星が一つ増えるたび、何かがこぼれ落ちていく気がしていた。 「何か」が何なのかは気づきたくはない。 しかし、これは予感だ。 間違いなく、当たってしまう。 懐古瞑想16 ああ、哀れだ主よ。 貴方は愚かなままだ。貴方が逆らおうと、足掻こうと、未来は変わらない。全ては無駄なことだとなにゆえ気づかぬか。 貴方の守るべき世界の上には、貴方のかざす死が下る。そうして、貴方は我の力を必要としているのだ。結果として世界の行く末を辿る道を創造しているに過ぎない。貴方の望みは遠すぎる。何もかもが無駄に終わる。 ああ、哀れだ主よ。 多くの矛盾を抱え、迷い、それなのにひたすら前に進む。何を信じて道を進むのだ。 貴方は人ではないというのに。 ああ、哀れだ主よ。 そこまで何を憎むか。 世界か。世界の結末か。我か。我の力か。貴方か。貴方の空ろな生か。 ――貴方の分身か。 ああ哀れだ主よ。 貴方は望み通り分身から紋章を奪いながらも、どうしても嘆かずにはいられない。 我を切り離せない貴方は、切り離しても生きる分身に焦がれ続ける。貴方の分身は、器でありながら魂は自由だ。 決して、貴方は自由ではない。 生まれ落ちたその時から。 今も。 この先も。 そして、貴方は救われない。 生まれ落ちたその時から。 今も。 この先も。 ずっと、ずっと。 ――誰も、貴方を救わない。 ルックは目をあけた。思ったより長く眠っていたらしい。しかし眠り自体はとても浅い。右手の夢を見て、その夢から逃げるように目を覚ました。――疲れているのかもしれない。 (滑稽な話だ) 彼は死ぬことはできなくとも、人間として行動する範囲では力を消耗する。それは体力であったり精神力であったりいろいろあるが、今の彼には後者の消耗が激しかった。 ルックの真なる風の紋章を破壊する計画が始まり、かなりの時が過ぎた。五行の紋章を集めるためとはいえ、アルベルトの策はグラスランドの地に戦乱を巻き起こすものだった。グラスランドやゼクセンはおろかハルモニアの目すら眩ますには、確かに神官将の地位は役に立った。軍を動かせるという点では人海戦術にも使えたし、いざという時にはセラに護衛をつけることもできた。 しかしその地位を駆使しても、大々的に軍を動かしてできることは限られている。ルックとセラが単独で力を使わなければならない頻度は増す一方だった。戦乱なのだから、当然人は死ぬ。実際ルック自身が手をかけた人間も一人や二人ではなかった。しかし黒騎士・ユーバーと違いルックは殺戮を好むわけではなく、セラは彼以上にそれを厭う。だからこそ、自分が後戻りをする気が全くないことを理解してくれている彼女を見るのは辛い。 こんな時、覚悟を決めて決行した数年来の計画も、ふたを開けてみればその覚悟が何にも足りていなかったことが嫌でも身に染みる。揺るがない覚悟は自分の魂を壊すということだけで、散った命の重みを背負うほどにはルックは強くはなかったのだ。 結果を見れば、ルックの計画で実際に戦火があがったのはグラスランドの一部だけだ。残りはグラスランドとゼクセンのくだらない民族間の争い、そしてハルモニアの呆れるほど勝手なエゴだ。だが、それを利用してまでもルックには譲れないものがある。そうして、彼は素顔を隠しながら力を解放していった。 紋章の気配とシンダルの知識を探れば、この地にいくつかの真なる紋章が眠っていることは確実だった。しかし実際それを見つけるとなると、ままならいことが多かった。そうなるとこの言葉だけは使いたくはないと思いながらも、その存在を感じずにはいられない。運命という、得体の知れないもの。自然、苛立ちは募ってゆく。 しかしひょんなことから五行の紋章の全てが顔を揃えた。それが運命なのか否かは誰の知るところではない。ルックにとっては、少し時間はかかったがそれらを所持する者の全てに星が宿り集った、それだけのことだ。皮肉なことに兄たる存在にも星が宿ったが、それだけは運命とは思いたくなかった。――十五年前に対峙したササライには星が宿らず、ルックは人知れずそのことに安堵していた。ササライの生まれの境遇はルックと同じだが、性質はまったく違う。ルックはそれが心底憎らしく、そしてそう思う自分がとても惨めだった。 「でも戦火が消えるのも―――時間の問題だ」 ルックは深く息を吐き出し、右手を睨みつけた。 つい先日、彼はとうとう五行の紋章を揃えることに成功した。ササライの真なる土の紋章はルック自身が奪い取り、代わりに自分が背負い続けた真実を置いてきた。結果、高貴なる神官将は膝を床につけた。他でもない、円の宮殿の床だ。ルックは一瞬それを誇らしく思ったが、しかしすぐにそれも冷めた。 (セラでさえ、目をそらすことはしなかったのに) 真実を知ったセラはどれほど苦しい思いをしたか知れない。しかし、それでも決して目をそらさずに向き合ってくれたのだ。人間ではない自分を全て受け入れた上で、この道を共に進むことを選んでくれたのだ。 ふと、ルックはかつてユーバーが吐いた言葉を思い出した。セラを飼い猫と呼んだ。 「違う、彼女は猫なんかじゃない」 自分より一歩後ろを歩く彼女は、決して飼い慣らされているわけではないとルックは思う。 右手は云った。 『多くの矛盾を抱え、迷い、それなのにひたすら前に進む。何を信じて道を進むのだ。』 この世界で信じられるものは実はとても少ない。だから、右手の云うことも正しいのだ。お前には信じられるものがあるのか、と。 「他の誰にも、何にも理解することはできないんだ―――セラの存在には意味がある」 では、一体彼女は自分にとって何なのだろうと思う。 セラをハルモニアから連れ出して間もなくの頃、師に同じことを問われたことがあった。セラはルックにとって何なのか、と。彼は答えず、答えないことが正解だと言った。今もそれは変わらないが、しかし何も言わず一歩後ろを歩く彼女を見ると、どうしても何かを伝えなければならない衝動に駆られる。あの時に何かを答えていれば、あるいは別な答えを持っていたら、もしかしたら何かが変わっていたのではないだろうか。 ルックは今も昔も変わらない。何一つとして後悔はしないが、迷い続けて道を歩く。 「彼女は、猫なんかじゃないんだ」 真なる火の紋章を求めて、蟲使いの村に逗留したことがあった。その時にくれたセラの言葉が忘れられない。 『誰も、貴方を救わない』 右手はそう云うが、そしてそれは決して間違いではないのだろうが、しかし、しかし。 あのセラの言葉だけは本当に救いだったのだ。 だから。 「セラは、猫なんかじゃない。僕が手を差し伸べたのは猫なんかじゃなく――…」 今となっては遠き日、円の宮殿の最奥で化け物と呼ばれた存在を迎えに行った日。 ルックは目を瞑り、自然と瞼に映るあの日の光景を見ていた。 そしてゆっくりと目をあける。 「――外の風が騒がしくなってきたな」 もともとセラ以外は当てにしていない。盟約を結んだのは使えると思ったからだ。しかしそれが簡単に裏返ってしまうことくらいわかりきっていた。ユーバーはただ自身の破壊欲を満たすだけの存在だし、特にアルベルトは純粋な人間なのだ。 ルックは周囲を見渡した。もしかしたらこの場所も神殿と呼ばれた時があったのかもしれない。目に見える所――床、壁、柱全てに精巧な模様が刻まれている。しかし今となっては古い遺跡としか呼ぶことはできない。シンダル族の置き土産であるこの地は誰からも忘れ去られていながら、ハルモニアで見つけた文献にひっそりと載っていた。名も無き土地なれど、いずれは儀式の地とでも呼ばれるのだろう。 ―――そろそろ本当に、外がやかましくなってきた。 やはり、所詮アルベルトは人間だ。 セラが戻ってきたのは更に時間が経過してからだった。ユーバーは退屈を嫌うらしく、姿を見せては、また消える。今もまた何処かへ行ったようだが、間もなく戻るだろう。彼の望む混沌とやらが、あと少しで現実のものとなる。 「ルック様、アルベルトが……」 「ああ、炎の英雄を連れてきたんだろう。構わないさ」 「ですが」 「以前ユーバーも言っていただろう?飼い犬なら噛み付くかもしれないと。つまりそういうことなんだろう」 セラはまだ何かを言おうと口を開いたが、ルックがそれを静止した。 「ユーバーの言うことも間違いではなかったいうことさ。…間違っていたのは、きみを飼い猫を呼んだことくらいだ」 「…確かに私は噛み付いたりはしませんが」 セラが少しだけ眉を寄せた。 昔彼女が拗ねた時もこんな表情をしたことを、ルックはふと思い出した。こんな時にと思いながらも、それが妙に懐かしく、可笑しい。 「さっきね、ちょっとだけ思い出したんだよ。きみは猫なんかじゃない。僕がこの計画のために手を差し出したのは猫なんかじゃなかった」 笑いを含んだ声で言うと、セラは首を傾げた。それがまた懐かしく、ルックは本当に笑い出したくなった。 「――…きみは白い、女の子だったよ」 ルックは思う。 願えばすり抜けて行くばかりだ。星を掴もうと手を伸ばしても届かないように、手にした水が指の間からこぼれ落ちてゆくように。 だから、なんとなく予感はしていたのだ。 彼の願うもの――彼の手をすり抜けて、こぼれ落ちてしまうものを。 (僕は僕の魂を壊すより先に、セラを失ってしまうだろう) おそらく予感は現実になる。 十歳の誕生日に置いていかないでと泣いた少女は、置いていかれる前に逝ってしまうのだ。 ああ、哀れだ主よ。 貴方が逆らおうと、足掻こうと、未来は変わらない。 貴方では我を壊すことなどできはしない。 貴方では神たる存在を殺すことはできない。 ああ、哀れだ主よ。 貴方は救われない。 誰も、貴方を救わない。 星が一つ増えるたびに、予感は確信へと変わる。 百八の星は、今度は何の奇跡をもたらしてくれるのか。 BACK/TOP/NEXT |