心配になったわけではなかったが、朝から書庫に篭りきりな彼女の様子を見に行ってみることにした。 書庫の中には子供用の小さなテーブルと椅子―もともとはルックが幼い頃に使用していたものだ―があり、彼女はそこに腰掛けていた。 机の上に立てられた大きな本は彼女の顔をすっぽりと隠していた。その向こうからくぐもった笑い声が聞こえる。 「――嬉しそうですね、セラ」 訊ねてみると、本の横からひょっこりとセラが顔を出した。そして恥ずかしそうに、しかし幸せそうに大きく頷いた。 「ルックさまが、今日をセラのたんじょうびにして下さったのです」 懐 古 瞑 想 4 「君の誕生日はいつなんだい?」 今日のルックの朝は早かった。師の使いで遠出をすることが決まっていたからだ。 数ヶ月前と違い、今の彼はセラに黙って出て行くことはしない。しかしこのように出掛けるのが早朝の場合、彼としてはできるだけ彼女を起こさないようにしていくつもりだった。予定は前日の内に告げ、見送りは要らないということも説明する。しかし、大抵の場合それは無駄に終わった。準備を済ませて部屋の扉を開けると、 「ルックさま、おはようございます」 ――セラは控えめな声で、そしてやはり控えめな笑顔で迎えてくれる。 どうせ今日も同じことだろう。目を覚ましたルックが最初に思ったことがそれだった。 軽く身支度を整えた後、彼女の名を呼んでみると案の定すぐに返事が返ってきた。溜め息混じりに 「入っておいで、セラ」 と言うと、扉がゆっくりと開いた。セラが細い隙間から遠慮がちに顔を出した。申し訳なさそうにしていたものの、ルックが手招きをした途端、ぱぁっと表情が明るくなった。 「おはようございます、ルックさま」 声はやはり控えめだったが。 ルックが誕生日のことを持ち出したのは、この時だったのだ。こうしてセラに迎えられて送り出される、そんな朝はこれで何回目だろうかという話がきっかけだった。 「特に数えてはいなかったけどね。でもセラがこの塔に来て、今日で一年だから…」 結構な数だろう、そう続けようとしてルックは自分の言葉にはっとした。クリスタルバレーにある宮殿の最奥で化け物と呼ばれる存在に手を差し伸べたのは、今から丁度一年前のことだったのだ。 「そうか、もう一年か……」 何気なく呟くと、セラもそうですね、と頷いた。彼女の方は忘れていなかったらしい。 「今までずっと気にしていなかったけど、セラは六歳だったよね――君の誕生日はいつなんだい?」 確かルックがセラを連れ出した時、彼女は六歳だったはずだ。しかしあれから一年も過ぎたのだから、今は間違いなく七歳になっているはずなのだ。ルックはそんな当然のことに、今の今まで気づかなかった。 しかしセラは困ったように首を傾げ、わかりません、と答えた。 「――分からない?」 「はい」 驚異的な魔力を秘めているとはいえ、セラは普通の人間だ。特殊な生の受け方をした自分とは違い、産声を上げた正式な記念日があるはずなのだ。しかし、 「セラはたんじょうびを知りません。小さなころからずっとあのおへやにいたので…ろくさい、というのもしんかんの方が言っていただけで、セラもほんとうはいくつなのかわからないのです」 表情一つ変えずにそう言ってのけるセラを見ると、ルックは居た堪れない思いに駆られた。 そして、ふと十数年前の自分を重ねた。 ―――貴方は今日から… 記憶にあるのは、優しい声と、圧倒されるほどの雪景色。そして、何故か涙が止まらなかった自分。 そういえば初めてセラを見た時に、彼女の放つ色彩に微かな驚愕を覚えた。それは、あの時の自分が記憶に宿した雪景色を思い起こした所為だったのかもしれない。 白く、白く、眩暈がするほどの透明で曇りのない世界。 あの頃は灰色な未来など何処にも視えはしなかったのに――― 「――ルックさま?」 はた、と我に返る。セラが小首を傾げながら服の裾を軽く引いていた。 ルックの中で、たった今蘇った記憶の中の雪の白さと、一年前に無表情で手を握り返してきた手の白さが一気に駆け巡り、それが捻れて混ざり合う。そして最後には一つの輪郭を描き出した。 ――今、自分を見上げているセラだ。きょとんと自分を見上げてくる彼女は一年前と何も変わっていない。相変わらず白く、透明で、無垢だ。 「セラ…」 ルックはセラの目の高さまで屈んだ。目を合わせると、セラがくすぐったそうに笑った。 それにつられたのか彼も僅かに目を和らげ、そして彼女の髪を梳くように撫でながら言った。 「今日を、今からを君の誕生日にしよう。 実年齢はそのままにするとして、一年前の今日、君は新しく生まれ変わったんだ。 ――…セラ、君はたった今から七歳だよ」 日が沈んだのはすでに数時間も前のことで、星見の部屋は淡い月明かりに照らされていた。 風の起こらない静かな夜だったが、ふと塔の周囲の木がざわめいた。瞬間、部屋の入り口の空間が微かに歪み、光を発したかと思うと――中からすらりとした人影が現われた。 「ただ今戻りました、レックナート様」 一瞬部屋の明るさが増したが、彼が音も立てずに開いた空間を閉じると、淡い月明かりだけが残された。 「――ご苦労でしたね、ルック」 「いいえ、大したことはしてません」 師の労いの言葉も、ルックにとっては特に意味のあるものではない。そっけない返事もいつものことだ。 彼の自尊心は非常に高い。昔から我慢強く意固地な所があったが、特に一つの物事をこなすことに関しては必要以上のそれを持つきらいがあった。そのせいか、彼が仕事をしくじることは全くと言っていい程、ない。 「万事支障はありませんので、ご安心を」 そう言うと、ルックは一歩下がり軽く頭を下げた。――仕事の事後報告を終え部屋に戻る前の一礼だった。 いつもはそれでルックの仕事は終わり、レックナートも特に何も言わず彼が部屋を出るのを見送るのだが、しかし今夜は違った。 「ルック」 師に名を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げた。 「――私が貴方をここへ連れてきたのは、とても寒い雪の日でしたね」 ルックはああ、と苦笑した。師が何を言いたいのかを瞬時に理解した。 「覚えてますよ、忘れたことなんて一度もない。 僕がこの世に生を受けて、初めて色を感じることができた日です」 「ルック…」 「そしてレックナート様、あなたが僕に新しく生まれ変わるようにと、誕生日というものを授けて下さった日だ」 レックナートが幼いルックを「紋章の子」と呼び手を差し伸べたのは、奇しくもセラと同じく彼も七歳、否、生を受けて七年目のことだった。 自由に自由を学べ、その言葉と共に彼女はもう一つ彼に与えたものがあった。 「貴方は今日から生まれ変わるのですよ。強く、強くお成りなさい。紋章の子よ、貴方の風は自由です」 生まれ変わるということ、自由ということ、それらに突き動かされた衝動が、熱い雫となって頬を伝うのを、彼はただ淡々と感じていた。 そして何故か霞む瞳に真っ先に飛び込んできたものが、彼女に連れ出された外の世界――強烈なまでの白、雪で彩られた銀世界だった。 「あの衝撃は今もこの胸にあります。 あれが僕にとってどんな意味があったのか、それはまだ分かりませんが…でも、あなたが僕に新たな道を授けて下さったのは確かだ」 これでも感謝しているのですよ、と小さく呟いた。 「しかしルック――…今度は貴方がセラにそれを授けた」 「……」 「喜んでいましたよ、あの娘は」 「…知っています。 僕もそうだったから」 ルックは静かに目を伏せた。 師はいつも多くを語らない。しかし、その限りなく優しい声は嫌というほど頭の芯に響き渡る。昔は彼女に占ってもらう際に、この声で発狂した者もいたくらいだ。そういえばかつてトランの英雄と呼ばれた少年も、彼女の予言を受けて茫然としていた。 ルックはこの声を耳にしながら、生きてきたのだ。 人を救いもするが、破滅に導きもするこの声を聞きながら。 「――本当はセラが生まれたのは冬なのではないかと、そんな気がします。 しかし九ヶ月ほど前、でしたか。僕が一人で外に出ていて…帰ってきた時にあなたは仰った。 セラは僕にとって何なのか、と」 それはセラがルックが出て行くのは自分のせいではないか、と嘆いた日のことだ。 あの日ルックが帰ってきたのはセラが休んでから間もなくだった。 「僕は答えなかった。答えはあったのに、それを口にするにはまだ早い、そして勇気が足りないと思ったから。 でも――」 「でも…?」 レックナートはその続きの言葉を知っているようだった。しかし一度促しただけで、後は表情一つ崩さずルックの言葉を待った。 やがて彼はその言葉を言うのに少しばかり逡巡したが、しかし瞳をあけてはっきりと言った。 「でも、その答えは間違っていたのかもしれない。 口に出さなかったのは正解だったのかもしれない……だから彼女にも僕と同じように、誕生日を与えられる喜びがあってもいいと思った。 でも僕はそれが冬であることだけは絶対に…絶対に嫌だったんだ!」 最後は半ば吐き捨てるような声だった。 そして一呼吸整えると、微かに目を伏せた。その静かな仕草が、彼を堪らなく孤独に見せた。 「――…レックナート様、僕は今日確信したのです。 セラの白さは雪とは違う。一年前のあの日も九ヶ月前の晩も、彼女の手は変わらずとても温かった。 …寒いのは僕だけでたくさんです」 ルックが去って、星見の部屋には再び静寂が訪れた。 その中でバランスの執行者はただ一人、数ある未来の内、もっとも過酷なものを盲た瞳に映していた。それは、一年前に映したものと同じもの。 セラによって、彼は大きく変わりつつある。そして彼もそれを自覚している。 しかし――― 「やはり、私にあの子を救うことは難しいのかもしれない」 レックナートのこの声は誰を救うことになるのか。誰を破滅に導くのか。 ルックの魂は未だ孤独のままだった。 BACK/TOP/NEXT |