懐 古 瞑 想 14 セラはルックの後について、グラスランドの地を踏みしめていた。 おそらく近くにクランがないのだろう。視界いっぱいに広がる草原の所々で荒々しい大地が顔を覗かせているが、しかしそこに人や亜人種の足跡は一切見当たらない。 この地に何の用かと訊ねると、 「きみに会わせておきたい人間がいるんだ。…向こうも僕に会わせたい奴がいるらしいけど」 淡々とした答えが返ってきた。 ルックの中で何かが――枷のようなもの――がはずれたのだろうか、否、逆に絡みついてしまったのかもしれない。あの晩以降、彼が笑うことは一度もなかった。 そして、自分が笑うことも。 あの晩彼に伝えた自分の答えは、出会った時から偽りなくこの胸にあったものだ。それは手を差し伸べられ、その手を掴んだ瞬間に訪れた。 (ああ、この人こそ果てのない孤独を抱えているのだ――…) 真の紋章という呪いを右手に抱え、そしてその右手を自分に差し出した時の彼の表情、セラはそれを忘れた事など一度たりともなかった。 もしかしたら、この人は左手を差し出すつもりだったのかもしれないと、そんなことを思った。彼は差し出した右手を凝視し、とても驚いたように――後々になってそれはとても珍しいことだと気づくのだが――目を見開いたからだ。 おそらく彼の紋章は、彼自身を苛むものに他ならない。それは直感で感じていたことではあったが、十数年が経ちようやく知った真実はそんな甘いものではなかったのだ。 まさか、自分の死を願うなどと。 これは語弊だ。だが、結果を考えれば同じことなのだ。 世界の未来を変えたい。 変えるためには自分の真の紋章を壊さなければならない。 紋章を壊せば自分の魂も壊れる。 そして、死ぬ。 ―――彼は、真摯にそれを望んだのだ。 まず、手段は他にないものかと考えた。必要なものは五行の紋章。破壊するのは彼の真なる風以外でも構わないはずだ。 だがすぐに溜め息が出た。そもそも紋章をはずすことのできない彼にはそれは不可能なのだ。真なる風の紋章は彼の魂そのもの、破壊するにしても利用するだけにしても、彼の死は確実だ。 そうなってしまっては、もうセラに残された答えはただ一つ。あの出会った時に胸に刻んだ小さな誓いを、最期の時が訪れるまで破ることなく抱き続けることだけだった。 あの晩、ルックの部屋に行く前に思い出したことがあった。 あれは十歳になろうとした夜だった。レックナートが言った。 『その愛情で全てを受け入れてもらうために』 そう、自分にあるのは彼への想いだけ。 『あなたもどうか、あの子を守ってあげて下さい』 彼が、化け物を呼ばれるこの力を必要とするのなら。――最期までお供しましょうと、改めて誓ったのだ。 これはレックナートの言う愛情とは少し違うのかもしれない。しかし、偉大なる彼女ですら彼の哀しみを和らげることができなかったのだから、自分は彼女とは違う道を選ばなければならない。 セラはその覚悟を決め、ルックの部屋を訪れたのだ。 迷いは今もある。 しかし彼に抱かれるほんの少し前、今だけは、と色彩を口にしたその時。 彼には自分が必要なのだと確信した。 そうなっては、それが自惚れでないことを切に願うばかりだ。 それが迷いの生じる理由であるにも関わらず。 待ち人は間もなく現われた。長身の男だ。 「少々遅れましたか」 抑揚のない声で言ったその男は、濃い赤色の髪をしていた。 「いや、時間通りだ。アルベルト」 ルックがアルベルトと呼んだその男はどう見ても普通の人間だ。ならば、とセラは思う。 ――彼はこの場所にどうやって現われたのだろうか。 自分たちは空間転移の術を使い、難なくこの大地の真ん中に足をつけることができた。しかしこの男がそのような能力を持ち合わせているようには、到底見えない。もし馬を使ったのならば、もっと早く姿を確認することができただろう。この地には姿を隠すことのできるものなど、どこにもないのだから。 そこまで行きついて、セラはアルベルトの後ろにまだ人がいることに気がついた。 それと同時に、ルックもまたその人影に気がついていた。そして珍しく嫌悪を露に――通常ならば面倒くさそうに溜め息をつく程度だ――顔をしかめたが、セラには背を向けていたため、彼女がそれに気づくことはなかった。 アルベルトの後ろに立っていたのは彼よりも更に長身の男で、全身を黒い服で固めていた。深くかぶった帽子――やはり黒色だ――からは一つに編まれた長い金髪が伸びている。その帽子は表情はもちろん顔をも隠し、おかげで年齢も見当がつかない。 だがセラは総毛立つような空気を感じて思わずロッドを構えた。 ――殺気。 たった今こちらを狙い始めたというよりも、日頃より纏っていたものが滲み出ているといった感じのそれは酷く気分が悪い。人を容易く殺傷する能力なら自分にもあるが、この気配はルックやレックナートの傍では久しく感じることのなかったものだ。今後、必要になるものとはいえ今更すぐに慣れるものでもない。 しかしセラはそれ以上に不審に思うことがあった。この空気の中に微かな匂いを感じる。それは数年前にデュナンの村で出会った二人の青年から感じられたものと類似していた。 「――ルック様。後ろの黒づくめの男、真なる紋章を」 「大丈夫だ、セラ」 セラが言いかけると、ルックが振り向いた。そしてまたその男を見据えて、低い声で呟いた。 「――…あいつは黒騎士さ」 アルベルトは何も言わずいかにもといった表情でルックを見ていたが、セラは聞きなれない名前に首を傾げた。 直後に響いた多少笑いを含んだ声は、その黒づくめの男のものだった。 「ほう……人間ふぜいが感心だな。俺を知っているのか?」 「ふん、うぬぼれるな。十四年前にお前を切り裂いたことがあるだけさ」 「……十四年前…切り裂く……?」 黒づくめの男は思案するように軽く顎を掴んだ。 そしてルックの顔を凝視すると、ややあって「はっ!」と嘲笑うように声をあげた。 「思い出したぞ、そのツラ。ただの人間の小僧かと思ったが……お前、デュナンの統一戦争でハルモニア軍を退かせた真の風の継承者か」 ルックは眉一つ動かさず、 「継承者じゃない。ただの保持者だ」 淡々と吐き捨てた。 黒づくめの男はそれが楽しいらしく、帽子の影から微かに覗かせる口元をにぃと歪ませた。 「どちらも同じことだ。それは『土』にも言えたことだろうが―――似ているのは顔だけか。力はお前の方が上のようだな。紋章の気配を消すとは大したものだが」 瞬間、殺気に染まる不吉な空気が嫌な予感を走らせた。 おそらくルックもそれに感づいているはずだが、何も言わない。セラは構わず小さく詠唱を開始した。 「黒騎士ふぜいにどう思われようと関係ない。――アルベルト、きみが会わせたがっていたのはこの黒騎士のことかい?」 アルベルトは黒づくめの男――ルックの黒騎士ふぜい、の言葉は気にしていないようだ――に顔だけ振り返ると、また正面を向き直り、頷いた。 「そうです。顔見知りとまではいかなくとも、お互い存在くらいは認めておられるだろうと思っておりました」 「…何のために連れてきた」 「あなたの計画のために」 ルックはその回答を想像していたのだろう。それ以上は何も言わなかった。 代わりに諦めたように深く息を吐き出すと、それを合図にしたように、黒づくめの男が口を割った。 「俺はその計画とやらの、結果をもたらすだけで良いとしか聞いていない。こんな小僧が何を考えていようと知ったことではない。だが、確認しておくことならある――」 そこで一度言葉を切ると、誰もが一呼吸すら置かない一瞬の間に、その場から姿を消した。 それはあながち間違った表現ではない、しかし正しいことでもない。黒づくめの男は気配を絶つと同時、すでにルックの喉元に剣を突きつけていた。一瞬で距離を縮めたその素早さは常人のそれとはほど遠く、間合いを詰める際の殺気もまた、人間のものとは思えない。ルックの喉元に突きつけられた剣は双剣で、彼が動かぬよう交差させられた。当然、その太刀筋までもが一瞬だった。 時間にして、一秒に満たない。 「ユーバー」 アルベルトは嗜めるように声をかけたが、黒づくめの男は構わずルックを牽制した。吐き気のするような殺気だが、ルックは微動だにせず涼しい顔でその黒づくめの男を見上げた。 「――真の風の継承者はバランスの執行者の下にいると聞いた」 「それがどうした」 ルックの答えに、黒づくめの男の気配が変わった。 殺気が更に強まる。 明らかに黒い空気が風を濁らせる。 草原の至るところから低級な魔物が醜い奇声を発しながら逃げ出した。 「結界を解け、そしてあの女を俺に殺させろ」 黒づくめの男の言葉と同時、セラの詠唱が完成した。 ルックはそれに気づいたのか、喉元の双剣を睨みながら低い声で言った。 「――お前のような生き物が、レックナート様をあの女呼ばわりするのは気に食わないな」 「何を綺麗ごとを。お前だってあの女の存在を厭うからこそ、憎いからこそこの計画を考えたのだろうが」 「お前如きの脳内と一緒にするな。僕の魂を壊せば、結果は同じことだ」 「それなら俺がお前を殺しても異存はあるまい?」 双剣が喉にぴたりと当てられた。鋭利に光る刃があと少しで食い込む。おそらく震える程度に動くだけでも皮膚は裂かれる。 しかしルックの表情は何一つ変わらない。 「そんなことをしても無駄だと思うが、大人しく傷つけられるのも腹が立つしね―――…セラ」 名前を呼ばれたのを合図に、セラはロッドを前方に振りかざした。 完成した詠唱はロッドにはめられた水晶を通し、一面に光を降らせた。 その光に黒づくめの男は一瞬たじろいだが、次の瞬間には――表情こそは覗えなかったが――それは間違いなく驚愕へと変わっていた。 「――馬鹿な!」 今、彼等は周囲をハルモニアの軍勢に固められていた。 青地に白色の紋章が刻まれた軍服の集団が、一斉にこちらに剣を向けている。気を落ち着けて眺めれば後方には弓兵が矢を構える姿を、そして更に後方には術を主体とする魔法軍が詠唱を開始しているのも確認できただろう。 ルックが思う限り、アルベルトが表情を強張らせたのを見たのはこれが初めてだった。 「こいつ等は一体どこから……」 呟いたのは黒づくめの男だった。不審がる声は明らかに狼狽している。 それを見やって、セラは男の肩にロッドを突き当てた。 「お下がりなさい、そしてルック様から剣を退くのです」 男はようやくその存在に気づいたかのように、セラを見下ろした。 「女…ただの小僧の飼い猫と思いきや」 「聞こえなかったのですか?剣を退けと言ったのです」 瞬間、ロッドの水晶に強い蒼色の光が灯る。 それを見やり、男は舌打ちをしながらようやく剣を退いた。新手の術が発動されると思ったのだろう。 「――助かった、セラ」 ルックは解放された喉元を軽くさすった。声を聞く限り大事はないようだ。 「いえ、出すぎた真似を致しました…」 おそらくルック一人でもどうとでもなる場面だったのだろうが、セラの術もあって邪魔になるものでもなかったらしい。 ルックは未だ取り囲むハルモニアの軍勢を満足そうに眺めると、 「どうだい、アルベルト?」 「これが仰っていた、彼女の力ですか」 「まあね」 セラを手招いた。 「彼女の幻術はただの幻影じゃない。見せるだけではなく、実際動かすこともできる。この黒騎士でそれを証明してやってもいいんだけど―――」 ルックはちらりと男を見ると、セラは静かに頷いた。 そしてロッドで印を空に描き振りかざすと、たちまち自分達を取り囲んでいた軍勢が消え去った。 「――僕は時間を無駄にする気はないのでね」 黒づくめの男はふん、と鼻を鳴らした。 「大人しくなってくれたところで、改めて紹介するよ。彼女はセラ。術者としての力は申し分ない上に、シンダルの知識なら僕以上に持ち合わせている」 アルベルトは品定めをするようにセラを見たが、黒づくめの男は面白くなさそうに顔をそむけた。 ルックはアルベルトを協力者だと言い、黒騎士と呼んだ男はかつて二度ほど戦地で顔を合わせたことがあるのだと言った。 「黒騎士はね、昔レックナート様の姉君に仕えていたんだ」 セラは目を見開いた。 レックナートの姉がかつての赤月帝国の帝王・バルバロッサの寵姫であり、門の紋章の表側を保持していたことは彼女も知っていた。 「彼はウィンディ個人よりも混沌そのものを望んでいたらしいから、バランスの執行者であるレックナート様を消したいと思っていてもおかしくはない」 「ではレックナート様はとても危険なのでは…」 「大丈夫、こんな奴に殺させはしない。第一、それは僕の目的とは何の関係もない……そうだろう?」 ルックは目を細めてアルベルトを見た。彼は軽く頷き、 「そうですね。ユーバー」 黒騎士を呼び、双剣を収めさせた。 「…いつの時代もシルバーバーグは小賢しい者ばかりだ」 男の呟かれた声は面白くなさそうなものではあったが、先程の殺気はもう感じられない。相変わらず滲み出る程度のそれはあったが、あえて我慢できないほどでもなかった。 「褒め言葉と受け取っておく」 アルベルトが淡々と言った。 間もなく、黒く感じられた空気が元に戻った。 グラスランド特有の冷たい風が足元を駆け抜ける。ルックがわざわざ操ったものではない、自然の風だった。 「――僕は計画の全貌とセラの力を示した。きみは?何を提供してくれる?」 ルックは静かにアルベルトを見上げた。 セラはその時のルックの瞳がとても哀しく見え、小さく息を吐いた。 アルベルトはそれには一向に構わず黒騎士を見やり――男は舌打ちをしてやはり顔をそむけた―― 二つほど約束すると言った。 「二つ――?」 「はい。一つはこの黒騎士・ユーバーを戦力に使わせること。そしてもう一つは――」 勿体つけるわけではないのだろうが、アルベルトは口元を緩めてから、自信を持った声で言い切った。 「遅くとも一年後、あなたにハルモニア神聖国の神官将の地位をお約束しましょう」 ハルモニアの神官になるにはそれなりの段階が必要だ。 更に、それは並大抵の人間では最終段階まで辿りたどり着くことなどできない。もっともエリートの道に乗ってしまえば容易いこともないわけではないが、ルックのように正体を隠さなければならない人物には難しい。それが将ともなれば、不可能に近い。 「僕に神官将の地位を?一介の副軍師にそんなことができるのかい」 「私に策を預けて頂けるのであれば」 ルックは目を細めたが、アルベルトは眉一つ動かさない。 セラには二人の心中がまるで読めなかったが、ここまできた以上、ルックが断るはずはないと思っていた。 案の定、ルックは諦めたように溜め息をついた。 「きみに任せよう、アルベルト」 「ありがとうございます。ルック殿――…ルック様」 ルックは改めて呼び名を言い直したアルベルトに少しだけ顔をしかめ、今度は黒騎士に向かって言った。 「ユーバーといったか……聞いての通りだ、お前にも協力してもらう」 「使うだの使われるなどの言葉は聞き捨てならない。俺は、俺の思うままにやらせてもらう――望みのためならば」 ユーバーは言いながら帽子を深く傾けたが、 「レックナート様の命以外というなら聞いておこうか。…お前の望みは?」 ルックの言葉にその手を止めた。 そして、 「血と悲鳴と――殺戮――、混沌だ」 にやりと笑った。その時、セラは初めてユーバーの瞳を覗き見た。 銀に光る灰色の左目に、対して右は血のように赤い蛇目―――明らかに人間ではない。化け物と呼ばれた自分よりも、創られた存在のルックよりも、遥かに異形の者だとわかる。 恐怖よりも嫌悪すら感じるその表情にセラは思わず眉を寄せたが、ルックは一呼吸置き、しかし何事もなかったかのようにさらりと返した。 「約束しよう、ユーバー」 瞬間、セラは自分の中で何かが崩れたような気がした。もはや以前の優しいだけの彼ではないことは理解していた。だが、やはり自分の中の迷いはまだこんなにも枷となって残っている。 しかし、だからこそ、続けられたルックの言葉は彼女の救いになったかもしれない。 「だけど今度セラを飼い猫と呼んだら、大好きな血はお前自身のものを浴びせてやる。この僕が、直々にね」 ユーバーはおかしそうに笑った。 「どうかな?飼い犬は噛むかもしれんが――」 言いながらアルベルトを見て、次はセラへと視線を移した。 「あながち間違いではあるまい?猫ならば噛み付かんかもしれんしな」 「僕が風を起こすには一瞬の時間すら要らない。今、試すかい?」 「――冗談だ」 後ろでアルベルトが呆れた溜め息つくと、ユ−バーはまたおかしそうに笑った。 もともと今日は顔合わせだけのはずだった、とルックは言った。 アルベルトとユーバーは早々に姿を消した。彼らがこの地に来れたのはユーバーが空間転移の術を使用できるかららしい。 セラとルックは、暫くグラスランドの草原から帰ろうとはしなかった。 「――ごめん、セラ」 「何をですか?」 セラには彼が謝る理由がわからなかった。 自分を飼い猫呼ばわりされたことか、それとも今更のように自らの真実を告げたことか。探せば理由はたくさんある。しかしどれもセラには謝ってもらうことではないのだ。 ルックは何かを振り切るように、首を振った。 「ごめん、世界が憎くて」 「…ルック様」 「ごめん、僕を殺させて」 「ルック様」 セラはうな垂れたルックに手を伸ばそうとした。彼は謝る必要などないのだ。 しかし―― 「ごめん、きみから笑顔を取り上げて」 ――…伸ばした手を戻し、セラもまた俯いた。 「それはあなたも同じです、ルック様………」 これより一年後、アルベルトの言うようにルックに神官将の地位が与えられた。 ルックとセラがレックナートのもとを離れたのはそれよりもほんの少し前のこと。 バランスの執行者の云う、星の集う「その時」がきたのだ。 BACK/TOP/NEXT |