懐 古 瞑 想 11







 身体に絡み付く空気がちりりと音を立てた。それは普通の者には見えない巨大な蜘蛛の巣に捕まってしまったような違和感からくるものだ。
 だが、それはあくまでも捕まった獲物が普通の者である場合だ。
「いつもながら無駄なことを、とは思うけどね」
 ルックはひゅいと口笛を吹くと、そこから生まれた微かな風で見えない糸をぷっつりと断ち切った。
 瞬間、ぱしっと何かが弾ける音がしたが、それもまた普通の者であるならば聴こえないものだ。
「…くだらないな」
 ルックは一歩を踏み出し、仰々しい扉を何事もなかったかのように開けた。
 身体に絡み付く空気はとうに消え去っている。


 ハルモニア神聖国――栄えある真なる円の紋章の継承者・神官長ヒクサクが統べる地。彼の名のもとに政治、経済、戦争、全てにわたり「巨大」という名を欲しいままにしている国家。
 しかし全てが豊かに平和に幸福に、というわけにはいかないのが現状だ。貧困の差は大きく、奥に輝く円の宮殿とほんの少しわき道にそれると迷い込める路地裏を見れば、それは一目瞭然だった。
 ルックはその街並みを抜け、神殿と隣り合わせに位置する建物に足を向けた。
 途中、少年という容姿に合わせて綺麗な顔立ちに惹かれたのか物乞いの類が声をかけてきたが、彼はわざとらしいまでの一瞥をくれてやると無言のままに通り過ぎた。

 宮殿の前まで来ると、ばかばかしいと呟きながら、懐かしそうに建物を見上げた。
 故郷と呼ぶものではない、だが此処で生まれ育ったことは事実だ。
「何も、育んではいないけどね」
 嘲笑ともとれる笑みを浮かべ、そしてようやくルックは薄く張られている結界に気がついたのだ。
 この国には何度も来たことがある。仕事であったり興味本位であったりと理由はさまざまだが、彼はそのたびにこの結界がおかしくて仕方がない。
 自分が逃げ出したせいか、セラを連れ出したからか、それとも更にずっと以前からなのか――一体いつ頃、どんな理由で張られるようになったのかは分からない。しかしこの結界はそれなりの魔力を持つ者に対しての網だということは承知している。かかれば上位の神官たちがご丁寧にも数人がかりで取り締まってくれる。
 だが、逆にルックほどの魔力の保持者には何の意味も成さないのだ。申し訳程度に張られたただの蜘蛛の巣、それが滑稽でルックは訪れるたびに冷たく目を細めた。
 幼い頃はこれを破る――そして慌てふためる神官たちを尻目に逃亡する――のが楽しくて大袈裟に破壊して進入することが多々あったが、今日はそれをできるだけ避けたい。真の紋章の力をもってすればそれは容易く、口笛一つで糸を切り穴を開けることができる。
 そして今のルックは、それをこの巨大な蜘蛛の巣において、その穴を針の穴程度の大きさにとどめることができるのだ。

 結界内にあった、宮殿と隣り合わせの建物は“一つの神殿”と呼ばれる巨大な書庫――図書館だ。
 何もかもに巨大という大きさを形容する言葉が付くのが気に入らないが、ルックは扉を開けると迷わず紅い絨毯の敷かれた階段を上がっていった。
(一階にあるはずがない。二階か?いや、もっと奥にあるはずだ。……最上階、だな)
 一階、二階、とルックはどんどん階段を上がる。下の方の階は一般娯楽の本が並んでいるせいか、閲覧者も民間人が多い。上階に上がれば上がるほど、学生や他国からの留学生、時には神官などの姿を確認することができる。民間人がさして興味を示さない学問、知識がそこにあるからだ。
 最上階は閑静とした場だった。広さの割に人は少なく、幸いなことに神官服を着た人間の姿はない。何人かがちらりとルックに目をやったが、すぐに目下の本や資料に目を落とした。「少年がこんな所に珍しい」とでも思ったのだろうか。ルックは特に気にしなかった。
 目当ての棚はほどなく見つかった。やはり塔の中の書庫とは揃えられている物が質、量ともに違う。古書であるならば塔内の物の方が遥かに値打ちがあるのだろうが、しかしそれはルックには関係のないことだ。彼は探し物が見つかれば、それで良い。きっとこの場所には自分を満足させるものがあるに違いないと、ルックは期待した。

 実際右手に真の紋章を宿す者にしてみると、ここにある本は非常に面白いものばかりだった。
 ルックが片っ端から手にしているのは紋章学だ。当然、中には真の紋章を詳しく説明するものもある。彼はそれがあまりにも現実とかけ離れていることに嘲笑を隠せなかった。文字で読む真の紋章はあまりにも他人事で、客観的すぎる。これを読んで紋章を知った気でいる人間がいるのなら切り裂いてやりたい。ルックはそんなことを考えながら、笑った。
 紋章学と一口にいっても広い。神官が常識として知るべき知識から紋章師が身につけるべき玄人の知識、またはそれを指導するべき者が必要とするものまで、レベルが数段階に区切られている。
 だが、ルックが欲する知識はそのどれにも属していない。その程度のものであるならば、塔内の書物だけで充分だった。
(そう簡単には見つからないとは思っていたけど――…)
 今更焦りはしない。しかし自分がこの場所にいるのは現にこの国が戦争をしているからであり、それは間違いなくあの悪夢への一歩なのだ。
(その一歩の先にあいつがいると思うと、虫唾が走る)
 ササライ。
 ルックは声には出さず、唇だけでその名を呼んだ。
 憎くて愚かな、真なる土の紋章の保持者。

 憎くて愚かで、哀れな兄。

 一度だけセラに吐露したことがあったかもしれない。記憶が朧気なのは、それが夢か現かの時だったからだ。
 ササライは真の紋章の継承者ではない。あくまでも保持者だ。ヒクサクからの借物(かりもの)をその身に宿しているだけ。その身こそが仮物(かりもの)であることを知らずに。
 しかし彼の場合、その仮物を「成功作」と云う。
 成功作の仮物は神官将と呼ばれ、失敗作の仮物は器と呼ばれる。
(――ああそうだ、僕は器だ。空ろな生を背負い、見える未来に絶望し、欲する現実は幻想だった)
 だから、ルックはササライのいないこの隙をついてこの国に足を踏み入れた。
 一軍を率いるほどの有能な神官将がのうのうと街中をうろつくとは考え難いが、万が一ということもある。彼と再会したとき、ルックは今の自分が何をしてしまうか本当に想像がつかなかった。
 嫉妬か憎悪か羨望か。
 ルックのササライに対する感情は、誰にも、本人すらも理解できていない。


 すでに何冊手をつけたのか分からない。棚の端から順に手に取ってみてはいるが、さすがに一日程度で臨める量ではない。
 どのみち一度は帰る予定だった。セラには隠さず話してきたが、レックナートには自由を行使すると自らに言い訳をして黙ってきた。
(これは後日に回すしかないか…)
 せめて、もう少し調べる幅が狭ければと溜め息をつきかけた時だった。
「――随分と熱心にお探しですね。 お若いのに、紋章に興味がおありですか」
 ふいに背中から声がした。
 ルックは振り向きもせず、気配だけで様子を窺った。
 二十代前半くらいだろうか、声は若い。青年だ。足元にかかる影からみても、身長はかなりあるようだ。だが所詮は図書館にくるような輩、作り込まれた体格ではないらしい。
 ルックは冷たい声で、そして丁寧な口調で答えた。
「僕くらいの年齢で紋章学を志す者は少なくないでしょう。ましてやここはハルモニア神聖国、世界中の留学生が集まるあらゆる学問の地。そう珍しくもないと思いますが」
 声に刺々しさを残し、吐き捨てる。視線は本に落としたまま。
 背中から発せられる空気そのものが、暗に「だから早く何処かへ行け」と示唆している。
 だが、青年は立ち去らなかった。
 しかも、思いもよらない切り返しがきた。
「あなたほどの年齢? そうですね、あなたがただの少年であれば私も通り過ぎるばかりだったのですが」
 ルックはぴくりと肩を震わせた。
(この男――僕のことを知っている?)
 声を掛けてきた青年は、ルックのことをただの少年ではないと見抜いてた。それは能力的にではない、あくまでも年齢的にだ。
 つまり、それはルックが不老である、真の紋章を宿していることを知っているということ。
(だが、今は僕も力を封じている…)
 力を使ったのは一瞬だけ、結界を切った時だ。だがその程度のことはここの神官程度には見破られはしないし、その後もルックは力を封じていた。たとえ側に真の紋章を宿す者がいても、共鳴すらさせないほどにだ。ということは、この男は結界を切ったことに気づいて近づいてきた神官ではないはずだ。
 では、過去に会ったことがあるのだろうか。しかしそれならそれで別の声の掛け方があるだろう。
 ルックは眉をひそめた。
 それと同時、青年がまた思いもしないことを話しはじめた。
「おそらく、あなたがお探しのものはこの棚にはありませんよ。 五行の紋章については、別の棚に移してありますから」
「――!」
「あなたは真の紋章の資料ばかりを探しておられるようだ。 特に五行のように特徴のあるものであれば――」
「ちょっと待て」
 ルックはパンッと音を立てて本を閉じた。
 そしてようやく声の主を振り返り、その目に向かいありったけの嫌悪感をぶつけた。
「何故、僕が五行の紋章について調べていると思った?」
 視線の先の青年はやはり背が高く、赤い髪が印象的だった。見たところハルモニア人には見えないし、神官服も着ていない。だが、これだけ睨まれても眉一つ動かさないのは相当な冷静さの持ち主であることを証明している。
 ルックは睨むついでに顔のすみずみまで眺めてみた。しかし、やはり見覚えはない。少なくともかつての戦争で知り合った仲ではなさそうだ。
 青年はルックの問には答えずに、奥の古ぼけた棚を指した。
「あの棚の中ですよ。一般的な紋章学であればこの棚で充分ですが、もっと奥深く知りたいのであればあの棚を探すことをお奨めしますよ」
「それはいい、僕の質問に答えてくれないかな」
 ルックは指された棚を横目で確認し、しかしすぐに青年に向き直った。
 青年はルックに引けをとらないほど冷たい目で彼を見ると、ふ、と口元を綻ばした。
「…何がおかしい?」
「失礼、決しておかしいわけではありません。ただ…ね、やはり思った通りだと」
「何がだい」
「――やはりササライ神官将殿によく似ておいでだ、と」

 正直、考えないでもなかったのだ。
 自分とササライは瓜二つだ。たとえ本人が戦地に赴いていることが知られていても、ササライ自身と間違えられることがあるかもしれない。
 しかしチャンスはこの時しかないと確信したし、計画をこれ以上先延ばしにするつもりもなかった。
 戦争は起きる。
 また、起きる。
 そして、あの未来がやって来る。
 ならば、行かなくてはならない。呪われた、自らが生れ落ちた地へ。

「そんなに警戒されなくとも結構ですよ。 私はあなたを直接知っているわけではありません。私の祖父が十二年前にかつてのハイランド王国でササライ殿と一緒に仕事をしましてね。 その時の手記にあなたのことが書かれていたのですよ」
「ササライと仕事? …きみの家系はハルモニア系列かい?」
「いいえ、違います。 ただその手記にはハルモニアからの使者は真の土の紋章の保持者で、偶然にも自分の知る一人の少年とまったく同じ容姿をしていた、とありました」
 ルックは一瞬首を傾げたが、間もなく「あ!」という声とともに目を見開いた。
 自分を知っているのはこの青年ではない。この青年の祖父だ。十二年前のデュナン統一戦争のハルモニア軍において、自分を知っているとおぼしき人物は二人。一人は人間ではない。となると、残るは一人だけだ。
 ルックがその名を口にしようとした時、青年はちらりと壁にかかった時計に目をやった。
「きみは」
「失礼、時間がきたので私はもう行かねばなりません」
 青年はルックを牽制するように片手を上げた。
 思わず口篭もったルックを見ると、踵を返し、二、三歩先で歩みを止めた。
「あなたもどのみち今日は戻られるのでしょう?今度お会いできる時はもう少しゆっくり話ができると良いのですが……ルック殿」
 そしてそのまま振り向きもせず、青年は出口の向こうへと姿を消した。

 残されたルックは先程口にすることのなかった一つの名を呟いた。
「――…レオン・シルバーバーグ、か」
 そして奥の棚に目を向けると、一つだけ溜め息をもらし、しかし手にある本を元の位置に戻して神殿を後にした。







 ハルモニアに足を運べるのは、ハイイースト動乱が終結するまでだ、とルックは考えていた。
 デュナンは正軍師クラウスの他にかつての前正軍師のシュウを招いたという話も耳に入ってきている。ハルモニア相手ではあの男も一筋縄ではいかないだろうが、しかし敵国の軍師が彼ほど優れているとも思えない。
 ルックはこの戦は思いのほかに早く終結する予感がしていた。

 ならば急がなくてはならない、と焦ることも事実だ。
 彼は何度もハルモニアに足を向け、青年の奨める棚を片っ端から探した。
 実際、その青年とも何度か顔を合わせ、話もした。
「申し遅れました、私の名はアルベルト・シルバーバーグ。 あなたの知るレオン・シルバーバーグは私の祖父にあたります」
 レオンはトラン解放戦争において共に戦った人間ではあるが、デュナン統一戦争においてはハイランド側にいたため敵対する関係にあった。
「祖父の手記には、あなたは真の風の紋章を宿す少年で、その絶大なる力を持ちたった一人でササライ殿の軍を撤退させたとあります。 ――さすがに、何故お二人が同じ容姿なのかは存じ上げませんが」
 このアルベルトという青年は余計なことは一切口にしない。
 食えない存在であることはすぐに分かったが――なんといってもシルバーバーグの家系だ――だが、ことによってはそれが使えるかもしれない、ルックはそんなことを考えた。

 そして、そのアルベルトが現在ハルモニアの一軍において副軍師を任されていること、そしていずれは正軍師に昇格が決まっていることを知る頃、ルックはようやく永きにわたって探しつづけた文献を見つけることになった。


『五行の紋章の均衡』


 ルックがハルモニアに足を運びつづけて一年が過ぎた頃だった。













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