それは目も眩むような真っ白な空間で。 冷たい床に座り込む自分に、暖かい手を差し伸べてくれる「人」がいた。 その「人」は、自分の手もその床と変わらず冷たいものだと言った。 そんなことはありません、あなたの手の温かさは私の救いです。 いくら言っても、その「人」は哀しそうに笑うだけ。 セラは、いつもそこで目を覚ます。 その夢を見ると彼がいなくなるという事実に気づいたのは、一体何度目の時だっただろうか。 懐 古 瞑 想 3 魔術師の塔に住人が増えたからといって、生活の何もかもが変わるわけではなかった。 相変わらずルックはレックナートの下で魔力のコントロールをする修行を続けていたし、彼女の出した「自由に自由を学ぶ」という条件も生きていた。 おかげで、時折ルックはセラを置いてふらりと姿を消す。 「レックナートさま、ルックさまは今日もおかえりにならないのでしょうか…?」 セラがレックナートのもとへやって来たのはすでに陽も高くなってからのことだった。姿の見えないルックを探し始めたのは早朝だったが、これが例のことなのかと確信するまでに時間がかかってしまった。 星占のため塔の最上階にいるレックナートのもとへ行くには、螺旋状に伸びた気の遠くなるような階段を使うしかない。通常ならばルックの転移術で移動するのだが、今日はその彼がいない。 ルックが空間転移の術を禁止した日から、セラは一度も術を使ったことはなかった。 「これで、四度目です」 そう言って哀しそうにしかし諦めたように目を伏せる仕草は、とても六歳の少女のものとは思えない。 レックナートは苦笑しながら、セラを手招いた。 セラがこの塔にやってきて、三ヶ月が過ぎようとしていた。 その間、ルックの姿は常にセラの隣に在った。それはもう、以前の彼を知っている者ならば飛び上がって驚くであろうほどに、だ。 他人に干渉することを嫌い、その逆もまた然り、それゆえに独りでいることを望んだ少年。かつてはその彼の心に留まる選ばれた人間もいたが、それも結局は過去の話だ。 そのルックが一人の人間にひどく興味を持つことは、師であるレックナートにとっても喜ばしいことだった。誰に対しても心を開かない少年が緩やかに殻を脱ぎ捨ててゆく、その変化を彼女は母にも似た思いで眺めていた。いっときは黒く染まりつつあった弟子の風、それがセラという少女の存在によって一瞬で浄化されたのを感じて以来、それは日に日に高まっていった。 しかし、だからといってルックが全てをさらけ出しているわけではないことも知っていた。あのとき――セラを連れてきた日――流した涙は彼の本音であり、おそらく「それ」は癒えていないのだろう。そもそも彼がセラを連れてきた理由そのものに、深い憎悪の感情があったのだから。 ルックが与えられた「自由」を行使するのは当然のことで、それについてはレックナートも詮索するようなことは一切しなかった。姿を消すのも彼の「自由」だ。ただ気になるのは、セラという清い存在を置いていくということ。 (―――あの子は自分が変わってゆくことを恐れているのかもしれない) 真なる紋章を宿す身は成長することを忘れる。そのせいか、ルックは自らの変化に慣れていない。そして他人より影響を受けることをひどく嫌う。それは彼を二つの戦争に参加させる以前からのことだ。彼は「自分」が「自分」でなくなることに怯えているのだ。 セラを置いてゆくという行為は、ルックが自らの変化に気づき戸惑っている証拠だ。それなのに、ルックは常にセラの隣に在る。自分が連れてきた手前、という責任感もあるのかもしれない。しかし、それ以上に彼女から離れられない理由が、拒絶できない理由が彼にはある。 それが何なのかは、レックナートの盲た瞳には映らない。 ルックの風は、いまだ不安定だ。 「レックナートさま……」 「そんなに嘆くことはありませんよ。あの子が外出するのは多々あることです。あなたは知らないかもしれませんが、あの子には私の仕事もいろいろとお願いしているのです。……すぐに帰ってきますよ。」 今にも泣き出しそうに俯いたセラの頭をレックナートは静かに撫でた。柔らかく線の細い髪が妙に心地良い。そういえば、ルックがこの少女の頭を撫でる姿も何度か見かけたことがある。その時の彼を取り巻く風の気配を思い浮かべると、少なからず苦笑してしまう。あれは、昔の彼にはなかったものだ。 「ルックが他人に笑いかけたのは、あなたが初めてのことです。だから――、」 「でも、そのえがおのルックさまはとてもかなしいのです。ゆめにみるルックさまとおなじくらい」 遮られた言葉にレックナートの手はぴたりと止まった。それを合図にしたかのように、 「―――セラはぜんぶしっているのです」 セラはまるで言ってはいけない秘密の呪文を唱えるように、微かに唇を震わせながら俯いていた顏を上げた。 「ルックさまがセラに手をさしのべて下さったのには、りゆうがあるということ ルックさまがセラにわらって下さるのは、そのりゆうのためだけだということ …それをセラがしっているということを、ルックさまはしらないということ」 最後に全部知っているのですと再度呟くと、とうとうセラの大きな瞳から涙が一粒零れ落ちた。 「レックナートさま、セラはどうしたらよいのでしょう?セラはルックさまがわらって下さらなくとも、さしのべて下さった手にこたえるつもりなのです。それなのに、ルックさまはむりにでもわらって下さるのです。ルックさまはそれがつらいのだとおもいます。ルックさまは、きっとセラに手をさしのべたことをこうかいしているのです。ルックさまがいなくなるのはきっと――」 自分のせいなのだと、セラは小さな肩を震わせた。 セラの聡明さには、ルックだけでなくレックナート自身も幾度も驚かされてきた。ハルモニアが目をつけるだけあって、確かに魔力は相当なものだ。しかしこの際、彼女に着眼すべき点はそこではない。わずか六歳にして見せる他人に対する洞察力だ。いや、直感で受け取っているのならば感受性の強さ、と云った方が正しいか。 現にこの少女は十年以上も一緒にいる自分よりも、ルックが隠している混沌をあっさりと理解してしまった。当然、それが具体的に見えているわけではないのだろう。しかし一番大切なことを、セラは理解している。やはりルックにはこの少女が必要なのだと確信した。 レックナートは、風を映すことのできるセラの瞳を、少なからず羨ましく思ったかもしれない。 「――セラ、よくお聞きなさい。 あなたはこの塔に来た時、私と約束をしたことを覚えていますか?」 セラはこっくりと大きく頷いた。 「ならば、あなたはその通りにすれば良いだけです。 確かにルックが姿を消すのはあなたの存在が原因かもしれません。しかし、あなたに手を差し伸べたことは、ルックが自分で考え自分で起こした行動です。 あの子は迷うことはあっても、自分の選んだ道を後悔するような子ではありません。」 だから、とセラの手を取って言葉を繋いだ。 「少しずつ歩み寄り、迷いをなくせば良いのです。 ……そう、例えばこうすることから始めるとか」 レックナートはセラの小さな手を両手で包み、ふわりと笑った。 「―――レックナートさまの手、とてもあたたかいです」とセラが言うと、 「ルックも同じですよ」と返ってきた。 「でも、ルックさまはつめたいと、かなしくわらうのです…」 そう言って一度は残念そうに俯いたセラだったが、しかし次の瞬間には思わず顔を上げた。 レックナートの言葉が耳に届いたからだ。 「それならば、どうすれば温かくなるのかをあなたが教えてあげなくては。 ねえ、セラ?」 とても静かな夜。 真っ白な空間で、冷たい床に座り込む自分に手を差し伸べてくれるルック。 「ごめんね、セラ。 僕の手はまだこんなにも冷たい――…」 やはり哀しそうに目を伏せる彼に、セラは顏を綻ばせてルックの手を取った。 それなら手をつなぎましょう、ルックさま きっとルックさまの手がつめたいのは、おひとりでいるからです セラがいっしょにいれば、ルックさまの手もあたたかくなりますよ ルックさまには、いつまでもセラがおりますよ そこで目が覚めた。 今のは夢だったのだろうか。あの後、ルックがどんな顏をしたのかセラはどうしても思い出せない。 しかし目を覚ました彼女の手が、穏やかに目を伏せたルックによってしっかりと握られていたことに気づくと―― 「セラは、いつも、いつまでもルックさまのおそばに」 規則正しく聞こえる静かな寝息に、セラは夢の続きを見たような気がした。 そして、 「――…いつも、いつまでもルックさまのおそばに」 もうひとたび反芻すると、セラは繋いだ手のぬくもりに引き込まれるように、ゆっくりと目をとじた。 その夢現(ゆめうつつ)以来、セラがあの夢を見ることはない。 同時に、ルックが仕事で外出する時以外は、隣に必ずセラの姿が在るようになった。当然ルックが「自由」を行使して外出する時もだ。しっかりと手を繋ぎ、二人はいろいろな話をしながら世界を歩く。 セラが魔術師の塔にやってきて一年が経とうとしていた。 その頃になると、ルックのセラに向けられる笑みがもはや創り物ではないことが、目に見えて明らかになっていった。 BACK/TOP/NEXT |