夕星でも、明星でも
【3】





 降り出した雨は大して強くもなく、しかしすぐに止むほど弱いわけでもなかった。軍主の言った通り、日没後に見えるはずの金星はまったく見えなかった。その雨が止んだのはつい先ほどのことで、もう夜半過ぎだった。
 それでも雲はまだ厚い。星は、ない。


 ヘルムートがこの時間にこの場所へ足を向けたのは、何となく眠れないでいたせいだった。気分が高揚しているわけではなかったが、妙に胸の中が落ち着かない。雨が降っていないのならば、甲板に出て剣でも振るっていれば落ち着くことだろう、そう思ったのだ。
 だが実際はそうではなかった。この場所に来ると、どうして落ち着かないのかがすぐに分かった。ここで二人の少年から聞いた話が、どうしても頭から離れないでいたのだ。
 くだらない。ヘルムートは自分を一蹴する。それでも聞いてしまったものはどうしようもない。聞かなかったことにするのは簡単だが、しかし自分に嘘をつけるほどヘルムートは人として強いわけでもなかったし、賢くもなかった。
「くだらない……情けない」
 今度は口に出してみる。それで何かが変わるわけではなく、むしろ自分という存在がどれほどのものなのかを思い知ったような虚無感だけが残ってしまった。
 何かを背負っているのは自分だけではないし、答えを模索しているのも自分だけではない。ただあの少年たちにくらべ、自分の抱えるものとはなんと小さなものだろうと思ったのだ。それを海を見ることで癒されようなどと、ヘルムートはそれがとても悔しかった。

 ふと背後で誰かが扉を開けて、閉めた。音はない。気配だけだ。
 不思議と驚きはしなかった。あえて振り返ることもしない。少なくとも自分を殺そうとする刺客ではないことは確かだ。この船は、そういう船だ。始めこそは戸惑ったが、そう思える程度にはこの軍に慣れてきたとは思う。
「こんばんは、ヘルムートさん」
 気配からして予想はついていたが、思ったよりも明るい声だったのでヘルムートは少しだけ驚いた。
「まだ星は見えませんねぇ」
 言いながら隣に並んだのはアルドだった。
 ヘルムートは彼を見るでもなく、星という言葉にひかれて空を見上げた。そこで初めて、ヘルムートは自分は本当に海しか見えていなかったのだと気づいた。
「月が出ている――…」
 真っ暗な空に、ぽっかりと月が浮かんでいる。それを見てまず最初に感じたのは微かな違和感だった。星はどこにもないのに、月だけははっきりと見える。つい先ほどまで雨が降っていたのに、月が見えるほどこんなに早く天気が回復するとは思えない、しかもそれなら星も一緒に見えても良さそうなものだが。ヘルムートはそんなことを考えた。
 それを見透かしたのだろうか、アルドが軽く笑った。
「ああ、まだ雲は厚い。 だから星が見えないでしょう?」
 光の弱い星々は雲に遮られているのだと言った。そういう意味ではこの月光はとても強いものなのだろうが、しかしヘルムートはむしろなんと儚い光なのだろうと思った。
『今日はきっと金星が見えないよねー…』
 ふと、軍主の言ったことを思い出した。
 天候のことがなくともこの時間なら見ることはない。そう知りながらも、なぜかその星を探してみる。
「――やはり、無いな」
「何がです?」
「いや」
 ヘルムートは首を振る。
 金星が見えないということに意味があるのか否か、彼は知らない。しかし見えないというその事実は、どことなく重い気分にさせた。
「ヘルムートさんも、眠れないんですか」
 ふとかけられた言葉に思わず振り向く。
「お前も……いや、当然か。俺は無粋にも立ち聞きしていただけだ。当事者はお前だったな」
「うーん、おそらくあなたが考えていることとは少し違いますが、まあ当事者といえば当事者かな」
 アルドはとぼけたように笑ってみせた。
 ヘルムートはアルドという人間をじっくり観察したことがあったわけではないが、その笑顔はいつもとまったく変わらないものであることには気づいた。それが何となく、もどかしい。
「――あの少年の紋章については、俺は何も聞かなかった。 そういうことにすると、本人にも言った」
「やっぱり、テッドくんの話が気になってたんですね。…真面目だなぁ、ヘルムートさんは」
 アルドはくすりと笑いをこぼした。それが茶化すような笑いではなかったので、ヘルムートも少しだけ頬を緩める。
「それは性分だ」
「ヘルムートさんがあの話を聞いたのはただの偶然だろうし、テッドくんもあなたになら聞かれても構わないと思ったから話したんでしょう。それにあなたも聞かなかったことにすると言ったんなら、それでもう忘れてしまえば良かったのに。 少なくともヘルムートさんにとっては、眠れないほど悩む話でもないと思うんだけど」
「……そう、かもしれんな」
 その曖昧な返答がいつもの揺るぎなく通る声とは比べ物にならないほど小さくて、アルドはふむ、と思案するように首を傾げた。
「ヘルムートさんが悩んでしまうのは、何となく分かるな。聞かないことにするっていっても、実際にそれができる人なんてごくわずかでしょう。感情論は別の話だと僕は思いますよ」
 ヘルムートはぴくりと片眉を動かした。
「誰だって他人の重い話を聞いてしまえば心は沈む。それにテッドくんの紋章は、聞かなかったことにするには重すぎるでしょ。特にあなたは真面目な人だから」
「…感情論と片付けるほど、俺は強いわけではない。 ただ彼らと比べて己の小ささを知り、少しだけ情けなくなっただけだ。…ただ、弱いだけだ」
 言い切って、ヘルムートはふたたび空を仰いだ。
 どうせ海を眺めてもこの暗さでは空と海の境界すら分からないし、昼間見た水鏡のような幻だって見えやしない。
 ふと仰いだ先に月があり、やはり星のない空に一つだけそれが浮かぶ様は異様だと思った。
「彼らって誰です? テッドくんの他に誰か…?」
 ヘルムートは小さく息を吐いた。それは不快感とは違う、また眠れない原因だった落ち着かない気分とも違う、もやもやとした感情の塊だった。
 それを深く吐き出してから呟く。
「セナ殿だ」
 突然出てきた軍主の名にアルドもセナさん、と反芻した。
「こんなことを考えるのは、俺が軍人だからとか、お前が言うように真面目だからとかそういうものではないと思う。一度、命を捨てた身だから考えるのだろう」
「…何をですか」
 促されるように首を傾げられ、ヘルムートはそれを答えるべきか否かを一瞬迷った。
 ヘルムートはこの船において誰かと馴れ合うつもりはなかったし、今後もそうだと決めていた。だから、こんなことを話のは自分の内面を曝け出しているような気がしてひどく気分が悪かった。
 しかし、それをはぐらかすのはフェアではないような気もしたし、何よりも自分がそれすらもできない人間であると、そこまで弱い人間なのだと、認めたくなかった。
 ヘルムートは一度深く息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出した。

「…世界とは、一体何なのかと」


 言葉に出して、ヘルムートは今更のようにそれを理解した。彼がもやもやと考えていたことは、まさにそれだったのだ。自分で言葉に出さなくては気づけないとは情けない。
 本当は、もっと以前から考えていたのかもしれないと思う。
 この軍に降伏してから――いや、もっと前から。おそらくラズリル占拠の任が下ったときには、すでに考え始めていたのだろう。
 自分の信じた道の先に、思い描いた結末が待っているとは限らない。しかし軍人として下された命令を遂行するのは当然であり、できなければそれを是として生きてきた自分を否定することになるのだ。
 その矛盾を抱えたラズリル占拠に関しては、その命令が下ったときからまるで納得がいかなかった。事前に受けた報告では占拠の時期と必要性にはまるで関連性がなかったし、祖国のためならばと目を瞑ろうにも、耳には障りのある名――グレアム・クレイ――の噂が容赦なく入ってくる。
 無意味なことを任せられることほど、虚しいものがあるだろうか。例え無意味でも、それが自分の信じたものであれば問題はない。だがラズリルの地に踏み込むことは、ヘルムートにとって意味があるようには思えなかった。
 そこへきて、セナとテッドの紋章である。
 許しと償いを司るものと、生と死を司るものは、突如強いられた道の先に何を見るのだろうか。セナは紋章をいけ好かないものと称し、テッドは紋章の話を警告だと言った。どちらも、重い。
 では、彼らは何を是として生きていくのだろう。細い腕に重石を抱えたままで、彼らはどこへ行くのだろう。
 本人が話しこそはしなかったが、おそらくテッドは何かに追われている。
 セナはこの戦どころか明日の身の上すら分からない。
 ――そんなことを思うと、自分が最初から抱えていた矛盾と相まって「世界」という言葉がヘルムートの肩に圧し掛かってきた。
 自分の抱える矛盾は、彼らの重石に比べれば小石程度のものかもしれない。だが生きる世界が違えば、生じる矛盾や宿命の重さも違ってくるかもしれないとも思う。
 そもそも比べること自体が間違っているのだ。だがその間違いを素直に受け止めることが、ヘルムートはできないでいた。
 そのもどかしさが、彼を船の甲板へと誘っているのかもしれなかった。


「世界、ですか。 単純に生きてる僕には難しいな」
 苦笑するアルドをちらりと見て、ヘルムートは軽く頷いた。 
「以前の俺ならこんなことは考えなかった。軍人として生きることに疑問の一切を感じなかったからな。だが、それはあまりにも狭い世界の中での話だ。少なくとも、俺は真の紋章など伝承の一つとしか考えていなかった」
「それは僕も同じですよ。今までこの目で見たことなんてなかったし、まさかこの船だけで二つも存在するなんて」
 信じられなかった、とアルドは言った。
「――そういう物を背負った人間は、どんな世界を見ているのかと考えたんだ。そうしたら、自分の世界がいかに小さく、そしてそんなものにこだわる自分が情けなくなった。……それだけのことだ」
 ヘルムートはまた一つ息を吐いた。
 そこで初めて自分が喋り過ぎたことに気付く。テッドにおしゃべりだと言われたことは遺憾だったが、しかしこれでは的を得ている事実ではないか。
 急に居心地の悪さを感じたヘルムートは、動揺を抑えながらアルドの方に向き直った。
「…すまん、俺の話ばかりだな。 お前はどうするのだ?あの少年は自分に近づくなと警告していただろう」
 ヘルムートは警告などなくとも自分から他人に近づくことはないし、テッドもそれを感じ取っていただろう。だが、アルドは到底そうは思えない。だからわざと突き放すようなことをしたのだろう。
 アルドは意外なことに声を出して笑った。
「僕は何も変わりませんよ。あなたは僕を当事者と言ったけど、それはテッドくんにそういう話をして貰える対象になれたということです。僕にとって喜んでもいいことだとは思ってますからね」
「…強いな」
「だって、テッドくんはあのままじゃいけない。彼はもっと人と関わりを持つべきです。彼は、もっと笑ってもっと強くならなきゃ」
 そう思いませんかと逆に訊ねられ、それはどうなのだろうとヘルムートは返答に困った。紋章の話は考えさせられるものがあったが、しかしテッド本人をどうこう考えようなどとは思ってもみなかったからだ。
 だが、それも当然ではないかとも思う。奇しくも、テッド本人に言ったのは自分だ。
『きみの話を理解し納得するのは俺の役目ではない』
 テッドは否定したけれど、しかし。
「――それは、お前の役目なのだろう」
 ぽつりと呟くと、アルドは困ったように首を傾げた。
「ヘルムートさんって真面目っていうより、やっぱり変わってるんだな」
「…何がだ」
 そういうえば同じようなやり取りをしたばかりのような気がする。
 嫌な予感に冷めた目でアルドを見上げると、彼は豪快に笑った。
「あなたと話していると会話にならない時があるんですよ。一人で先まで読んで勝手に納得してるでしょ?本当に噂通りだ」
 予想通りの答えにヘルムートは肩を落とす。その噂の出所はあえて聞かない方が、賢明だとすぐに悟った。

 アルドとの話は何の解決にもならなかったが、しかし眠気を起こさせる程度には役に立ったらしい。
 胸中が落ち着いたのは海を見にきたからでも、違和感のある月を仰いだからでもない。自分が何故この場に足を運ぶのか、その理由を掴めたからからだろう。
(世界――、か)
 そうだ、自分はこの軍でもなく、まして祖国でもない場所に新しい世界を探したいと思っているのかもしれない。
 それに気づいただけで、随分と肩が軽くなった気がする。
 寝室に戻ろうとするとき、そういえばとアルドに一つ訊ねた。
「お前、星には詳しいか?」
「うーん、まぁある程度のことは」
「では、金星が何を意味するか知っていたら教えて欲しいのだが」
 その面持ちがいつも以上に真剣だったせいか、アルドは首を傾げながらも答えた。
「金星……今の季節なら見えるのは日没後でしょうね。だから宵の明星かな。夕星とも言われてるけど、一番最初に見えるとにかく明るい星ですからねぇ。意味があるとしたら、いつでも一番に明るい希望を見出せるように、とかそういう願掛けの類だと思いますよ」
 何故こんなことを訊くのかとアルドは思ったが、その疑問は口から出ることはなかった。
 その答えを聞いたヘルムートがどこか安心したような表情を見せたからだ。 
「希望、か」
「はい」
 アルドが呟きに笑顔で応じると、ヘルムートも珍しく表情を崩して笑ったようだった。
「少なくとも、セナ殿の見る世界はそう悪くもないかもしれんな」
「へ?」
 訝しがるアルドを見て、また自分は会話を先走ってしまったかとヘルムートは苦笑する。
 しかし、それでも良いと思えるだけまだいいのだろう。

 二人が甲板から出る頃。
 ヘルムートが異様だと感じた空には、一つ、また一つと星が戻り始めていた。

 




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