懐古瞑想19 来訪者がある。星の予見に頼らずとも、遅かれ早かれ彼ならば必ずここを訪ねてくるだろうと確信していた。 そして彼はやって来た。少年の姿のまま、そしてやはり懐かしい声のまま。 「お久しぶりです、レックナート様」 盲の彼女でも、その姿ははっきりと見える。禍々しい気配は彼の右手からで、それ以外は優しさと強さを兼ね揃えた形容し難いほどの気高さを漂わせている。――ルックの最初の星主は、出会った頃とまるで変わらない。 「よく来ました――天魁星の子よ」 静かに笑むと、少年もほんの少し笑ったようだった。 レックナートと少年が初めて会ったのは今より十八年も前になる。当時、赤月帝国の近衛隊に配属されたばかりだった少年は、帝国からの使いとしてこの島へやってきた。その時、彼女よりも先に彼を出迎えたのがルックだった。 ルックは訪問者を片っ端から試していた。訪問者――ルックは侵入者と呼んだ――が彼の幻術にかかり森の中をさんざん歩かされるのは日常茶飯事で、時には彼の機嫌を損ねさせ海の向こうへ飛ばされた者もいた。本人は「可愛い悪戯ですよ」と意地の悪い笑みを浮かべていたが、本当はレックナートの紋章を狙う輩を近づけさせないためだということは彼女も知っていた。そんな中、ルックが珍しく自身の真の紋章を解放し、魔物を召喚したことがあった。それが、ルックとこの少年の出会いだったのだ。 少年に魔物を仕向けると、ルックは一足先にレックナートのもとへ戻った。そして言ったのだ。 「あなたの待ち続けておられた人間が来ますよ――もっとも、生きてこの塔まで辿り着けたらの話ですけど」 彼は知っていた。この少年が、師を救ってくれる星主なのだと。そして、それはその通りになったのだ。 塔に辿りついた少年は、確かに一つの運命を背負う者だった。ルックが召喚した魔物は決して低位のものではなく、それを倒したということは武芸はそれなりのものなのだろう。後に聞いたところでは、棍使いとしては最高位を名乗る老に師事していたらしい。しかし彼が持つものは決してそれだけではなく、レックナートは少年の背に百八の星を束ねるほどの力を見た。そして自分の成すことのできなかった姉を救うこと、それを託したのだ。 「まるで僕がここに来ることを、貴女は知っていらしたようだ」 少年は笑みを浮かべたまま言った。 「なぜ、そう思いますか」 「だって少しも驚かれていないでしょう。まあ、僕としても驚かしに来たわけではないのでいいですが」 ふと笑みを消して、小さく息を吐いた。 「――思ったよりお元気そうだ」 レックナートはそれには何も答えなかった。少年がここに来た理由は訊かずともわかる、少なくともわかるつもりだった。彼は自分を責めにきた。そしてそれで良いと思う。彼女も息を吐くと、静かに語りはじめた。 「…少しだけ長くなりますが、話をしましょうか」 少年はそのつもりで来たのだと、大きく頷いた。 レックナートはつい先日終結したグラスランド全土を巻き込んだ戦乱について語った。事実は事実として、ルックの起こした計画やその罪を隠しはしなかった。当然それにはセラのことも説明せねばならず、彼女は二人の出会いについても話した。 「ルックがセラを連れてきたのは今から十三年前、デュナンの統一戦争が終結してから二年後のことでした」 ルックは計画のためにセラをハルモニアより連れ出したこと。しかし暫くは計画を忘れたかのように、その娘をとても大切にしていたこと。そしてその娘は必然的にルックを愛したこと。…そして、おそらくルックも彼女のことを。 「――私ではルックを止めることはできませんでした。門の紋章の片側では何の役にも立たず…いえ、それ以前の問題です。私はセラという娘を見たときから、その役目を彼女に預けてしまっていたのかもしれません。彼女の愛情ならば、ルックの全てを受け止め、救ってくれるだろうと」 少年は話の合間にいくつか疑問に思うことを口にした。何故ルックはこのような計画を考えるに至ったのか、そもそも真なる風の紋章とは何なのか。 レックナートはそれについても隠さず話した。五行の紋章の特徴、すなわち継承者に紋章の記憶をまざまざと見せつける力。ルックはその力を持つ紋章が魂と同化していたため、より強く力を引き出すことになっていた。百万世界は歴史を繰り返す、だからルックの見る誰よりも鮮明な紋章の記憶はこの世界の未来なのだと。――彼は、自身の魂を壊すことによって紋章をも破壊し、未来の運命を変えることを願ったのだと。 「ルックの見た未来は他の誰にも理解することはできません。私にも覗くことは不可能で、五行の紋章を持つものですら、あの子ほどのものを見ることはないのです。――もう、ずっと昔からあの子はそれを呪いだと嘆いていた。貴方と出会った頃には、もうあの未来を見始めていたのですよ」 少年は更に訊ねる。自分たちが作った歴史は、ルックにとっては何の意味も成さなかったのか。 レックナートは首を振った。 「ルックは天魁星に夢を見ました。一つの運命の主たるその星は今ある世界だけではなく、おそらく遠き未来をも救ってくれるだろうと」 少年は目を丸くした。 「それほど、あの子は救いを求めていたということです。しかし天魁星は役目を終えると歴史から姿を消した。ルックは夢は見るだけではだめだと、自ら叶えなければならないのだと思うようになりました。未来の運命は、天魁星ですら変えられないのだと」 少年はもう問うことはせず、ゆっくり目を伏せた。それを見てレックナートは言う。 「結果としてルックは世界を敵にし、そして敗北しました。愚かで――…哀れな子です」 沈黙が下りた。二人とも暫く黙したまま俯いていた。レックナートはその間に話したことを自ら振り返っているようだったし、少年はそれをじっくり噛み締めているようだった。決して気まずい沈黙ではなかったが、静かに流れる風の音がやけに虚しい。 やがて、ぽつりと口を開いたのは少年の方だった。 「…僕はいつだって僕でした。未来なんて知らない、とにかく現状を変えようとするだけで精一杯でした。ルックは僕を、いや僕だけじゃない、おそらくデュナンの英雄に対してだってそうだ。買いかぶり過ぎていたのですよ。僕らは一介の人間だ。誰の夢も叶えることはできない。できるのは僕が僕であることで、僕を信じてくれる人たちのために立ち上がることだけだった。だからやはり僕もレックナート様と同じように、ルックはバカだと思います。彼は決して浅はかじゃなかったけれど、それでも愚かだった。しかし…」 「しかし?」 「しかし、ルックは本当に哀れだったのでしょうか。僕は貴女の方が哀れだと思った」 少年は顔を上げ、レックナートを痛ましげに見た。 「何故、そう思うのです」 「少なくともルックはそのセラという娘に救われたのでしょう。では貴女の救いはどこにあるのですか。貴女の孤独はいつになれば癒されるのですか。…貴女の救いであったルックはもういない。ならば、やはり貴女こそが哀れなのではないか」 レックナートが怪訝そうに眉を寄せる。逆に、少年は申し訳なさそうにくすりと苦笑した。 「…でもこれはあくまでも僕の過去の憶測であり、今は違うと確信しています。だからあえて気に留めて頂くことはありません。それに、もし気を悪くされたのであれば謝ります」 「……いいえ」 よかった、と少年は息を吐いた。レックナートは心持ち俯くように首を傾ける。 「天魁星の子よ、あなたの言うことも間違いではないのかもしれません。事実、ルックのいない現実が実感として沸いてこないのです。いずれ歴史からも抹消される紋章の子――せめて私だけが記憶に留めておこうにも、どこかであの子を憂うことを拒むのです」 開くことのない瞳から涙がこぼれそうだと、ふと少年は思った。レックナートの静かな声は頭の中でこだまし、そして響く。心地良いその響きには想像にあまるほどの虚無感が感じられた。そして急に胸をよぎった哀愁に、今度は自分が泣きそうになったことに気づく。 少年は唇を噛んだ。 「――レックナート様、歴史とは捏造されるものです。知っていますか?トラン共和国を建てた英雄は少年だったそうですよ。僕はそれを聞くたびに虫唾が走る。僕は共和国を建てたんじゃない、帝国を倒しただけです。僕は聖人君子じゃないんです。何故、あの戦いで起こった全てのことが歴史に残らない?僕は親友を助けられなかった、父親殺しだ。何故それが裁かれない?…その少年は真の紋章に呪われたそうです。おかわいそうに、だそうですよ。何がかわいそう?憂いでくれるのなら、つい先立って友を亡くしたことを憂いでくれ。この長い一生、それこそ呪われた一生の時間を共に感じることのできる大切な友だったのに!」 吐き捨てるように言った言葉と一緒に、少年は哀愁をも吐き出した。そしてぶんぶんと音をたてて首を振り、 「僕は泣きません。もう、済みました」 硬く拳を作って俯いた。 彼らしかいない魔術師の塔は、あまりにも静か過ぎた。呼吸や、声や、仕草や、数多の空気の流れの音が嫌でも耳に届く。少年も、バランスの執行者も、おそらくそれに気づいている。だから、伝わってしまうのだ。――世界より厭われた紋章の申し子を、二人はこんなにも悼んでいる。 「レックナート様、何が英雄で、何が英雄ではないか。それは人や世界が勝手にでっちあげていくものです。そしてそれは時間が経てば経つほど、鮮明になり、誤ってゆく。でも一方で変わらないものだってあると思います」 レックナートは、ふと、窓の外で音もなく瞬く星を見上げた。少年は目を細めて笑う。 「そう、星…百八の星ですね。彼らだけは真実を守ってくれる。だからきっとルックの説いたことを噛み締め、生き続けてくれる者が在る。懐かしい思い出を風に視て、温かさを感じてくれる者が在る。……僕はそう信じています」 見上げた先の星は何も語らず、そしてそれは太古より変わらない。百万世界が歴史を何度繰り返したところで、星だけはその行く末を黙って見守るのだ。未来も、過去も、星にとっては愛しく過ぎ去るだけなのだ。 少年も窓の外を見る。 「――ルックが運命を変えたいと願うだけであれば、もっと簡単な方法がある。さっき、門の紋章の片側だけでは彼を止めることができなかったと聞いてピンときました。さっさとバランスの執行者を殺せば良かったんだ。運命の天秤が傾き、きっと世界は混沌に飲まれる。そうすれば、彼は自分の紋章を壊す必要もなかったし、その結果セラという娘も死ぬことはなかったでしょう」 レックナートは少年を見、そしてふたたび星を見た。開くことのない瞳に何が映っているのかは、誰も知らない。そして、何を思っているのかも、知ることはできない。 少年は構わず続けた。 「でも、彼はそれをしなかったでしょう?おそらく母親に対するのと同じような愛着があったのですよ、レックナート様――貴女に。きっと貴女が彼に対してそうであったように。そして何よりも彼はやはり自分の生を許すことができなかったんだと思う。彼は儚い、とても。創られた存在である自分を自分だと証明できず、そして悪夢に取り込まれた。…いや夢じゃない、いずれ来る未来かな」 自嘲するように、右の手のひらを開いた。ぐるりと巻かれた包帯に隠されたそれは、ルックと同じ呪いの証を宿している。 「幸か不幸か、僕の紋章は五行の紋章じゃない。だからルックのように未来に苛まれることはありません。確かにこいつは最悪な紋章だとは思うけど、でも、僕は独りじゃないから」 そうしてレックナートの方に向き直り、一瞬照れたように肩を竦ませたが、しかしすぐにまた人好きのする笑みを浮かべた。 「僕にはオデッサがいて、父上がいて、テッドがいて…目を閉じればルックもいるでしょう。そしてグレミオが僕を待ってる。独りだ、なんて言ったら泣かれてしまいます」 少年は膝をつき、レックナートの手を取った。 「――レックナート様、僕は貴女を責めにきたわけではないのです。貴女はずっと目を閉ざしておられるが、そんな貴女だからこそ、一番感じているのではありませんか。ルックがいなくなってからも、この塔の風がとても優しいということに。 さっきも仰っていたでしょう。ルックのいない事実が現実感として沸いてこないと。おそらく、セラという娘がずっとルックのそばにいるように、ルックも貴女のそばにいるのですよ。…眠りについても彼の風は消えない。だから、貴女も独りではない」 少年の真摯な目は、容姿と同じく十八年前と少しも変わらない。自分の手を取る少年のそれは、呪われていてもルックと同じく温かい。 「貴女はルックに百八の星は彼を祝福すると言ったようですが、おそらくルックは貴女を祝福しますよ。きっと、そのセラという娘と二人でね」 レックナートは、今ほど盲である自分を呪ったことはない。この瞬間その瞳に光を宿すことができたなら、間違いなく涙を流すことができたのに。 しかしバランスの執行者はそれを許されず、ただその言葉に耳を傾けるだけだ。 少年は語り過ぎたと苦笑して、手を返した。そして背筋を伸ばして立ち上がる。レックナートを見つめる視線はどこまでもまっすぐで、透明だった。 「最後に一つだけ教えてください、レックナート様」 もはや隠すことは何もない、レックナートは頷いた。 しかし少年が口にしたのはあまりにも意外なもので、口元に浮かんだ笑みは悪戯心を丸出しにした、まさに少年と呼ぶにふさわしいものだった。 「そのセラという娘は、どんな娘でした?」 星占師ですら想像のつかないこともやはり存在するものだ。肩透かしをくらった感のレックナートはしばし茫然としたが、しかし間もなくふわりと笑った。そして柔らかい声で言う。 「真っ白でとても美しい娘でした。容姿も、纏う空気も、ルックを想う感情も、全てが美しい娘です。白く、美しく、しかし決して冷たくはない雪のような娘――それがセラでした」 その声は本当に懐かしそうで、彼女はルックだけでなくその娘のことも悼んでいることがよくわかる。少年はそれに気づきながらも、あえて声を出して笑った。 「美人か…ルックもやるなあ!」 小馬鹿にした表情で外を見る。星が変わらず瞬く中、ほんの少し、強い風が塔を取り巻いた―――気がした。 それを見やってレックナートも笑う。少年はもっと笑った。 少年は間もなく塔を去った。誰にも内緒で来たので、そろそろ大騒ぎになっているだろうと言っていた。レックナートは百八の奇跡の証である金髪の青年を思い出す。知らず知らずのうちに口元が緩む。そう、天魁星は彼の存在で救われているのだ。 少年は去り際に言った。 「レックナート様、ルックはこの前の伝言にはなんと?」 この前といっても数年前のことだ。しかし真の紋章の継承者において時間の流れは常人とは違う。レックナートは気に留めずその時のことを思い返した。そして、ゆっくりと首を振る。 「そっか……やっぱり救いは僕じゃなくて良かったんだ」 少年は少しだけ、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。たとえ本人が否定したとしても、少なくともレックナートにはそう見えた。 客人のいなくなった静寂の塔で、バランスの執行者は一人思う。ああ、これは昔に戻っただけなのだと。しかし一方で紋章の申し子と、彼を愛した白い娘を思う。塔の風が優しいのは彼の存在であり、その風が温かいのは娘の存在なのだ。 彼らの存在は歴史から消えようとも、バランスの執行者はその役目を終える時まで彼らを思う。そして、百万世界が歴史を繰り返すのであれば、その中でまた彼らに出会えることがあるかもしれない。そう、祈りに近い思いを抱きながら目を閉ざし続ける。 彼が最後に夢見たものは何だったのだろうか。彼女は彼に何を見せたのだろうか。バランスの執行者は盲ではあるが、それを良く知っていた。彼らが夢見た世界、懐かしく還る青い未来。それを誰よりも望んだのは、彼女自身なのだから。 しかし今だけは何も望まず、一人であっても決して孤独ではないこの塔で目を閉ざし続ける。 一人であっても、決して孤独ではないこの塔で、 優しく、温かい風とともに。 懐かしい未来で、今この時を懐かしむ日まで。 Fin. Thank you. BACK/TOP |