懐古瞑想18 主よ、貴方はやはり哀れだった。 主よ、貴方はやはり愚かだった。 右手が焼け付くように傷むと同時、それの気配が消えた。 最後の最後まで主を馬鹿にしてくれた真なる風の紋章は、結局破壊することは成らずともルックの右手から姿を消した。 せめてもの救いは、最後の声に嘲笑が含まれていなかったことだろうか。哀れみは余計だが、過去形なのも気に入った。 炎の英雄たちが去り、遺跡もどんどん崩れ始めていた。この場所もいつまでもつかわからない。 その中で、ルックは一人考えた。 もし炎の英雄たちがいなければ、本当にこの儀式は成功していたのだろうか。実はこうなることが運命だったのではないだろうか。 炎の英雄は運命という言葉で片付けるなと言った。それは自分も同じはずだった。自分の道は自分で切り開く、人の世界は人の手で動かす。それは彼らも、自分も、どこも違うことのないものなのだ。ただ、最終的に目指すものが違うだけだった。自分は遠き未来の絶望を変えたくて、彼らは現実の大切なものを守りたくて、それぞれの理念を掲げて戦ったに過ぎない。 それを、真の紋章は嘲笑うように傍観しているだけだった。それは云った。神たる存在を殺すことはできないと。その行為は無駄なことだと。ならば炎の英雄たちが現われようとそうでなかろうと、結局は何も変わらなかったのではないだろうか。 そう思うと、何もかもが虚しかった。運命という言葉は嫌いだったが、それに必要以上にこだわっていたのは自分の方だと、改めて思い知る。生れ落ちたことからこうして地に膝をつけていることまで、全てが否定されているような気がしてきた。何もかもが決められたものならば、世界はどうしたら自分の道を切り開くことができる? 自分は間もなくずっと願い続けた死を迎える。魂を縛る呪いは右手から消え失せた。だから「あの」未来を目にすることはもうないのだから、自分はいい。それだけで身体が軽く感じるほどに、喜ばしいことだ。だが世界は、人はどうなるのだろう。――かの島に在り続ける師はどうなるのだろう。灰色の未来は、青色の空を夢見ることもできない。ルックはそれらを愁うとともに、自分の中で虚しさがどんどん増していくのを感じた。 最期とはこんなに空っぽなものなのだろうか。せめて恐怖でもあれば安らぐだろうに、それすらも無い。紋章が失せても所詮は器、何かを感じることすらも許されないということか。 痛みや苦しみは享受しなければならない、ルックはそう思っていた。実際にそうする覚悟も最初からあった。だがこの虚無感はどうにも耐え難い。自然と荒くなる呼吸の間に何かを呟きかける。しかし何を呟いて良いのかわからなくて、悩んだ末に咽こみ血を吐いた。それは別に構わない。ただ、どうしても声を出したかった。それくらいは許して欲しかった。そして、それを誰かに聞いて欲しかった。 その時だったのだ。彼女の声が聞こえたのは。 「ルック様……」 静かに音叉が震えるように響く優しい声。たとえ自分が盲目で姿を見ることは叶わなくとも、声だけできっと彼女を間違うことはないだろう。 「セラ、か……?」 「ルック様」 霞んできた視力でも、穏やかなセラの顔が見えた。軽く首をかしげたように傾け、ひかえめに微笑むセラの顔が。もしかしたら、これが百八の星の起こした奇跡なのかもしれない。崩壊の進む遺跡の中、よりにもよって彼女がそばにいることは、ルックにとってもう奇跡としか言いようがなかったのだ。 本当は彼女がこの場に来たことを喜んではいけないと感じていた。ずっと手放せないでいた手を、今こそ手放すべきだったのだ。自分を縛るものがなくなった今、彼女を、彼女だけは縛ってはいけなかった。 ルックにはもう得るものなどない。空っぽの器は、最後の砦すらも失った方が楽になるはずだった。そのはずなのに、何故か彼女に触れるともう駄目だった。抱きとめられた温かい身体は、懐かしさを伴って手放すことができなくなっていた。それは一種の子供のわがままな感情に近かったのかもしれない。 ルックはセラを最後まで手放せない。 それは、まるで本能のようだった。 「わたしがそう思えることが、大事だったのですから」 動かなくなったセラを見て、ルックは初めて気がついた。 あの時、セラを抱いたあの朝に感じた不思議な想い。創られた身体の奥の奥から疼いた熱情。決して愛ではないのだ、と血を流しながら嘆いたあの感情―――紋章の消え失せた右手が、あの時と同じ感覚を蘇らせた。魂の楔を切った今こそ、彼はようやく気が付いた。 セラの愛情は決して自惚れではなかった。あの晩気づいた感情は、間違いなく愛情と呼ぶことができたのだ。そして、それは今も変わらずここに在る―――つまり、自分は最初から愛を持つ「人」だった。 呪われた生を受け三十数年、ルックがその終わりに手にした答えはあまりにもあっけない。過去どんなに希っても手に入れることのできないものと目を伏せていたそれは、実はずっと昔からあったのだ。おそらく差し伸べた手を握り返された瞬間、その温かさを感じた瞬間から、その答えは共に生きてきたのだ。 気づかないふりをしていたいという思いもあった。しかしセラに口づけ、そして抱いたのは決して戯れではなかった。ただ、計画が成功するその時まで目を逸らしていたかっただけなのだ。――それなのに、計画に失敗した今、その現実が目の前にある。 右手が幾度も囁いた自分の愚かさを今更嘆いても、時間が戻ることは決してない。時間が流れることに憧れ、時間の止まった自分を憎んだ。何故、時間は前を向くしか道がないのだろう。何故、後ろを向いてはくれないのだろう。――現実の世界では、いつも後ろを向けばセラが微笑んでいてくれたのに。 ふと、ルックは霞む視力に反して視界が開けていることに気づいた。世界に色がある。見上げるセラは白く、以前にも見たことのある光景―色だった。 それは初めて見た色彩、銀世界。 (――ああ何だ、きみの白さも雪の白さと同じなのかい) 確かにそう思ったことがあった。 今のセラも白く、美しく、冷たい。しかし、かつて師を雪と重ねた時とはまったく違う。また、彼女を抱いた時とも違う。今のセラは凍えてはいない。少なくとも、ルックにはそう思えた。右手から紋章が消え去った今になり、ようやく色彩の存在が彼を包む。 ルックは色彩を瞳に宿すことで、気づいてはいけない現実に気づいてしまうと思っていた。だが、それこそが大きな間違いだったのだ。気づいてはいけない現実ではない、それは気づくべき現実だった。 セラの色彩は彼を苛む。しかし彼はそれを愛しいと思う。 ルックは、セラを本当に愛しいと思った。 「セラ…?」 名を呼べど彼女の声が返ってくることは、もうない。 今、彼を支配しているものは生まれ落ちてから初めて感じた哀しみだった。もうセラはいない。触れた先の頬は、もう彼女であって彼女ではない。ルックは、唯一失ってはいけないものを失ったのだ。魂が揺さぶられるほどの感情の波が、哀しみという名でようやく一つの悔恨を生み出す。 しかし、彼は後悔してはいけないことを知っている。師との別離の夜、呟いた言葉は一つの誓いだった。何を傷つけようと、悪鬼と呼ばれようと構わない。許しも要らない、痛みも罵る言葉も何も気に留めることではない。――もはや、この世界の誰もにルックを厭う権利を与えられていた。崩壊する未来へと進むこの世界も、人も、本当は彼が何よりも愛でる存在だった。ならば、悔恨の念はこの身と共に散らすより他ない。愛情と、哀しみ。ルックは彼女を失って愛と哀というものを初めて感じた。 謝罪の言葉すら口にすることを許されない身なれど、後はもう目をとじるだけだ。彼には、それしかすることがなくなってしまった。あの晩以来初めて触れたセラの肌はすでに冷たくなっている。これは完全な孤独を示していた。 しかし、と思う。ルックは何よりも世界を愛し、誰よりも人に焦がれた。だが、その生を呪うことでまっとうした矛盾な人生は、もしかしたらそんなに悪いものでもなかったのかもしれない。少なくとも、自分にはセラがいたのだ。彼女が握り返してくれた小さな手は、大きな救いだった。決して孤独ではなかったはずなのだ。先刻一人でいた時の虚無感はもう感じられない。涙が出ることもないし、だから、瞼が下りる前にせめて笑うことくらいできるだろう。 それは、そうして頬が緩んだ時だった。もう眠りにつく最期の一瞬だったのかもしれない。彼が触れている指先から痺れるような温もりが全身を駆け抜けた。そして、声を聞いた気がした。 昔、夢の中で自分の手が冷たいと嘆いた時、幼いセラは何と言っただろうか。彼女は、もう独りではないと言ってくれたのではなかったか。 それならば、やはり彼は間違いなく聞いたのだ。――傍らで先に眠りについた最愛の人の、懐かしくも優しい幼い声を。 セラは、いつも、いつまでもルックさまのおそばに かつて彼女の部屋でかいだ茶葉の香りが微かに鼻腔をくすぐった。 そうだ、セラがここにいる。 (真なる風の紋章よ、お前は一つ間違っていた。―――セラが僕を救ってくれた) ルックは決して永くはない人生において最初で最後の、そして永遠なる安らぎを感じながら笑った。 彼は懐古な瞑想に泣きたくなるほどの愛情と幸福に抱かれながら、青い空の幻想を見る。 そして、それを未来の世界であるようにと願いながら――― 「セラ、ありがとう」 静かに目をとじた。 光が、飛んだ。 温かい色をしたそれは二つあった。一つは先を飛ぶもう一つを追いかけ、先の光はもう一つが追いついてくるのを待つ。それを繰り返しながら、二つの光は世界を飛ぶ。 彼がその光を見たのは、湖のほとりにある城だった。 「……ディオス、きみは幽霊のたぐいを信じるかい?」 「は?なんですか突然」 「いや……」 ササライは窓を見ていた。本当は窓の外を眺めていたはずだったが、いつのまにかガラスに映る自分の顔を見つめていた。そして、この同じ顔の彼が言ったことを思い出していた。 『あなたがこの世界で一番憎い。だが、この世界で唯一哀れみを感じる相手なんだよ』 それに溜め息をついた時、その光が現れたのだ。 今回の戦いはただの戦争ではなかった。失うどころか、多くのものを得てしまった。それも予想以上の、そして厄介なことにできれば一生涯得たくないことばかりだった。 「全ての答えは、我が国が握っているということか……」 ディオスは首を傾げたが、ササライは別に彼に呟いたわけではなかった。窓の向こう、ガラスに映る自分の姿に重なるように、その光がゆらりと揺れた。 「ねえディオス、やっぱり幽霊って信じる?」 「ササライ様、さっきからどうしたんです?何を言い出すかと……」 「だってきみにはあの光が見えていないんだろう?」 「はあ?」 ただでさえ濃いディオスの眉間に、また深く疑問のしわが増えた。 「――もう、いい」 呆れたように溜め息をつくと、ササライ様ぁと情けない声が返ってきた。 「幽霊でもなんでも、会いに来たと解釈したならば、やはりわたしは生きるべきなんだろうか……彼の分も」 「ですから、わたしには何のことやらサッパリ」 ササライはぼやくディオスにくるりと向き直った。 「――よし、ディオス。明日ハルモニアへ帰るよ」 「あ、明日ですか!?そんなまた急にお決めになるんだから……」 飛び上がりぶつくさと文句を言うディオスを満面の笑みで黙らせる。 「口答えは無しだ。明日この城を出る。間に合わなければ減給に処す―――わかったら、さっさと準備を整えるように」 ディオスは減給という言葉に思わず背筋を伸ばし、慌てて部屋を出ていった。ある種の職権濫用であることはササライも自覚していたが、大丈夫、ディオスはきちんと期待に応えてくれる男だ。明日の昼前には出発できるはずだ。そう思い、満足そうに深く息を吐いた。 ササライは窓を振り返った。 しかしそこにはもう光は見えず、代わりに湖の水面が陽の光を反射しながら揺れていた。 彼がその光を見たのは、デュナンのハイランド県にある小さな村だった。 「ちょ、ちょっとどうしたの!何で泣いてるのー!?」 ナナミとジョウイはぎょっとしながら二人の間に立つ青年の顔を覗き込んだ。 本人も自分の涙に驚いたらしく、慌てて服の袖でそれを拭った。 「あ、あれ?何だろ、よくわからないんだけど……あの光を見たら何か悲しくなっちゃって」 「……どの光?」 「あの光」 青年は涙を拭いた手で、前方を指す。するとナナミが青い顔をしてざっと後ずさった。 「ちちちちちょ、ちょっと止めてよ、何もないじゃない!お姉ちゃんがそういうの苦手だって知っててそんなこと言うの!?」 「ち、違うよ!…ねえジョウイ、きみには見えるよね?あの二つの光!」 すがるように訊いてみたが、ジョウイは横に首を振った。 「おっかしいなー。紋章の力とは関係ないんだろうけど…何で僕だけ見えるんだろ?」 「僕にはよくわからないけど…そういうのが見えるなんて、今まで一度もなかったもんな」 二人で首を傾げてみる。 「――ねえ、紋章の力って?」 ナナミが言うと、青年は苦笑した。 「ほら、僕とジョウイはハイイースト動乱の時にハルモニアに奪われないように、紋章をこの手に戻しちゃっただろ?いずれはまた封印しようと思ってるけど……そのせいで変な力が使えるようになったのかなって」 「でも、ハイイースト動乱なんて数年前のことじゃない」 ナナミも首を傾げると、今度はジョウイが苦笑した。 「だから不思議だなって。…でもその光、そんなに悪いものでもないかもしれないよ?」 「なんで?」 「だって、さっきから暖かい風が吹いてる」 三人はふと、空を見上げた。澄んだ青色が、眩しいくらいに広がっている。 「――うん、そうかも」 青年は頷くと、ニッコリと笑ってみせた。 ナナミもジョウイもつられて笑う。 「何よ、悲しくて泣いてたんじゃなかったの?」 「そうだよ、もう悲しくないのかい?」 青年は光のある方へ向き直った。だがそこにはすでに何もなく、光のあった場所には静かに風が吹いていた。 それはジョウイの言うようにとても暖かく――… 「うん、もう悲しくない」 光は飛ぶ。かの人へ会いに、見える者以外には誰にも知られず飛び続ける。 やがて、最後にもう一人だけその光を見ることのできる者を見つけた。 その人は、少年の姿をしていた。 BACK/TOP/NEXT |