恐くなんかない。ルックは椅子に腰掛け、深い溜め息をついた。 「僕はお前なんか恐くはないんだ」 今度は口に出してしまったこの言葉、声は思ったよりも掠れていたかもしれない。 最近、一人でいると右手を凝視している自分に気づく。別に睨んでいるわけではないと思う。ただ見つめるだけで、それ以上に何かをするわけでもない。 何かが変わることを望んで、夢を見て、祈って、手を伸ばして、そして絶望した。全てはこの手をすり抜け、あるべき姿――崩壊へと突き進む。 夢を見るだけでは駄目なのだと悟ったのは、二度目に星が宿りそして去ってゆく時だった。 この右手は、何も変わらなかった証。呪われている証。夢は散り、空虚な現実と、絶望の未来だけが残った。 夜な夜な何かが囁きかける。 「無駄なことを」 僕を嘲笑うのは止めてくれ。 懐 古 瞑 想 2 ルックが連れてきた娘――セラがこの塔にやって来てすでに一週間になる。 彼女がもともと彼女が持ち合わせていたシンダルの知識は、この塔にある全ての書物が意味を成さないほどの膨大な量だった。ルックが数年かけて解読したシンダルの古書をわずか一時間ほどで読み終え、何よりも紋章の力とは違う古代秘術――幻術と呼ばれる具現化能力――はどうあってもルックが真似できるものではない。ハルモニアで噂になった「クリスタルバレー最奥の化け物」は決して大袈裟なものではないとルックは思った。 しかし幼いが故か長時間術を使用できないことも事実で、ルックはセラに術の使用を禁じた。 「いまのセラではおやくに立てないのですか」 セラは申し訳なさそうに俯いたが、まずは精神力を養うことが先決だから、そうしないと君の身体が壊れてしまう可能性があるから、そう説明すると不思議そうに首を傾げた。 「力というものは、からだがこわれてもつかうものではないのですか?」 空恐ろしいことをこの少女は事も無げに言った。 あの白く輝く宮殿の奥、陽の光も差さない無機質な部屋で、この少女は一体どのような扱いを受けてきたのか。 ルックは今までその力の抑制について、あの巨大国家は何をしてきたのかを訊いた。彼女の答えは「なにも」の一言だけで、それはルックの眉をひそめさせるのには充分な効果があった。 ものはついでとルックはもう一つ訊ねた。それはかつての自分と重ねるわけでは決してないと自分に言い聞かせてのことだったが、それでも聞かずにはいられなかった。 きみの存在はあの国にとってどんなものなのか聞いてる? 彼女は表情一つ崩さずに、まるで書物の中の一説を読み上げるかのように淡々と言った。 『お前の存在価値はその力のみ 力を使い続けることだけを使命とし、それ以上でもそれ以下でもない』 何ということを。 ルックは吐き気がした。 セラという少女、実のところ彼女はルックにとって少なからず誤算だった。 存在自体が誤算というわけではない。もともと彼は「クリスタルバレー最奥の化け物」を手に入れるつもりでハルモニアに潜入したわけであり、そこまでは計画通りだった。しかし、その化け物がまさかこんな幼子、少女であるとは夢にも思わなかった。 彼が初めてその噂を耳にしたのは二度目に星が宿った時、デュナンの同盟軍において統一戦争に身を投じていた時だった。変わる未来を夢見て、一人の少年に最後の賭けをしていた時でもある。 当時はこの戦いの結末こそが未来の結末であると信じていたものの、夜になると嘲笑をもらす呪われた右手には幾度となく絶望に叩き落とされた。 その中で耳にしたこの噂は、ますます彼を惑わせた。 願いは叶えるものであって、人に託すものではない。 悲鳴を上げても現実は変わらない。 ならば自分で変えるしか方法はない。 どうやって?力だ。 力があれば―――― やがて同盟軍は勝利し、デュナンは明るい未来に夢を馳せる。しかし自分が世界の未来を賭けた少年は何処へと姿を消し、夜な夜な頭に響く嘲笑は大きくなる一方だった。 彼に限界が訪れたのはもう間もなくの事。 魂を喰らう右手を持つ彼は、僕を殺してはくれなかった 輝ける盾となる右手を持つ彼は、僕を守ってはくれなかった (僕は生き地獄の中を歩くほど強くはない) それに気づくと、耳を塞いで聞こえないふりをしていたいつかの声が彼の心を捉えて離さない。 「悲鳴を上げても現実は変わらない」 そう、何も変わらなかったのだ。 「力があれば」 ちから―――その言葉は彼の頭の中で散らばっていたパズルのピースを繋ぎ合わせるように、一つの計画を打ち立てた。 ―――上等だ、化け物なら僕も一緒だ その計画は、未だ弱い自分を補う存在になり得る「クリスタルバレー最奥の化け物」を手に入れることが大前提だった。 しかし噂とはあくまでも噂で、情報はどこまでも半端なものだ。この忌まわしい顔つきのためか難なく辿り付いたクリスタルバレーの最奥、無機質な部屋の冷たい床に座り込んでいたのは白い少女だった。彼が久しく目に留めることのなかった色彩、限りなく透明に近いものだったが、明らかに彼女は色を持っていた。 姿形はどうあれ彼女が噂の「化け物」であることは確かで、彼女がルックの手を握り締めた時、彼の中で一つ目の殻が割れる音がした。彼の最初の計画は成功したのだ。 そう、そのはずなのに。 「いつになったらセラはおやくに立てるのでしょう」 セラは年齢にそぐわない大きな溜め息を吐き出した。 「この力がなければ、セラがここにいるいみはないのではないでしょうか」 しゅんとうな垂れた表情には、申し訳なさと情けなさが混ざったような色が浮かんでいる。もっともこの表情も彼女と同じ年頃の子供ができるとは到底思えない。今しがた聞いたばかりの、セラのハルモニアでの境遇、これがあってこそのものなのだろう。 ルックはセラの頭にぽんと手を置くと静かに言った。 「僕はハルモニアとは違うからね。その力よりもまず、きみを失うわけにはいかない」 結局は彼女の力が必要であるということには変わりはない。しかしこれは一つの挑戦だ。相手は彼女を白く色づけた父なる者が統べる国家でもなければ、この世界の命運などと大きなものでもない。だからこそ、確実に負けるわけにはいかなかった。 「―――きみがここにいる意味は十分にあるよ。ただ、まだその力を使う時ではないんだ。ゆっくり、ゆっくりやっていこう。時間はまだある」 何も最初から全てが上手くいくとは、あの噂の力がすぐに使えるとは思っていなかった。だから多少の誤算は問題ない。数年の時間のロスは計算のうちだ。 「だから、きみは力のために壊れる必要はないよ。」 ルックはセラの頭に置いた手で、そのまま彼女の髪を梳いた。透き通った淡い金髪は、それだけで彼女の白さを演出する。セラはルックを不思議そうに見上げたが、やがてにこりと笑った。 「セラがこわれるとしたら、それはルックさまのためだけにです」 ルックは滅多に使うことのない頬の筋肉を心持ち動かし、躍調のない声で言った。 「ありがとう」 それと同時に、先程と同じ吐き気が込み上げてきたが、ルックはそれが何故なのかは分からなかった。 僕の右手よ、今度も笑っていられるかい? 無駄なことだとほざいていられるかい? 僕はお前に勝負をかける。 「僕はお前なんか恐くはないんだ」 呪われし紋章よ、今度は僕がお前を嘲笑ってみせる。 レックナート様、やはり僕は止まりません。 BACK/TOP/NEXT |