懐古瞑想17 轟音の中で睫毛を震わせると同時、セラは意識を取り戻した。重い瞼を持ち上げて軽く息を吸い込む。途端に空気と一緒に何か異物が肺に入り込んだ。息が詰まり、咽る。ひゅうひゅうと喉が鳴り、思い切り咳をすると、血の混じった土埃が吐き出た。 少しだけ楽になった呼吸を整え、ようやく顔を上げた。周囲を見渡さなくとも状況は明らかだった。遺跡が崩れ始めている。 セラはいまだ霞みがかっている頭で思考を巡らせた。 自分はここで何をしているのだろう。 自分は何故生きているのだろう。 すると記憶が辿り着くよりも先に、一人の名前が口を割って飛び出した。 「―――ルック様!」 そうだ、自分はここにいてはいけない。やらなければいけないことがある。 (ああレックナート様、セラは間に合うことができるのでしょうか……) かの人に祈りをこめて、足に力を入れた。言うことをきかない足は、まるで風船の空気が抜けていくように崩れ落ちる。それでも何度目かにしてようやく立ち上がった頃には、セラの意識ははっきりと愛する者へ向かっていた。 ルックの行う儀式の邪魔をさせてはならないと、セラは真なる水の紋章を守るためにこの場に留まっていた。炎の英雄と呼ばれた真なる火の紋章の継承者のもとには、五行のうち四つの紋章の継承者たちが集っている。おそらく、彼らは奪われた紋章を取り返しにやって来るだろう。ハルモニアの秘術によって封じ込まれた紋章を背に、セラはただ静かにその時を待っていた。 ふと思う。背にあるこの紋章が、もし自分に宿っていたとしたら? くだらない、そう言い聞かせながらも思わずにはいられなかった。ルックの云う呪いがこの身にあれば、もしかしたらその苦しみを分かち合い、彼のためにできることがもっと他にあったのではないか。無益に血を流すこともなく、彼に死という選択肢のない道を敷くこともできたのではないか。 セラは深く息を吐いた。ルックは創られた存在とはいえ、生まれつき真の紋章を宿していた。対する自分は生まれつき宿していたのは流水の紋章だった。上級紋章とはいえ、所詮は真の紋章の破片だ。化け物と呼ばれる程度には力を持ち合わせてはいたが、おそらくそんなものはルックの背負う苦しみのほんの一部分にも満たないのだ。自分が何をどう考えを巡らせても、彼の本当の宿命は想像にあまる。 何にしてももう遅すぎることではあった。そして、それらはあり得ない夢物語なのだ。真なる水の紋章の継承者を羨ましく思うも、もうそれすらも意味を成さない。彼らは正統な理由を挙げて紋章を取り返しにくる。そしてセラはそれを阻止しなければならないのだ。――彼女にとっては誰よりも、何よりも正統な理由を掲げながら。 「ごめんなさい、ルックさま」 真なる水の紋章は、まもなく継承者に取り返された。 セラは術を使い続けたが、どうあっても彼らを阻むことはできなかった。何となく気づいてはいたのだ。どれだけ命を削ったところで、時間稼ぎくらいのことしかできないのだろうと。それだけ彼女は力を使い過ぎていた。 では、自分はこのまま逝くしかないのだろうか。彼の計画が成功しようがしまいが、もう何もできずに全ての時間が止まってしまうのだろうか。まだ彼を救っていないのに?レックナートの云う彼の救いは一体どこにあったのだろう。彼を守ることも、救うことも、そして胸にある想いを伝えることも、もうできない。 ごめんなさい。 そう口にすると、まるで幼い頃に戻ったようだった。それでも、自分は彼の云った「白い女の子」では、もうない。血に染まり過ぎた手をどうして白いなどと言えるだろう。セラはそれを悲しみながら、地に膝をついた。 継承者は言う。命を無駄にするなと。 セラは思う。何故、この行為が命を粗末にしていると断言されなければならないのだろうと。 誰にでも守るべきものがあり、譲れないものがある。この者たちは、一体誰の何をどれだけ理解してそんなことが言えるのだろう。 セラは無念と悔恨の入り混じった苦い感情を噛み締めながら、意識を手放した。 返す返すも口惜しい。セラは唇を噛んだ。 (なぜ、もっと早くに目を覚まさなかったの――!) どうにかして立ち上がったものの、やはり足は思うように動かない。足だけではない、全身がまるで自分のものではないかのように、全く言うことをきかなかった。不思議と痛みはない。だが、残された時間はほんのわずかだということは自分でもわかっていた。術の乱用が身体へ多大なる負担をかけることは最初から承知の上だ。今頃になって後悔するものでもない。 しかしここで彼に会えずに命が尽きてしまえば、それはもう後悔どころの話ではない。自分はまだ生きている。レックナートの云うルックを救うという役目がまだ自分にあるのなら、それだけは遂げなければならない。――それがセラ自身の、そして孤独なバランスの執行者の望みでもあるのだ。 もう空間を転移するほどの力は残っていない。ならば歩いてでも彼の元へ行かねばならない。この役に立たない足でも、無いよりはいい。足が駄目なら這って行けばいい。そう思い、もう一度だけ足に力を入れた時だった。 「滑稽だな。所詮、お前もただの人間か」 聞き覚えのある声がしてセラは倒れかけたが、しかし立てたロッドにつかまり何とか踏みとどまった。 顔を上げると、冷たく光る赤い蛇目と目が合った。 「ユーバー…」 「結局あの紋章の申し子も、真の紋章には勝てなかったということか。――忌々しい、真の紋章めが」 まさかこの場に現れると思わなかった黒騎士が、顔をそむけて小さく舌打ちをした。 「紋章の力が暴走し始めている。俺はもう消える。…計画は失敗した。この暴発では望む混沌は生まれない」 「…計画は、失敗……では、ではルック様は………」 「知らん」 セラはがくりと崩れ落ちた。何故この場に黒騎士が現われたのかということも、計画が失敗したということすらも、もはやどうでも良かった。ただ、かつてその存在無しでは生きてはいけないと泣いたほどの者の傍に、今この時こそ添うことができないのが悔しい。それが、何よりも救いの道の気がするのに。 セラは唇を噛み締め、力の入らない拳を震わせながら地を叩いた。 「――お前の命もいずれ尽きる。解せんな。それでもあの男を想うか」 睨み返すセラに嘲笑を浮かべると、くだらないとばかりに見下した。 「答えは要らん。どうせくだらん思慕だろう?お前もあの男も、所詮は人間だからな」 「…ルック様は人であることを否定されていたでしょう」 「本人がどう思うかは勝手だ。いずれあいつも死ぬ、だから――」 セラは顔を上げた。――いずれ? 「ユーバー、ルック様はまだ生きているのですか?」 いずれ死ぬ、ということはまだ間に合うかもしれない。まだ彼の命は尽きていない。ならば救いの道はまだ閉ざされていない。 ユーバーは何の感情もない声で言った。 「――知らんと言っただろう。あくまでも可能性の話だ」 セラにはそれで充分だった。ロッドを立て、それにすがりつく。身体を起こして再び立ち上がった。可能性があるのなら、まだ絶望してはいけない。 「何処へ行く」 「あの方の所へ」 「死ぬぞ」 「死にません」 蟲使いの村で、覚悟がまだ足りないとこぼした彼にかけた言葉があった。 ――信じる道ならば進むのでしょう。それは、人の性なのですから 黒騎士の云うように彼も自分も人であるならば、信じるものに向かい進めば良いのだ。 「あの方をお救いできるのは私だけです。だから私はまだ死ぬわけにはいかない」 「救いなどない。お前もあの男もあとは死を待つだけだ」 「死ぬことが救いではないと、どうして言いきれるのですか」 逆に死が救いとも思えない。しかし彼の師は確かに言ったのだ。自分の存在が、必ず彼を救うと。 「間に合うならば、いえ間に合わなくとも行きます。あなたは混沌を求めて何処へなりとも去りなさい」 言い切ると、黒騎士に一瞥をくれることもなくセラは一歩踏み出した。足は先ほどよりも更に重くなっていたが、それでもまだ歩ける。人として最低限の力が残されている。そうして二歩目を踏んだ時だった。 「――世話の焼ける」 舌打ちと呆れた声をセラが背中で受けると同時、ユーバーの足元の空間が歪み始めた。そしてそれは彼女を巻き込み、彼を振り返る間もなく身体がそれに沈んだ。 最後に聞いたのはやはり冷たい声で。 「紋章の申し子と人間の女、哀れな運命はどちらも甲乙付けがたく愚かだな」 ようやく振り返った時には黒騎士の姿はどこにもなく、セラは先ほどとは別の部屋の入り口に立っていた。だが同じ遺跡内だ。轟音は止まず、壁や天上が崩れ落ち、床も割れ始めている。 ここは何処かと正面を向いた時だった。セラは部屋の中央に愛しい人の姿を見つけた。 「ルック様……!」 名を噤むと、瞬時に心の底から喜びが込み上げる。 (レックナート様、セラは間に合うことができました) まるで鉛の枷が絡みついているかのように重くなった足を引きずり、彼のもとへ向かう。何をどうすれば彼を救えるのかはわからない。しかし自分は彼のそばにいなくてはならないという意識だけは、頭で考えるよりも先に足を動かす力となった。――それは、まるで本能のようだった。 もしこの場を眺めている者がいたら、なんとも不思議な感覚に襲われただろう。遺跡はどんどん崩れてゆき、この場もいつ潰れてしまうかわからないという状況の中、二人の男女がいた。女は男の頭を膝に乗せ、静かに語りかけている。耳鳴りがするほどの轟音も、おそらく彼らには届いていない。まるで二人の周りだけが違う空気を纏い、違う世界に存在しているかのようだった。おそらく彼らの周りだけは、違う風が吹いている。 どれだけの時間が過ぎたかわからない。ルックとセラは数年の時間を巻き戻したかのように、穏やかな表情で話をしていた。お互い自らの時間がもう止まってしまうことを自覚していたが、それでも何も恐ろしくはなかった。 「セラ……」 ルックの手が、セラの頬に触れた。偽りのない優しさと、温もりが伝わってくる。 自分が彼にとってどのような存在なのかなど、考えたこともなかった。だから以前ユーバーに飼い猫と呼ばれても腹は立たなかったし、ルックが否定しなければそれも構わないと思っていた。 ならばこれだけは伝えなければならない。自分の想いは決して押し付けるものではない。ルックが手を差し出してくれたことは、決して彼が後悔すべきことではないのだ。だから、彼が必要としたのはセラという少女の「力」だけだったとしても良いのだ。 「いいのですよ――…わたしがそう思えることが、大事だったのですから」 頬に触れるルックの手を自分のそれで包みこんだ。彼の手は差し伸べてくれた時と同じく温かい。レックナートの云った自らの存在だけで彼を救うというのは、もしかしたらこういうことだったのかもしれない。手のひらから伝わる小さなあたたかいもの、それが彼の最大の哀しみである孤独を癒すものだったのかもしれない。 もう、言葉は必要なかった。セラはそっと目をとじた。 そういえば、ルックがこうして自ら触れてくれたのは一体いつ以来だろうか。 記憶を辿ると、すぐに行きついた―――それは最後にあの誓いを告げた夜だ。自惚れでなければ、互いの存在なしでは呼吸すらできないと感じた夜だった。 自惚れではない、そう信じてもう一度あの誓いを告げても良いだろうか。告げれば、彼はまた青い空を瞳に宿すことができるのではないだろうか。彼が誰よりも夢見て愛した人間という存在のように、青い空を青く映すことができるのではないだろうか。たとえそれが彼の最期になろうとも、どうしてもそれを見せてあげたい。 セラはそんな奇跡を願いながら、手を差し出された瞬間より変わらぬ想いを誓いに立てて、ふたたび彼に囁いた。 ルックがそれを声で聞いたか風で聞いたか、セラにはわからなかった。しかし彼女は間違いなく誓いを守り続け、そしてこれからもそれを不変のものとして新たに誓った。 あとは彼がやって来るのを、気に入ってくれたあのお茶を入れて待つだけだ。 セラは、いつも、いつまでも―――… BACK/TOP/NEXT |