出る。
「辛いよ」
 すると、セラは決まって悲しそうな顔をした。
 いつも同じ答えが返ってくると分かっていながらも、彼女は同じ問いを繰り返す。もしかしたら、いつの日か「辛くないよ」と返ってくることを願っているのかもしれない。
 こんな時、ルックは甘えているわけではない、と自分に言い聞かせセラを抱き寄せる。その行為に特に意味はない。強いていえば眠れない子供がお気に入りの人形を抱きしめれば安眠できる、その感覚に近いかもしれない。ルックは子供ではなかったし、セラも人形ではない。しかし、見る人によっては――誰も見たことはなかったが――そう感じることがあるかもしれない。ルックはともかく、少なくともセラにはそういう自覚があった。
 いつもはこのまま黙り込んでしまうルックだったが、今日は珍しく口を開いた。
「……でもこの悪夢のおかげで僕はセラと出会った。それならこの皮肉な運命にも感謝をしなくてはならない。 更に遡れば、全てを与えてくれたレックナート様にも、レックナート様を育んだ遠い空にも、海にも、木や花や草にも――…風にも。 世界は狭いのに広い、そして美しいのに残酷だ」
 感謝するものが多すぎるというのも困りものだ、と呟いた。声の質が少し柔らかい。眠気を含んでいるようだ。
 ルックの言葉はいつも端々が抽象的過ぎる。しかしセラももう全ての意味が分からないほど子供ではない。今の言葉で分からないのは一つだけだ。
「ルック様は、大地には感謝をされないのですか?」
 彼は空、海、木、草花、風と言った。世界を構成するもののうち、「地」だけを省いたことをセラは聞き逃さなかった。
 やはり睡魔が襲ってきているのだろうか、答えを返すルックの声は小さかった。
「大地だけはね、感謝しようにも僕とは相容れないものだし。 それに――」
「それに?」
「土は、愚かだ」
 ルックはゆっくりと目を伏せた。
 セラは彼が「大地」を「土」と呼び変えたことに小首を傾げたが、ルックはそれに気づかなかった。
「土は囚われていることに気がついていないんだ。地に根を下ろしたところで、そこが自分の居場所と信じて疑わず、運命を享受するだけの存在だ。愚かで――…哀れだ」
 ルックはセラの肩を強く抱くと、もう一度呟いた。
「そう、あいつは哀れなんだ……」
 それはまるで自分に言い聞かせているかのようで。
「――…あいつ?」
 最後に少しだけ引っ掛かる言葉を問い掛けてみたものの、すでに静かな寝息を立てている彼からは返事はなかった。
 セラもルックの肩に預けた体から力を抜き、ゆっくりと息を吐いた。

 そして彼と同じように目を伏せた。朝までもう彼に悪夢を与えないで欲しいと願いながら。







 時を同じくして、星見の間ではレックナートが近いうちにルックの周りで二つの星が動くことを予見していた。
 それが彼にとって吉と出るか凶と出るか彼女にはまだ分からなかった。そして、その星が天魁星と呼ばれたかつてのルックの星主たちであることも―――盲の彼女は悟ることができなかった。

「時が、近づいているのかもしれない」

 彼の魂はもう孤独ではないのに、とバランスの執行者は哀しく呟いた。















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