ばかばかしいと思っていた笑うという行為に、何の違和感も感じなくなったのはいつからだったか。 数年のロスは計算のうち、一体いつまで自分にそう言い聞かせるつもりなのか。 そんなことを考えていても、時間はあっという間に過ぎ去るものだ。 何も癒えずに、悪夢は常に自分を苛み続けているのだ。 昨夜、久々に声を聞いた。 「主よ、もうすぐだ」 右手が疼いた。 懐 古 瞑 想 5 ルックがセラの誕生日としたのは初秋の頃だった。まだ日差しは強かったが、しかし空は澄んで高かった。それは彼が彼女を連れて来た日も同じことで、不思議なことにそれは毎年変わることはなかった。 その空を見るのもこれで四回目、セラは十歳になった。 そろそろか、とルックは空を仰いだ。 今、彼はセラとともに塔の外に出ていた。散歩のつもりでもなく、また魔法の修行の一環でもない。彼は朝から一つの決心をしていた。 「セラ、今日も空は青いね」 「…はい」 ルックの何でもない一言に、セラは思わず肩を竦めた。彼が何故こんなことを言うのか不思議に思ったからではない。また、何故この場所に連れ出されたのか疑問に思ったからでもない。 ―――セラは昨夜、人間としての感情を一つ学んだばかりだった。 「あなたも明日で十歳ですね、セラ」 それは日付が変わる少し前、真夜中のことだった。セラはレックナートに呼ばれた。 呼ばれたといっても、いまだ空間移動の術を禁じられている彼女に塔の最上階まで登ってこいと命じたわけではない。レックナート自身が彼女の部屋を訪れたのだ。 そもそも子供であるセラがその時間に起きているはずがなく、名を呼ばれた時、彼女はシーツの中で夢うつつの状態で目をこすった。 「レックナートさま…?」 「セラ、起きなさい。 ルックのことで話があります」 静かだがよく通るレックナートの声は一気にセラを覚醒させた。もっとも彼女の目を覚まさせたのは、レックナートの声というよりもルックという単語だったのかもしれないが。 「ルックさまのこと、ですか?」 「そうです。 一つだけ確かめておきたいことがあるのです」 セラは起き上がり、夜着の皺を伸ばすようにして姿勢を正した。 「――こんな時間にごめんなさいね。 昼間のあなたはいつもルックと一緒だったものだから」 「いいえ、それはいいのですが……ルックさまに聞かれては、何か問題なことでも?」 レックナートは肯定とも否定ともつかぬ曖昧な笑みを浮かべた。 「あなたがルックに出会ってから、明日で四年もの時間が経つことになります。 その間、あなたはたくさんのものを学びましたね。最初から持ち合わせる膨大な知識に加え、世界の知識、そして私やルックのことをたくさん……」 セラは首を傾げながらも、はい、と答えた。何故この人はこんなことを言い出すのだろう。そんなことが頭をよぎったが、答えを急いてもいいことはあまりない、これもこの塔に来てから学んだことの一つだ。セラは話の続きを待った。 「…あなたは賢く、全てを理解しました。 しかしルックのことに関しては、知り得ているようで、実はそうではないのです」 「え?」 訝しがるセラをそのままに、レックナートは窓を開けた。 柔らかな、少し冷たい風が入ってきた。夏も終わり秋が来る証拠だ。海に囲まれた地形の割に、この風は水分を含んでいない。明日は例年通り晴天なのだろう。星が瞬き、月も高い。 「ここは周囲を海に囲まれた魔術師の島、そして更に結界も張っています。…何故だと思いますか?」 セラはこの質問とルックにどのような関係があるのか見当もつかなかった。しかし、 「レックナートさまの門の紋章を狙う者がいたためにこのような措置を取った、と…以前ルックさまがおっしゃっていました」 と答えた。以前、塔を囲む森に一人で入ろうとしたところ、ルックにきつく止められたのだ。ここは結界の他にも侵入者を惑わす魔法をかけてあるから、一人で入るのは非常に危険だと。その侵入者は十中八九、門の紋章を狙っている者なのだと。 「そうです。私の紋章は27の真の紋章の一つ、門の紋章。これを奪われてしまえば、瞬く間にこの命は尽きてしまいます。しかしバランスの執行者として、それは何としても避けなければなりません。私は死を許されない身なのです」 「――真の紋章の保持者は不老であっても不死ではないのでしょう? レックナートさまをお守りするためにはこの結界が必要です」 「その通りです。 私は不老であっても、不死ではありません」 セラはこの言い方に何か違和感を覚えた。自分が「真の紋章の保持者は」と言ったのに対し、この人は「私は」と言った。――嫌な予感がする。 「……ルックさまもそうなのでしょう?」 喉の途中から絞り出したような声は、少し震えていた。 ルックが真の紋章を宿していることは、出会った瞬間から知っていた。差し出された右手からは隠そうにも隠しきれないほどの力が溢れており、それは彼がまだ真の紋章を使いこなせていない証拠でもあった。――彼は真の紋章の保持者として未熟だったのだ。 少年の姿をした青年が、これ以上老いることがないことを知ったのはもう少し後のことだった。しかし、その時はこれと云って改めて感じるものは何もなかった。幼さゆえといえばそれまでだが、それ以上に、ルックという存在が未だ自分より遥か遠くに在るものだと感じていたからだろう。 しかしそれを通り越してしまうものがあろうなどとは、考えもしなかった。否、考える必要もなかった。偉大なるレックナートですら不死ではないのだ。本人もたった今そう言ったばかりだ。 「…レックナートさま、ルックさまも同じなのでしょう?」 同じ問いを繰り返し縋るように見上げてくるセラの頭を撫で、しかしレックナートはきっぱりと言った。 「―――簡潔に言いましょう。 ルックは私と違い、不老であり不死です」 セラは一瞬、目の前が真っ暗になった。それは突如現われた途方もなく大きな穴に後ろから突き落とされるような感覚を伴っていた。 「……な、ぜ…ですか」 「その理由は私の口から言えません。 時がくれば、あの子が自ずと話してくれるでしょう」 セラはそんな、と呟き俯いた。 真の紋章持ちは呪われている、とルックはよく言った。不老とは決して良いものではない。人生がただ通り過ぎるのを傍観し、それを幾重にも重ねていくだけだ。出会いは別れで、別れは出会いではないことを嫌でも悟る。追うことは許されず、全てのものに置いていかれる。そしてそれでバランスを保つ。――真の紋章を継承した者は、死ぬまでそれを繰り返すのだと。 無論このバランスの執行者も不死ではないが、死を許されていないのだから同じことだろう。彼女もまた役目が終わるまで不死でなくてはならない。だからこそ、この結界の中に身を置いているのだ。 ではルックはどうなのか。彼は何かの役目を負っているのだろうか。そもそも、何故彼はレックナートのもとにいるのだろうか。いつからいるのだろうか。彼に親はいないのだろうか。彼はどこで生まれたのだろうか。紋章を宿したのはいつの話なのだろうか。 セラは愕然とした。自分はレックナートの言うように、ルックのことを何も知らなかったのだ。彼の云う呪いは、切れぬ鎖となって絡みついているなど気づきもしなかった。一緒に過ごすようになってから四年も経とうとしているのに。 「――ルックがあなたをここに連れてきた理由に、これが関係しているはずです。 しかしまだ彼に星は宿らない――…時は満ちていません。 あなたが彼の真実を知るのはまだ先のことになるでしょう。 だからその前にセラ、私はあなたに確かめておきたかった」 セラは顔を上げた。そういえばこれが本題だったはずなのだ。レックナートは最初にも確かめたいことがあると言っていた。首を傾げると、 「――あなたはルックを好いていますね」 と、拍子抜けするほど答えの簡単なことを問われた。セラは即答した。 「はい、もちろんです。 私はルックさまもレックナートさまも大好きです」 百万回訊ねられても、百万回ともこう答えるだろう、とセラは思った。この二人を嫌うなどと考えたこともない。しかし、レックナートは「ありがとう」と前置をしながら苦笑した。 「しかしセラ、おそらくそれは少しだけ違いますよ」 「……?」 意味が分からないセラはどう返せば良いかも分からない。その様子を悟ってか、レックナートは困ったように少し笑った。 「そうですね…例え話をしましょう。 私もルックも、紋章を持たぬ普通の人間であったとします。 私が死んだら、あなたはどうしますか」 セラは質問の真意までは理解できないものの、ぽつりと答えた。 「きっと……悲しくて悲しくて、泣くと思います」 「ではルックが死んだなら、あなたはどうしますか」 思いがけない切り返しだった。ルックの死――? セラは少し考えた。彼は不老であることすら呪いなのだと言ったのだ、不死を望んではいないだろう。ならば死を望んだことがあるかもしれない。しかし―――ルックの死、それはあの温かな手を差し出されることがないということ。名前を呼んでくれる優しい声を耳にすることができないということ。戸惑いながらも目を合わせて笑ってくれるということがないということ。何よりも、もう傍にいることができなくなるということ。 セラは自分の中で行き着いた答えに唇を噛んだ。 「レックナートさま……わたしはルックさまがいなければ生きていけません」 自分と彼の望みはかけ離れているかもしれない。おそらく不死という運命は彼を苦しめるだろう。しかし、自分はやはり彼を失いたくないのだ。彼の役に立ちたいと思いながら、もしかしたら全く逆のことを願っているのかもしれないのだ。それでも、それでもセラには一度知ってしまった幸せを手放す勇気などどこにもなかった。 レックナートは今にも泣き出しそうになっているセラの頭をゆっくりと撫でた。 「セラ、それでいいのですよ。あなたの私に対する感情とルックに対する感情は明らかに違う。私はそれを確かめたかった。――あなたはルックを愛してくれているのですね」 「…よく、分かりません……」 「理屈はいいのです。 あなたがルックを想う感情、それを愛情と呼ぶだけのことですから。 ただ私はそれをあなたに自覚して欲しかった。 いつか、あの子の真実をあなたが知った時…その時にその愛情で全てを受け入れてもらうために」 レックナートはそう言うとセラを手招いた。覚束ない足取りで窓際まで来ると、ふと風が優しいことに気づく。 「――…あの子はとても優しい子です。だからこの塔の風もとても優しい。 しかし、それと同時にとても弱い子でもあるのです。 セラ、あなたもいつまでも守られているわけではありません。 あなたもどうか、あの子を守ってあげて下さい……」 レックナートはまじないのようにセラの髪に口付けを落とすと、そのまま姿を消した。 残されたセラは一人窓の外を眺め、静かに日付が変わるのを待った。風はいつまでも優しかった。 セラは自分のルックに対する感情に特別な名前があることを学んだ。 優しい風に吹かれ、一人考えたのだ。ルックという存在が自分にとってどういうものなのか、そして何をもたらしたのか。すると、何度考えても答えはその名前のある感情に行き着くことに気がついた。レックナートに対するものとは全く違う感情。それが、今のセラの胸の中にはあった。 そして今、ルックを目の前にしてそれはますます強くなっていた。 「―――セラ、僕はこれからあることをする」 「はい」 「とても愚かなことだ。でも僕にとって、そして君にとっても大事なことなんだ。 僕は今から一つの現実を君に突きつける。 …僕はその時の君の反応を知りたい」 「はい」 会話自体はいつもの魔法の修行のやり取りのようなものだった。外に出て少し大きめの力を解放するのだろうか、セラにとってはその程度の認識だった。 しかし、次の瞬間にセラは自分の考えの甘さを後悔した。 ルックは真の紋章を隠していた皮手袋を外すと、突然詠唱を開始したのだ。 「我が右手に宿りし真なる風の紋章よ、主の声にてその力を示し―――」 瞬間、彼の右手より渦巻くような風の刃が出現した。風の紋章で生み出されるものとは桁違いの力だ。 真の紋章の力――暴挙なまでの強大なそれは、セラの何かをしなければという思考の一切を奪い去った。 そして、詠唱の終わりに愕然とした。 「―――…我が身を切り裂け」 凄まじい轟音とともに風の刃は容赦なく詠唱者の身に降り注いだ。 飛び散る赤い血、雲一つない澄んだ青空。 鮮烈な色彩のコントラストが視界に歪み、後に残ったのはセラの悲鳴だけだった。 『わたしはルック様がいなければ生きていけません』 BACK/TOP/NEXT |