懐 古 瞑 想 15 こちらを向かず外の月を眺めていたから、表情は分からない。 ―――いいよ、行っておいで 一言だけ呟かれた声はひどく落ち着いていて、そんな彼の思考を読むのは難しかった。 彼はもう、先に別れを済ませていた。 幼い頃、こうして同じように階段を上ったことがある。空間転移の術を禁じられ、今よりもずっと小さな足で最上階まで上がった。途中で疲れ、何度も休んだ。それでも禁じられた術を使う気は全くなく、そして諦めて下りようとも思わなかった。 ―――ルックさまは今日もおかえりにならないのでしょうか 置いていかれたという不安よりも、その原因が自分にあるのだろうと思うと辛かった。よく夢を見たのだ――孤独な自分よりも更に孤独だった彼が、差し伸べてくれた手をこんなにも冷たいのだと目を伏せる夢を。時間が経つにつれ、それは夢だったのか現だったのか記憶が薄れていった。しかしそれは漠然とした苦しさの中から生じたもので、間違いなく胸の中に留まり続けた。 いつの間にかその夢を見ることはなくなったが、ふと思い返してみると、それは彼の手の温かさのおかげなのだろうと改めて気づく。あの日また夢を見たのだ。やはり哀しく目を伏せた彼に笑いかけた夢。そこで自分はどうしたら手が温まるのかを言ったはずだった。彼が何と答えたかは覚えていない。しかしそれより哀しい彼を夢に見ることはなくなったのだから、きっと伝わったのだと思う。目が覚めた時、自分の手は彼の手の中にあったのだから。その時の彼の手は、出会った時と同様に全く冷たくはなかった。 ―――手をつなぎましょう、ルックさま 夢で、確かに自分はそう言った。そしてそれを教えてくれたのが、この階段の先にいるレックナートだった。 レックナートにはこれ以外にも多大なる恩義がある。いくらルックの事情を察していたとはいえ、見ず知らずの娘を――化け物と呼ばれたことを知らないではないだろうに――同じ塔に置くことができるだろうか。門の紋章を狙う輩もいれば、黒騎士のように命そのものを狙う者もいる。彼女は決して安全な身ではないはずだった。それなのに傍に在るのを許されたことには、感謝の念だけでは何にも足りない。そして何より恩を感じるのは、ルックへの感情を気づかせてくれたことだった。わずか十歳の誕生日、自分の想いに気づくことなく真の風の紋章の力を見せられていたら、今の自分はいなかったのかもしれない。――彼に必要とされる自分はいなかったのかもしれない。それを考えると、恐くて身震いする。 もうルックに置いていかれるという不安はどこにもない。更に言えば後悔もない。ただ、大切なことを諭し気づかせてくれた彼女のもとを去らねばならないことは、辛くないといえば嘘だった。 今、セラはあの時と同じ階段を上がっている。あの時とはまったく違う思いを抱きながら。 失礼します、と扉を開けた。 部屋が薄暗いのは夜の帳のせいだけでは、決してない。レックナートが弱々しく微笑んでいた。一足先に別れを告げにやってきたルックが、一体彼女に何を言ったのかは想像するに難くない。 (掛値なしに優しいあの方のことだから) セラは、彼はおそらく哀しい言葉を吐いたのだろうと思った。彼女も傷ついただろうが、彼自身にも何かしら突き刺さるものがあったかもしれない。吐いた言葉が真実であろうと偽りであろうと、彼はもう二度と師に会うことはない。彼は自らに差し伸べられた手をとうとう振り払ったのだ。――何も感じないはずはない。少なくとも、セラは自分が彼の手を振り払ったらどうなるかなどと、恐ろしくて考えたこともなかった。そして、彼もまたそれを恐ろしいと思ってくれていたことを知っている。そのルックがレックナートの手を振り払うことを恐れないはずがないのだ。レックナートも然り。セラはここにきて、急に熱いものが込み上げてきた。 「申し訳ありません、レックナート様」 「……あなたも行ってしまうのですね」 静かな声に、深く頷いた。 「私ではルック様をお止めすることはできません……私では、あの方をお救いすることができなかった」 分かってはいたのだ。ルックの口から全てを告げられた時、レックナートとの約束はもう果たすことはできないのだろうと。ただ、その時ができるだけ遅ければいいと願った。ルックがそれを願っていないことを知っていながら。 その約束を、セラは一度も口外したことがなかった。当然ルックにも話していない。むしろルックだからこそ、といった方が正しいかもしれない。彼には知られてはならない、レックナートとの約束。それが今、セラの中で終わりを告げようとしていた。 「あの日――私がこの塔に連れられてきた日に、レックナート様はおっしゃいました。ルック様を救って欲しいと。私にはそれができるからと。そして私は確かにそれを約束しました。でも、あの時の私はその約束の意味することを理解していませんでした。……レックナート様は、私にルック様をお止めするようにおっしゃったのですね」 「セラ」 「私はもうその約束を果たすことができません。ルック様のおそばにいれば、それがいつか果たされるのだと信じてきましたが―――あの方の哀しみは、そんな単純なことでは癒されはしなかった」 自分ではもうどうすることもできない。ルックは道を定めてしまった。 ――彼は、死ぬ。 「レックナート様、私にはできることがただ一つしかなくなってしまいました。ルック様をお救いできないのであれば、おそばにいること以外、もう何もできないのです」 「セラ」 「――私には手を振り払うことはできません。あの方は私を必要としています。そして、私もまたあの方がいらっしゃらない世界では生きてはいけないのです――…これはレックナート様、あなたが気づかせて下さったことです」 もはや、誰も、どこにも退けない。 誰が悪いわけでもなかった。ただ紋章の申し子が自らの運命を憂い、嘆いた。それだけのことだ。憎むのならヒクサクその人なのだろうが、しかし彼は世界を憎んだ。何にも、誰にも、セラにすら覗ききれないほどの想いを抱える師をも含めた世界を。 おそらくレックナートは、それをルックの口から聞かされたのだろう。何よりも哀しい言葉だと、セラは思う。 彼女の思いを汲んだのか、レックナートは責めることなく静かに話し始めた。 「―――セラ、私は今もあなたならルックを救ってくれると信じていますよ」 「…それは無理です」 「無理ではありません。あなたの思うルックが救われるということと、私の思うルックが救われるということ、これらに少しだけ違いがあるだけです。――ルックは、必ずあなたに救われます」 セラは良く分からないと首を振った。 「あなたは十歳の誕生日、同じように首を振りました……愛情が、よく分からないと。あの時と同じく、これもまた理屈ではないのです。あなたは、その存在で必ずあの子を救いますよ」 「…それは星占師の予言ですか。それともバランスの執行者の云う運命ですか」 「いいえ、ただの必然です」 きっぱりと言い放つ。 「ルックはあなたを手放さないと言った、そしてあなたはルックのそばにいると言った、これが全てです。これが、必然の結果をもたらすのですよ」 「私はおそばにいることしか、できることが分からないだけです」 「ならば、それが救いになるのでしょう。ルックが差し伸べた手はあなたの救いに、そしてあなたが握り返した手はルックの救いに。それもまた、必然です」 セラは泣きそうに顔を歪ませた。 どうして、レックナートはこうも深い言葉をくれるのだろう。ルックにも自分にも必要で、しかし決して口にすることのできない言葉を、どうして知っているのだろう。 レックナートはゆっくりとセラを手招いた。 「あの子を救うために、私も本当はあなた達を引き止めたい、そして実際にそうするつもりでした。しかしあの子にはもう星が宿る。今回はセラ、あなたにも宿るでしょう。門の紋章の片側しか所有していない私では、何の役にも立てません。私ではあの子の隣に並ぶことすらできない…ならばやはりセラ、あなたしかいないのです」 傍らまできたセラは、この瞬間目の前の女性から離れることが本当に辛いと思った。しかしそれは、自分よりもむしろルックに向けられたものだった。 彼の師は、偽りなく弟子のことを深く思っている。だから、そんな人間との別離を選択した彼を思うと辛くて仕方がなかった。 「――…私の居場所はルック様の隣でなくとも良いのです。あの方がふと恐くなり振り向いた時に、その瞳に映るのが私であればいい。私は一歩後ろであの方をお守りいたします。レックナート様が昔おっしゃったように、これで私はようやくルック様をお守りすることができるのです。それを喜びではないと、どうして言い切れるでしょう」 「――後悔はないですね」 「私もルック様と同じです。迷うことはあっても、後悔はいたしません」 言い切ると、セラはふわりとした笑みを浮かべたまま、静かに頭を下げた。 もしレックナートが盲目でなければ、その際セラの頬からに流れ落ちる透明な雫に気がついただろう。 その雫の一つ一つが月光に照らされ、無言のままに光を反射する。 「これが救いになるのかは分かりません。それでも、やはり私は最期までルック様と参ります。ですが、この先ルック様のことだけは、どうかお許しください。あの方を取り巻く全ての星の、全ての責めは私が負います。だからどうか、どうかルック様だけは――…」 静かに眠ることを許して欲しい。 祈りにも似た最後の言葉は消え入るような声だったが、しかし、レックナートは間違いなくそれを聞き届けた。 彼は眠る。何かを遂げようと遂げまいと、きっと、静かに、安らかに。 最後、部屋を出る直前にバランスの執行者はセラの名を呼んだ。 「人という生き物は、誰にでも幸せになる権利があります。また、それと同じように他人を幸せにする権利もあるのです。ルックには、あなたを幸せにする権利がありました。セラ、あなたは幸せでしたか」 セラは振り向き、 「ルック様はもう手を繋いで下さることはないでしょう。だから、もう二度とあの温かい手のひらを握ることはないでしょう。それでも、私は言い切ることができます」 そして笑った。 ―――今も昔と変わらず幸せだ、と。 星見の間から出ると、やはり空間転移の術を使う気にはなれなかった。 ゆっくりと冷たい石段を降りて行く。ルックがセラに真実を話した夜に彼もそうしたように、ゆっくりと、ゆっくりと。 やがてセラが足を向けたのは自室ではなく、ルックの部屋だった。 「もう、いいのかい?」 「はい」 「…そう」 ルックはまだ外の月を眺めていた。 セラがレックナートに挨拶をしていきたいと言った時と変わらぬ体勢で、だから相変わらず表情は分からない。 それでも、おそらくはと思う。いや、絶対だ。彼はそうなのだ、いや違う。そんな曖昧なものが、セラの中で直感的に沸き上がる。 ―――この人は泣いている セラはともすれば鳴咽に変わってしまいそうな感情をむりやりに飲み込み、ルックの背中にそっと額を押し付けた。 「申し訳ありません、ルック様。もう少し、このままでいてもよろしいでしょうか……」 手を繋ぐことはもう叶わなくとも、せめて、これくらいは。 ルックは決してセラを振り向かなかったが、返ってきた声はとても優しかった。 「…ああ、かまわないよ」 もう、セラにはルックの何もかもが哀しかった。その優しい声も、その後の冷たい呟きも。 「セラ、僕は望みが叶うなら、何を傷つけることも厭わない。それで悪鬼と呼ばれようとも一向に構わない。許して欲しいとも思わない。痛みを伴うならば甘んじて受け入れよう。それを愚かだと罵る者もいるだろう―――…それがどうした」 最後は誰に向けた言葉なのだろうか。 セラは、本当にルックが哀しかった。 BACK/TOP/NEXT |