僕は不死と言ったけれど、決して死ねないわけではないんだ。 ただきみも知っての通り自分に自分の紋章の力を向けても死なないし、他人に傷つけられても致命傷までには至らない。 何故か分かるかい?人の手では真の紋章を壊すことはできないからなんだ。 はっきり言うよ。僕の魂は真の紋章と同化している。絡み付いて、どうあっても外すことができない。すでにこの紋章は僕の魂そのものだ。真の紋章は壊せない、つまりは魂も壊れない…僕は、死ねない。そういうことだ。 全てを話すよ。だから最後まで聞いて欲しい。 これを聞いた後、きみは僕に触れてくれるかどうかわからないけれど。 懐 古 瞑 想 13 セラがどんな反応をするか、ある程度予想はしていた。 だから全てを語った後、乳白色の封印球を見て床に崩れ落ちたのは当然のことだ。むしろあの場で嘔吐を催さなかった彼女の精神力の強さの方が予想外だった。 アレは人間の部品であり、決して完成品ではない。しかし、組み上がった完成品は目の前にある。 気分が悪くならないわけがないのだ。彼女は必死に吐きそうになる自分を抑えていた。涙目で、肩で息をして。 それでも、最後まで非情で通した自分を褒めてやりたいと思う。 「僕はきみを手放す気は毛頭ない。でも、きみが自分で僕の手を振り払うのは止めないよ」 苦しむ彼女を気遣うでもなく、冷たい声でその場を去ったのは上出来だ。 感情など、どこにもないのだから。 器である自分には。 彼は朝から寝台に座り、ぼんやりと外を眺めていた。 昼間は眩しいほどの太陽の光が塔を照らし、空の色は透き通るような青色だった。それはセラの瞳の色のようだと連想することもできただろうが、しかし彼には相変わらず灰色にしか見えないでいた。 現実感がまるでない。 長年の重荷を一気に下ろしてしまったかのような、脱力感だけが彼を支配していた。 「覚悟はあった。後悔もない。ただほんの少しだけ…」 ルックは言い訳をするように目を伏せ、呟いた。 「…恐いかもしれない、それだけだ」 『あの娘は何があっても貴方の手を振り払うことはありません』 ルックは師が昨夜言ったことを思い出していた。 彼が十一年前に立てた計画には、どうしてもハルモニアの飼いならす化け物の力が必要だった。しかしセラにとってルックが人間ではないという真実が衝撃だったように、同じくルックにとってもそのハルモニアの化け物の正体は驚愕に値するものだったのだ。 まさか化け物が、白い少女などとは。 「ある意味、裏切られたのはどっちなんだか……」 しかしその裏切りはこれはこれで良かったのかもしれない、と思うのもまた事実だ。 当時、ルックは化け物が必要だった。 だが彼が今必要としているのは化け物ではない。セラだ。 その微妙な変化をルックは恐ろしく感じていた。 「矛盾だな。セラを必要としていながら、彼女にはこの手を振り払って欲しいと願っている。でも実際振り払われたら――…」 その先を考えることも、また恐かった。 ふと、窓の外から風が入ってきた。思ったよりずっと冷たい風で、それはいつの間にか陽が沈み夜がやってきたことを告げた。 いつの間にか外の空は青色から夜闇へと姿を変え、太陽の代わりに月が浮かんでいる。しかしそれでもルックの瞳には何一つ変わらないままに映っていた。 せめて色彩をこの眼に宿すことができていたら、星巡りの何かが変わっていただろうか。 見えないでいるものも見えていただろうか。 それとも、見たくもないものが見えてしまうのだろうか。 ――気づいてはいけない現実に気づいてしまうのだろうか。 ルックはとりとめのない、後戻りのできない疑問に苦笑した。 それとほぼ同時、珍しくノックの音もなく部屋の扉が開いた。 誰か、などとは愚問だ。名を呼び確かめるほどでもない。 「……気分は?」 「平気です」 「そう」 淡々と会話をした後、ようやくルックは振り返った。 扉はいつの間にか閉められていて、思ったとおり、そこにはセラが立っていた。 「――…正直、驚いたな。きみがこんなに早く答えを持ってくるとは思わなかったから」 そう言いながら、しかしルックはセラが充分に迷った末にここへ来たのだろうと思っていた。 本当はもう休むつもりだったはずだ。しかしどうしても答えを出さなくてはという衝動に駆られたのかもしれない。セラは上に特に何も羽織らず、薄い夜着のまま、裸足のままだった。 「もっと衝撃は強いと思っていた……少なくとも、頭で理解するより身体の方がね。僕は初めて『僕自身』を見たとき、永久に目をそむけていたくなるほど気分が悪くなったけど…よくきみは僕を直視できるね」 セラは何も言わず傍まで来ると、軽く横に首を振った。 「――私が気分を悪くしたのは、あなたの真実にではありません。あなたはとうにお忘れかもしれませんが……」 「…何を?」 「私がこの塔にきたばかりの頃です。あなたは私にハルモニアのために壊れることはない、と仰いました。私は私が壊れることがあるとしたら、それはルック様のためだけです、と言いました。あなたは――…」 ルックは嫌な予感に眉をしかめた。しかし彼女は構わず続けた。 「ルック様はありがとう、と言ったのです」 そういえば、そんなことがあったかもしれない。ルックは記憶の片隅に幼いセラの声を聞いた気がした。 確か、セラにハルモニアではどのような扱いを受けていたのかを訊ねた時だった。セラの口から聞かされた真実に、自分も確かに吐き気がしていた。 「あの時から、いえあの時にはすでに答えを持っておりました。気分が悪くなったのは、あの時のルック様と同じ理由――ハルモニアへの絶対の嫌悪。あなたの真実は、私の答えを歪める理由にはなりません。何度でも申し上げましょう、わたしは――…」 半ばうつろな瞳で見上げるルックに、セラはきっぱりと言った。 「セラは、いつも、いつまでもルック様のおそばに」 ――いつも、セラの部屋は居心地がいいと思っていた。 空気の流れか、それとも馴染みの茶葉の香りのせいか。 しかしそれは全く違うのだと、たった今気がついた。 ルックが化け物ではない、ただのセラを必要としている理由がそこにある。 色彩がなくとも、風のうるさい自室で気づいてしまった現実がここにある。 ルックはセラを引き寄せ、力いっぱい抱き締めた。 「違うんだ、本当はきみは僕から逃げ出していいんだよ。きみまでが世界を憎む必要はないんだ―――!」 全身から絞り出すように叫ぶルックの腕の中、セラはかぶりを振った。 「私はルック様が手を差し伸べて下さったその瞬間から、この答えをずっと持ち続けております。私がこの世に存在する意味は、その答え一つだけなのですから」 彼女は静かに手を彼の背中へ回した。 「…それだけなのですから」 その瞬間、ルックの視界に映る灰色の景色が一気に極彩色に染め上がった。 極彩色といっても、その場を支配している色は窓から差し込む月明かりの白い青色に、セラの白皙と細い髪の金色だけだ。 しかし少しだけ体を離して改めてセラを見ると、そこには今までとは全く違う世界の彼女がいたのだ。月明かりを受けて静かに自分を見上げる彼女は、赤や青にも劣らぬ鮮烈な「白さ」を放っていた。それこそ灰色の世界の白さは違う、明らかに極彩色の白さだった。 (――ああ何だ、きみの白さも雪の白さと同じなのかい) ルックはレックナートに初めて見せられた銀世界を思い出した。そして、自身で「セラの白さは雪とは違う」と否定したことも。 結局、セラはルックと同じだったのだ。凍える魂を解放したくて、温かい手に救いを求めていただけだった。 しかしセラがその手を見つけたのに対し、ルックはそれに気づかず後戻りのできないここまできてしまった。 その彼に、セラはついてゆくと言ったのだ。 昨夜自分は師に似ていると気づいた時に、何故気がつかなかったのか。セラはこんなにも自分と似ている。呆れるほどおかしいループだと、確信していたはずなのに。 「セラ――…」 ルックは鮮烈な白さに目眩がした。その目眩が喜びなのか悲しみなのかは、本人にも分からない。しかし沸き上がるこの感情をどうしても抑えられることができず、彼はゆっくりとセラの唇を自分のそれで塞いだ。 セラが抵抗する素振りも見せずに素直に受け入れると、ルックは更に力強く抱き締めた。 もし今腕の中のセラが彼を拒んだとしても、もう彼女を手放す自信はどこにもない。 いつか天魁星が言った、「大切なんだね」の意味が痛いほど良くわかる。 昨夜師が自分にはセラを大切にする権利があると言った意味が、悲しいほど良くわかる。 例えそれが器の叶わぬ戯言だとしても、ルックはその感情を知ってしまった。気づいてはいけない現実に気づいてしまった。 一度だけ唇を離すと、ルックは頬に息のかかる距離で静かに呟いた。 「…今だけは、きっと空も青いね」 セラはふわりと顔を綻ばせ、そして再び強く抱き合った。 自惚れでなければ、互いの存在なしではもう呼吸すらできないと思いながら。 ―――やがて部屋に響いたのは二つの音。 床に薄布が落ちる際の衣擦れと共に、ぎしりと寝台が軋んだ。 何度か互いの名を呼んだかもしれないが、それは二人の記憶には残らなかった。 淡い月光の下、二つの影が静かに重なってからは。 セラの細い肩が微かな寝息に合わせて規則正しく上下する。夜中は晴れて月が出ていたが、今は霧で霞みがかっていた。だからだろうか、彼女の肩はより一層白く見えた。しかしいつの間にか彼の極彩色は色褪せていて、彼女のその白さは鮮烈ではなかった。 ――もうじき朝陽がのぼる時間だというのに、鳥の鳴き声なども一切しない。灰色世界と耳が痛いほどの静寂に、いつもの悪夢がとうとう現実になってしまったかのような錯覚すら覚える。 ルックは起こさないようにそっと彼女の顔を覗き見た。目尻に溜まった涙はすでに乾き、長い睫毛は白い頬に影を落としている。 彼は思う。 全てが憎々しいこの世界で、何故、この時この一瞬だけは違うんだろう。 何故、創られた身体の奥の奥から疼くような不思議な想いが沸き上がるんだろう。 「きみが大切だよ」 ぽつり、呟いた。 彼はこの感情の名前を知っていた。しかし実際の「それ」は正しい答えに限りなく似ているだけで、決して答えそのものではないのだ。彼の感情に正解はない。 だからそれに類似した感情が胸を揺さぶったことに気づいても、今となっては虚無感しか残らない。 ルックは左手で右手の甲を強く引っ掻いた。口惜しそうに何度も何度も爪を立て、紋章の印に食い込み皮が裂け赤い血が流れ出しても、左手の爪が剥れそうになっても、それでも彼は止めなかった。 「僕はセラが好きだ、大切だ、大切なんだ――…」 何度口にしても、何も変わらない。 胸が、魂が揺さぶられるほどの熱情なのに、しかしこの感情を僕は抱くことができない。僕は魂を持つ人間じゃないから。 セラは目を覚まさない。 こんな時に限って、うるさい右手は何も言わない。 ルックの嘆きは誰にも届かない。 「こんなに、こんなにもきみが大切なのに、愛しいのに、それなのに」 彼は右手を傷つけるのを止めた。どんなに傷をつけようと血を流そうと、紋章が消えることはないし、自分はもう、後戻りはできないのだ。 セラの額に口づけ、自嘲気味に呟いた。 「…これを愛情と呼ぶことができないなんて」 器の自分が恨めしい。 ルックがセラを抱いた日。 この夜以降、彼が自分から彼女に触れることがなくなった。 BACK/TOP/NEXT |