懐 古 瞑 想 6 主よ、貴方は愚かだ。何をそんなに怯えることがあるのか。 「うるさい、黙れ。 お前なんか恐くはないんだ」 そうだろうか、我が主よ。貴方はこんなにも震えているではないか。 「違う、僕が恐いのはお前なんかじゃない。 僕が恐いのは――…」 果てる世の未来とでも?違うな、貴方が恐れているのは我の力だ。 力を必要とする一方で、何故に我の力を拒む? 貴方が逆らおうと、足掻こうと、未来は変わらない。全ては無駄なことだとなにゆえ気づかぬ? 「…無駄なんかじゃない。僕は変えてみせる。 お前達に創られたこの憎々しい世界の結末を」 面白いことを言うではないか、主よ。 貴方が憎いのはこの世界か、それとも結末の方か。 創られたのはこの世界だけではないであろう。 なあ、創られた存在の主よ。 貴方は最高の器だ。 我のために存在するその器よ、貴方すら恐れる素晴らしき力を手にしたいとは思わぬか。 「誰もお前のために存在しているわけじゃない!」 そうであったな、我が主。貴方は自分が自分であるという証明すらできないのであったな。 「うるさい、うるさい、うるさい――――!!」 ああ、これが哀れまずにはいられようか、主よ。 笑わずにはいられようか、主よ。 貴方はこの力があってこそ、主であるという存在を証明できるというのに。 「――力は欲しい、でもお前は要らない。 お前を消すためなら、僕は魂すら壊してみせる!」 ああ、これが哀れまずにはいられようか、主よ。 「やめてくれ、哀れむのだけはやめてくれ…」 ああ、これが笑わずにはいられようか、主よ。 「やめてくれ、嘲笑うのだけはやめてくれ……」 我が主よ、貴方は知っているのだ。貴方の魂は我のもの。貴方が消そうと願っても、貴方の魂はどこにも存在しないのだ。創られた貴方は、どこにも存在できない。貴方は壊すことも、欲することもできない。貴方の望みは全て霧のようなもの。現実ではない―――哀れな笑い話だ。 「違う、僕だって欲しいものはある。 望むものだってあるんだ」 それは幻想だ、主よ。貴方の生は空ろだ。 「違う、僕の欲しいものは、望むものは――…」 もうすぐだ、主よ。貴方は我の器だ。 「器と呼ぶな、お前は要らない! 僕が欲しいのは、望むのは―――…!」 柔らかい何かが額にかかった髪を払っている。自分は頭を撫でられているのか、と気づくのに時間はかからなかった。 しかし一方で瞼はひどく重く、すぐには覚醒できないでいた。原因は分かっている。自分は血を流しすぎた。頭を撫でられている「何か」が誰の手なのか確かめる術もなかったが、しかし彼の口は、 「レックナート様……」 掠れた声で師の名を呼んだ。 気分は最悪だった。血を流しすぎたこともあるだろうが、久々に見た夢が原因であることは間違いない。朽ちる未来ではなく、右手と会話をする夢だ。そう、これは夢なのだと。しかしそう思う一方で、これは夢ではなく現実なのだと確信している自分が存在する。 ――最近は大人しかったのに、昨夜に限って声を聞いたりするから。 嫌な予感とは的中するものだ。「それ」はいつも、自分がもっとも弱いときに限り現われる。 彼は魂と絡みついている「それ」と話すと、まるで自分の魂と話しているかのような錯覚を覚えた。否、錯覚ではなかった。だから、気分が悪くなるのだ。自分の魂は痛いところを平気でえぐる。つまり、自分は自分で傷を増やしていることになる。それもまるで他人事のように、だ。 「それ」が右手に宿る紋章の声だと知ったのは、一体いつの頃だっただろうか。「それ」はいつも正しかった。 「ルック……」 優しい声で名を呼ばれると、彼はようやく目を開けることができた。視界は霞んでいるが目の前にあるのは確かに師の顔だった。自分の頭を撫でていたのもやはり師の手だった。 「申し訳ありません…また、手をわずらわせてしまいました……」 まだ首を動かすことはできないが、ほぼ全身に包帯を巻かれていることは分かる。痛みはない。あるのは脱力感と、少しの後ろめたさ。怪我の治療をしたのがレックナートであることは想像に難くない。 しかし彼女はただ黙ってルックの頭を優しく撫で続けた。いつもは懐かない子猫のような彼も、今この時だけは大人しかった。彼の方もまるで子供扱いだなと自覚する一方で、しかし少しも羞恥心を感じたりはしなかった。 「…ここまで力を解放したのは久しぶりでした。 六年前にあいつを追い払った時以来かも」 「ルック」 「――分かっています。あの時は僕と同じモノであるあいつの存在が力を増幅させただけだ。それに気づかないあいつはやっぱり愚かだとは思うけど、でもさすがにあれだけの力は一人では引き出せませんね…」 「ルック!」 撫でる手を止め、レックナートはきつい声でルックを嗜めた。 しかしルックはそれに驚きもせず、分かっています、と再び呟いた。 「…こうして真の紋章の力を受けても、僕が死ぬことはない。受けた者が普通の人間ならば間違いなく死んでいる力なのに、です。 僕がこの紋章の力を使いこなせていない所為もあるのでしょうが、何よりもこの紋章そのものが僕の死を許してくれません」 ルックはそこまで言うと、大きく息を吐いた。 やはり体力が回復していないせいか、少し喋っただけで疲労感が増す。血の足りていない白い顔はまた少し青くなったかもしれない。 レックナートは再び彼の頭を優しく撫でた。 「――ルック、セラはあなたが不死であることを知っていますよ」 瞬間、ルックの表情が強張った。 それは昨夜レックナート自身がセラに伝えた真実だったが、彼女はあえて伏せていた。 「あなたが倒れた時、気が狂うのではないかと思うほど泣いていましたよ。 …今は泣き疲れて部屋で休んでいますが」 「…おかしな話です。僕が死なないと知っているなら、何故泣く必要があるんだろう。 どんなに痛めつけても死ぬことはないのに」 「本気で言っているのですか」 「――冗談ですよ」 ルックはそれ以上、何も言わなかった。否、言えなかった。もうひとたび口を開いたら、きっと涙が出てしまう。理由は分からないが、何となくそんな気がしたからだ。 レックナートはそれを知ってか否か、撫でていた手を戻すと彼に背を向けた。 「何故あなたがこのようなことをしたのか、私は何も言いません。 あなたはまだ休養を必要としているでしょう。 …何か望みはありますか」 ルックからの返事はなかった。 しかし、それならば、と彼女が姿を消すほんの少し前、彼の呟きにも似た微かな風が耳をかすめた。 「セラに会いたい」 そう聞こえた。 セラが珍しくノックもせずに部屋に飛び込んで来たのは、わずか数分後のことだった。 「ルックさま――!!」 彼女が寝台のそばまで来ると、ルックは弱々しくも微かに笑った。 彼が笑うといつもは恥ずかしそうにはにかむ彼女だったが、今回はくしゃりと顔を歪ませた。目の周りは真っ赤に腫れ上がり、長い睫毛についた雫は未だ乾いていなかった。 セラはスカートをぎゅっと握ると、肩を震わせて言った。 「ルックさま、セラはルックさまを失ってしまったら、生きてはいけないのです」 「…君も知ってのとおり、僕は死なないから大丈夫だよ」 「それでも、セラはルックさまとずっと一緒にいたい。 わがままと思われてもいいです」 「セラ?」 「ルックさま」 セラの大きな瞳から、ぽたりと雫が落ちた。 「お願いルックさま、セラを置いて行かないで――…」 その雫が一つ、また一つと床に落ちる様がやけにゆっくりと見えた。そして、考えるよりも先に手が動いた。ルックはいまだ重く感覚の戻らない腕を伸ばして、セラの頭を抱き寄せた。 「大丈夫だよ、セラ」 呟くと、セラは声を上げて泣き出した。そして耳もとでごめん、と呟くと何度も首を横に振った。 自分が不死であることを知ったらセラはどうするだろう、とルックは考えていた。掛値なしに自分を慕うこの少女が、自分の忌まわしい真実を知ったらどうするだろうか、と。 不死の理由までは知らなくとも、この娘はやはり自分から離れようとはしなかった。 出会いは別れで、別れは出会いではないと悟るルックも、今はセラと出会ったことだけは別れに続く道だと思いたくなかった。 「セラ、よく聞いて」 「…はい」 収まらない嗚咽をそのままに、セラは体を起こした。 「僕がこうして自分に対して力を解放したのは、実はこれが初めてというわけじゃない。僕は何度も自分が死ねるか試したことがある。…全て無駄だったけどね」 セラの睫毛が微かに震えた。 「…僕は弱いから、不死の宿命が辛かった。 でも僕はその宿命よりももっと信じたくないもの視てしまった。僕はそれを直視できない。 そして、それを変えたいと願った」 セラは、ルックの言うことがまるで雲をつかむような、とりとめのない話のように感じた。言っている意味が分からないわけではないが、要点がつかめないでいた。 ルックはそれを知った上で話しているのだろうか、決して分かりやすく説明しようとはしなかった。 「セラ、君がかつて呼ばれたように僕も化け物なんだよ。いや、どちらかと言えば恐ろしいことを平気で考える悪鬼かもしれない。 しかしその考えをどう使えばいいのか、僕にはまだ分からないんだ」 「ルックさま…?」 セラの瞳が不安げに揺れると、ルックは何かを言おうと息を吸ったが、それはなかなか吐き出せなかった。しかし数秒の沈黙のあと、目を伏せながらその息をゆっくりと吐いた。 「――セラ、今からきみに空間転移の術を使うことを許そう」 「…え?」 「きみは僕から逃げてもいいよ」 瞬間、全ての時間が止まったような緊張が走った。 その緊張は窓の外の風だとか、部屋の中の空気だとか、それら一切の流れが停止したかのような沈黙だった。 ルックの瞳は伏せたままで真意を語らなかったし、セラの嗚咽もいつの間にか止まっていた。ただその言葉だけがその場を支配していた。 ――時間を再び動かしたのは、小さな白い手だった。 「ルックさま」 セラの手が、ルックの頭をゆっくりと撫でた。それは、奇しくも先程のレックナートと同じように。 ルックも少し驚いたのかもしれない。伏せていた目を開けた。 「セラは、いつも、いつまでもルックさまのおそばに」 彼の目に映ったセラは柔らかく微笑んでいた。彼女の目の周りはやはり真っ赤で、睫毛も濡れたままだった。しかしルックの中ではそれが、それこそが自分の中の衝動を突き動かすものであり、自分が知りたいと思っていたセラの答えだった。 ルックは今度こそ、涙がこぼれた。やはり理由は分からなかったが。 「セラ、僕は今朝一つだけ嘘をついたよ」 「何を、ですか?」 「―――きみの誕生日でも、僕には空が青く見えない」 セラは彼の涙にも言葉にも動揺することもなく、そうですか、と小さく返した。彼女がそれをどのように受け取り解釈したのか分からなかったが、しかしルックはそれでもいいと思った。 セラの優しい声と柔らかい手がある。今のルックはそれだけで何かが満たされた気がしていた。 異変に気づいたのは翌朝になってからだった。 様子を見に来たセラでさえも、それに気づいた。 「ルックさま…」 不安と恐怖が入り混じったような表情で彼の右手を凝視する。 ルックは乾いた笑いを漏らした。淡々と、まるで他人事のように。 「……セラ、どうやら僕は真の紋章を使いこなせる力を手にいれたらしいよ」 耳もとで声がした。 「主よ、貴方が欲するのは声や手ではない。我の力だ」 右手の呪いは、どこまでも彼を嘲笑い続ける。 やっと、力に成り得る別のものを手に入れたと思ったのに。 BACK/TOP/NEXT |