それはシンダル族の古い記述によるものだったが、拍子抜けするほど簡単なものだった。
 探し出すのに数年、だが読むのに数刻、理解するのは一瞬だ。
 
「五行の紋章には特有の均衡があり、四つの紋章を揃えれば、残りの一つを砕くことができる
 真の紋章を砕けば、世界の均衡は崩れ、今ある未来を変えることができる」

 そして、恐ろしいことに覚悟を決める時間はもっと短かった。

「真なる風の紋章を砕けば、魂も呪いから解放される――…」







 懐 古 瞑 想 12







 思えば、始まりはささやかな願いのはずだった。
 孤独な自分には孤独な空気が手に取るように分かる。なによりも風が教えてくれる。
 あの人は、いつも孤独だった。
 差し伸べてくれた手は温かかったけれど、心の奥底にはあの日見た銀世界のように孤高な冷たさがある。


 ルックは気の遠くなるほどに続く階段をゆっくり上がっていた。
 最上階へ上がるには空間転移の術を使えば簡単だ。しかし、彼はあえてそれをしなかった。
 彼は一段一段、冷たい石段を踏みしめるたびにかつての自分を思い出していた。






 初めてこの塔にやってきた時だった。
 閉ざされた神殿で見る悪夢は、まだはっきりしたものではなかった。たまにみる悪い夢、その程度の認識だった。うなされ、全身に汗をかき、悲鳴をあげながら目を覚ます。しかし目を覚ました瞬間にその夢が何だったのか、何一つ覚えていなかったからだ。
 当然、その「悪い夢」が真の紋章のせいだと知っていた。しかし当時はそれに対する現実感などまったくなく、未来に絶望することもなかったのだ。そして、現実は幻想などではないと信じて疑っていなかった。
 だから、あの頃は今よりもずっと素直だったのだ。
 突如現われた長い黒髪を纏った盲目の魔女の誘いにあっさり乗った。
 そして、外の世界に驚愕を覚えた。

 それは――白色。
 銀世界と呼ばれる一面の雪景色が、目に飛び込んできた。

「貴方は初めて目にするのですね……。美しいでしょう、これは雪ですよ」
「ゆき、ですか」
「そう。触ってみては?」
「………うわっ」
「冷たいでしょう?」
「はい」
「雪は白く、美しく、冷たい……貴方はこれからいろいろなことを学んでゆかなくてはなりません。貴方は今日から生まれ変わるのですよ。強く、強くお成りなさい。紋章の子よ、貴方の風は自由です」
「………」
「泣いているのですか」
「――…わからない、僕は何もわかりません」
「何故でしょう。貴方は今、泣いているのですよ。一体何が、貴方の感情を突き動かしたのでしょう。わからないはずはありません。貴方は知っているはずです。……何故、貴方は泣いているのですか」

 ルックは答えなかった。本当にわからなかったのだ。いや、答えは知っていた。ただそれを答えるべきなのかどうかがわからなかったのだ。
 自分は自由であるという現実。そして雪は白く、美しく、冷たいという現実。間違いなく、それは幻想などではない。しかしそれを言葉にしてしまえば、本当に幻想に散ってしまうのではないかという恐怖があったのだ。
 だが涙の出る理由を自覚していても、その時に受けた衝撃の意味が、当時には全く理解できなかった。否、ほんのつい先刻まで知らなかった。
 それなのに、今は笑いたくなるほど簡単に理解できる。
 本当に自由で在りたいのは僕じゃない。
 白く、冷たく、美しいのは雪じゃない。

 あの頃はまだ幼かった。
 書庫や自室で一人で本を読むのも嫌だった。
 時間があれば師のそばにいることを望み、本を読み、いろいろなことを学んだ。
 その時に優しく頭を撫でられることが、ルックの数少ない楽しみでもあったのだ。
 ふと、その頭を撫でられている時に笑いながら言った言葉がある。

――…ねえレックナートさま、僕は紋章のない世界を生きてみたいです

 叶うはずのない、途方もなく大きな願いだ。
 それは彼も幼いながらにもしっかりと理解していた。だから、その後に付け足した言葉があるのだ。






「…紋章のない世界であれば、か」
 ルックは最後の階段を踏みしめて自嘲した。
 一歩進めば扉がある。
 その向こうに、レックナートはいる。
「もう、子供じゃないんだ」
 ルックは雑念を払うように軽く首を振り、一つ深呼吸をした。
 緊張しているのだろうか?
 空間移動の術を使用しなかったのは、階段を上がりながら気持ちを整理するつもりだったからだ。
 しかしもとより覚悟はできている。実際整理されたのは気持ちではなく、記憶だった。
 緊張などしているはずがない。
「一つ報告するだけだ。とても、くだらないことを」
 ルックは何度も何度も開けたことのある扉に、静かに手をかけた。
 
 星見の間はいつになく薄暗かった。
 事実もう夜なのだからそれは至極当然のこと、だがルックにはそれだけではない感じがしていた。月光に照らされる師の顔は、いつも以上に青白かった。
「――レックナート様、僕は見つけてしまいました」
 彼女は答えない。それはルックが見つけたものが何であるかを悟っているという沈黙だ。
「今夜、全てをセラに話します」
 しかし、今度はゆっくりと口を開いた。
「全てを、ですか」
「はい。僕がセラを必要とする理由、僕が呪われた秘術から作られたヒクサクの複製の失敗作であること、魂に紋章が絡みついているから死ぬことができなかったこと――…そしてその紋章をはずす術をようやく見つけたということ」
「…後悔はしませんか」
「僕は、迷うことはあっても後悔はしません」
 レックナートはややあってから、そうでしたねと消え入るような声で呟き、そして入り口に立ったままのルックを手招いた。
 彼は足音を立てずに、師の隣まで歩み寄った。かつての目線は水晶の前に腰掛けた彼女と同じ高さだった。しかし、今はルックの方が屈まなければ彼女と同じ位置で話すことはできない。
 ルックはレックナートを立ち上がらせるような真似はしたことがなかった。
 したく、なかった。
「レックナート様、セラはこのことを知ったら僕から逃げてしまうかもしれません。僕は彼女を手放すつもりはないけれど、彼女には僕から逃げる権利がある。そして、僕には彼女を追う権利はない。…でも、それでもいいんです」
 片膝をついて、師の顔を見上げる。
 閉ざされた瞳には何も映らないであろうに、しかし、師もまたルックの顔を静かに見下ろした。
「それでも、後悔はしないというのですね」
 ルックはゆっくりと、そして大きく頷いた。

 セラはもう十七歳だ。ルックがこの塔に連れてきてから十一年もの時間が流れたことになる。
 何もわからないでいる少女では、もうない。
 ルックはそれを承知しているし、セラも自覚しているだろう。
 ここ一年、ルックがハルモニアへ出掛けても何も問わず、本当にただ「その時」が来るのを黙って待っていたのだ。
「――何を訊かれても、全て答えるつもりです。それが、僕の義務だ」
 呟くと、ふいに師の手が伸びた。
 その手はルックの頭に乗せられ、そのまま静かに撫でられた。
 まるで、幼い頃のように。
「貴方は何をするにしても自由です。セラに真実を話すのも然り。しかし、貴方は大切なことを一つ忘れていますよ」
 撫でられる手を振り払うでもなく、ルックは軽く小首を傾げた。
「…何をですか」
「貴方がセラを連れてきた日に私は言いました。貴方には、セラを大切にする権利があると」
「……」
「セラには逃げる権利がある、貴方には追う権利がない、でも貴方はセラを大切することができるのですよ」
 ルックは何も答えられなかった。
 しかし、答えられないからといって考えを曲げるつもりもなかった。
 真実を告げるということは、間違いなくセラを傷つける。それは自分にたった一つ許された権利を棒に振るということだ。
 それでも、それでも。
「セラは逃げませんよ。あの娘は、貴方に手を差し伸べられた瞬間から貴方に応えることを望んだ。…ルック、あの娘は何があっても貴方の手を振り払うことはありません。それだけは、覚えていて欲しい……」
 ルックは頭の上に置かれた白い手を取り、数瞬見つめると、静かに彼女に返した。
 頭の上にふってきた優しい声は、セラの部屋とおなじくらい、心地が良かった。

 一礼をして星見の間を出る時、ルックはふと振り返った。
「昔――セラがこの塔に来てまだ数ヶ月の頃、夢をみました。セラが僕の手は冷たくない、もし冷たいのであれば、それは僕が独りだからだと。そしてセラは自分がいるから、もう僕が独りではないと言いました。夢の話ですし、僕が何と答えたのかは覚えていません。でも、いまこうして思い返すことができるのは、レックナート様…あなたとシンクロするからだ」
「貴方は、セラが私に似ているとでも言いたいのですか」
「……僕はもう気づいてしまった。レックナート様、あたなは自分こそが孤独だとお思いだったのでしょう?僕に差し伸べたご自分の手こそが冷たいとお思いだったのでしょう?あなたは僕の存在で、手が温かくなったとでも?」
 レックナートは答えない。

「…そんなあなたを見てきたから、僕は紋章のない世界を望んだのですよ。あなたに似ているのはセラではない。僕の方だ」






 ルックはまた空間転移の術を使用せずに、階段を下りていった。
 靴の下に冷たい石段を感じながら、一段一段ゆっくりと下りてゆく。

「『僕は紋章のない世界を生きてみたいです』……紋章のない世界、か」
 扉を開ける前に思い出した言葉を反芻した。
 そして、先刻は改めて思い返しもしなかったその言葉の続きを、幼い頃の自分が頭の中で囁いた。

 『ねえレックナートさま、僕は紋章のない世界を生きてみたいです。
 紋章のない世界であれば、バランスはいらないでしょう?
 そうすれば、あなたも泣くことができるでしょう?
 ねえレックナートさま
 紋章がなければ生きていない僕だけれど、僕は紋章のない世界を生きてみたいです。

 あなたといっしょに』

「僕がやろうとしている未来に、あなたはまだいらっしゃるのでしょうか……レックナート様?」
 くすりと微笑った。
 もし自制心というものがなければ、声を大にして腹を抱えて笑っていたかもしれない。
 それほど、おかしかくて仕方がなかった。
 なんてことはない、自分が望む世界は自分の救ってくれた者の願いで、今度はそれを自分が救った者に強要しようとしているのだ。
 呆れるほどおかしいループだ。 星廻りだ。 運命だ。
 本当に自由で在りたかったのはレックナートの方だ。
 初めて見た色彩――銀世界さながらに、白く、美しく、冷たいのはレックナート自身だ。
「僕があの日泣いたのは、あの方のためだ」 
 しかしルックはいずれ彼女の元を去る。
 彼女の手を振り払う。
 手を差し伸べられた瞬間は、確かに彼女の孤独さに涙が出たのに。

 だから、と目を伏せる。

「……本当に生きてみたかったんですよ。どこまでも、いつまでも、可能な限りあなたと一緒に」






 そうして、ルックはセラの部屋の扉を叩く。
 彼女は嬉しそうに微笑みながら彼を部屋へ入れる。いつものお茶を出して、たまにはお砂糖をいれるのも疲れがとれていいですよ、くらい言うかもしれない。
 しかし、願いと現実と未来だけは、上手くいかないものだ。

 ルックが一体いつ以来か知れないほど昔に召喚した、乳白色の液体の入った封印球を再び右手に浮かべるなどと、一体誰が想像できる?
 その液体に浮かぶ「モノ」こそが愛する者の正体と知ったセラの衝撃を、誰が想像できる?

 紋章の子は自らの死を願うだろう、
 紋章の子を愛する娘はその願いを聞かざるを得ないだろう、
 それらを何も云わず見守ることしかできないバランスの執行者の哀しみを、誰が想像できる?


「セラ、僕はこの世の全てが憎いよ。紋章やハルモニアやヒクサク全てを含む世界が憎い。でも何よりも一番憎いのは――…」

 きみを手放す気がない僕だよ、と呟いた。




















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