望みが叶うなら、何を傷つけることも厭わない。
 それで悪鬼と呼ばれようとも一向に構わない。
 許して欲しいとも思わない。
 痛みを伴うならば甘んじて受け入れよう――それを愚かだと罵る者もいるだろう。

 それがどうした。







 懐 古 瞑 想 1







 盲た瞳には、相も変わらず運命という名の得体の知れないものが映される。それはバランスの執行者たる門の紋章の継承者の心に、少なからず暗い影を落としていた。
 それはかつての百八の星が集まりし時とは、まったく異質であり、そして更に近い運命。
「まだ、まだその時ではない――…」
 しかしその運命を動かすことによって、バランスはどう保たれるのか。それは彼女にとって限りなく難しい選択でもあった。
「あの子に再び星が宿るまでには……」
 止めることはできるのか。止めることが運命なのか。紋章の意思を超えて、あの子を救うことはできるのか。

 レックナートは弟子の周りを包む風の変化に気づいていた。ルックという存在が、歴史の黒いものへと踏み入れ、ある決意を秘めているということを。





 今日は朝からルックの姿を見ることはなかった。もっとも彼女の盲た瞳では姿を捉えることはできない。あくまでも存在を感じ取るという意味だ。
 そもそも彼には「自由」という権利が与えられている。だからこそ彼がいないことは彼女にとって不思議なことではなく、気に留めることでもないのだ。

 自由、それは彼をハルモニアから連れ出す際に、彼女が出した第一の条件だった。
「紋章の子よ。 貴方は自由に、自由を学びなさい」
 その言葉通り、ルックはレックナートの元でありとあらゆる物事を学んだ。彼自身のこと、紋章の在り方、世界の知識―――もとより魔導師としての才能を持ち合わせていた彼は、彼女の手解きで強力な魔力をも身につけていった。

 その合間を縫って、彼が彼なりに自由を学んでいたかどうかは、彼女は知ることはない。そもそも、それすらも彼の「自由」であると諭したのは彼女自身であったからだ。
 しかし、最近の彼を取り巻く風の変化は、かつて二つの戦争に参加させた頃と比べて目を見張るものがある。
 時折鋭い目をして空の彼方を見つめ、またある時は突如姿をくらますこともある。現に今日もこの塔の中には彼の存在を感じない。それらはあくまでも彼の「自由」な行動であるが、それでも以前の彼の周りの風とを比べると、それらは奇行と言わざるをえない。
 レックナートは言い知れぬ不安が沸き起こるのを静め、何も言わず彼を待つことにした。





 ルックが姿を見せたのは、すでに陽も高くなってからのことだった。
 大体のことは飄々とこなす彼が、珍しく緊張した面持ちでやってきた。彼の心音が嫌というほど響き渡り、しかしそれは失態を詫びる時のものとは明らかに違っていた。強いていうならば「混沌」―――まさにその言葉しか見つからないだろう。
「レックナート様、ただ今戻りました」
 レックナートは何を返すでもなく、彼の「混沌」の原因に目をやった。それは何ということはない、まだ幼い少女の姿をしていて、ルックの後ろに隠れ、彼の左手をしっかりと握っていた。
「ルック………」
「レックナート様ならば、僕が話をするまでもなく―――全てをご存知なのでしょうね」
 苦々しげに語るルックは、少し笑っていたのかもしれない。そして、泣いていたのかもしれない。少なくとも、彼女の盲た瞳にはそう映っていた。

 彼の周りを包む風が悲鳴を上げ始める。

(憎い)
(憎い、憎い―――)
(僕は、世界が憎い―――…!)
 
「なんということを―――…」
 レックナートは愕然とした。彼の風の変化、それは彼の心音そのものだった。
「その娘を手に入れて、あなたの枯渇が癒されるとでも思っているのですか?」
「……」
「あなたの悲鳴は、願いとなって風を黒く染め上げていることを、あなたは―――…」
 そこまで言うと、レックナートは言葉を噤んだ。

 ぽたり

 一つの雫が静かに床を濡す。
 見開かれた瞳より零れたそれは、皇かな頬を伝い、きつく噛締められた唇すらも濡らした。

 ルックが泣いている。

「僕は、あなたが思っている以上のことを知り、視てきたのです。 それなのに、僕は僕で在りたいという小さな願いすら、この右手の呪いは嘲笑う…僕の精一杯を、いつもいつも否定するんだ!」
 声を荒げると同時に、ルックの周りの風が音を立てて渦巻いた。彼の右手には真の風の印が浮かび、燃え上がるように光を放つ。
 それは、レックナートが密かに抱き続けた不安の結晶であり、何よりも大切に見守ってきたものだった。
(私にこの子を救うことは難しいのかもしれない)
 バランスの執行者は、ルックの悲鳴と世界の均衡、そして歴史の流れの記憶を垣間見た。そしてそれは、瞬時にして愕然とする結果へと流れ着いた。

 「それ」が耳に届いたのは丁度その時のこと。


 「―――ルックさま?」


 「それ」は風の轟音の中でかすかに響く声。小さな、しかし少し高いトーンの可愛らしい子供の声。
 ルックの左手をしっかりと握りしめていた少女が口を開いた。
「泣いていらっしゃるのですか?どこかいたいところがあるのですか?セラは“ちゆ”の力もつかえます」
 少女は表情いっぱいに心配の色を浮かべ、ルックを見上げていた。
「―――セラ…」
「ルックさまはセラをつれてくるのに力をたくさんつかわれたから、おつかれになったのでしょう?」

 なんとも奇異なこと。レックナートはその少女に驚嘆の意を隠せなかった。
 あれほど悲鳴を上げていたルックの風は、少女の声が耳に届くと同時に消え去り、それどころか優しい色を帯びて彼の右手を取り巻いた。

 ルックは大丈夫だからと首を振り、レックナートの方へ向き直った。
「レックナート様、ご紹介します。 この少女の名はセラ、クリスタルバレーから僕が連れてきました」
 彼の表情からは先ほどの混沌は読み取りにくいほど薄くなり、いつもの飄々とした態度が戻っていた。ほら、と彼が促すと、その少女はおずおずと前に進み出て「セラです」と小さく頭を下げた。
 レックナートは自分の中に微かに沸き上がる希望に耳を傾けた。

(もしや、この子ならば―――…)

 彼女はセラに手招きをし、ルックには一言だけ言葉をかけその場を下がらせた。「ルック、セラを少しお借りします。心配はありませんよ」
 ルックは少々複雑な表情を浮かべたが、セラの背中を押し、また後でと短く声をかけたかと思うと、間もなく姿を消した。





 レックナートがルックの元へセラを連れてきたのはそれより数時間後のことだった。
 師はいつも多くを語らない。ただ、一言だけ。それは今回も然り。
「あなたはセラを大切にしなければなりません。しかし、それは義務ではなく、むしろ……権利と呼ぶべきなのでしょう」
 それだけを伝えると、弟子の返事を待たず、彼女はまた星見の部屋へと消えていった。
 ルックには彼女の言葉の意味が良く理解できなかった。
「セラ、レックナート様は何と?」

 セラは嬉しそうに笑った。

「セラは、いつも、いつまでもルックさまのおそばに」









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