夕星でも、明星でも
【2】





 水鏡、というわけでは決してない。
 何故なら水は暗く、そして遠かった。
 当然影など映るはずもなく、しかしヘルムートはそこに自分の姿を見た。
 まだ士官学校のいち学生で、帯剣も許されていない若僧の自分の姿だった。

「なーにしてんの!」
 声とともに背中に大きな衝撃があり、あやうくヘルムートは海へ落ちるところだった。
 さきほどテッドを落ち着きないとたしなめたばかりなのに、これで自分が落ちていたらなんとも格好のつかない事態になっていただろう。
 ヘルムートは驚きのあまり乱れた呼吸を整えるのにしばし時間を要し、やっと一つ溜息が出たところで声と衝撃の主を睨みつけた。
「俺を殺すつもりなら、このような手ではなく剣で首を落としてもらいたいものだが」
「何いってんの。 誰が誰を殺すって?」
 しらっとした表情でヘルムートを見返すのはセナだった。当然殺気などはどこにもない。ヘルムートの背中を叩いたのもただの挨拶代わりだったのだろう。驚かしてしまったという概念はとんとなく、ヘルムートが呼吸を乱している間も不思議そうな顔をしているだけだった。
「――俺の勘違いならばそれは結構。失礼をした」
 なんとなく所在のない手で、ヘルムートはどこも乱れていない襟元を正した。
 この軍のリーダーはどこかとぼけているというか、意図した方向に会話が進まないというか、とにかくヘルムートが苦手とするタイプの人間ではある。予想がつかない、または答えが計算上にないということは、自分の持つ絶対の自信をどこからか崩されてしまう。ヘルムートはそれが嫌だった。
 だがこの少年を見ていると、先ほど海に呟いた問いの答えが見えるような気がしないでもないのだ。
 そんな曖昧なことを考えながら彼を見ていたせいか、ヘルムートの表情はいつの間にか険しいものになっていた。もっとも、セナはまったく気にしていないようだったが。
「たった今テッドとすれ違ったよ」
 突然話題が切り替わる。しかしそれはいつものことだなので、ヘルムートも何食わぬ顔で答える。
「少しだけ話をしていた」
「ふーん。 ねえ、もうすぐ雨が降るよ。ヘルムートはいつまでここにいるの?」
「……そろそろ戻ろうと思っていたところだ」
「ふーん」
 セナは頷きながら、しかしそんなことはどうでも良いといった表情で隣に並ぶ。
 まだ線の細い――もっとも自分も同じであることは認めてはいるが――少年の彼は、年齢の割に身長が高くヘルムートと同じくらいはある。とうに成長期の過ぎた自分とは違い、彼はまだまだ伸びるのだろう。
 しかし、それは何も身長に限ってのことではない。ヘルムートはそのことも知っていた。
 隣に並んだということは立ち去る気はないのだろうから、この機会にヘルムートは話をすることにした。
 もしかしたら、相手もそのつもりでここにいるのかもしれないと思いながら。
「つかぬことを訊くが、いいだろうか」
「んー?」
 力の抜ける返事ではあるが、これといって否定の意は伝わってこない。
 ヘルムートは続けた。
「セナ殿はいくつだ? その、君の境遇は聞いているが」
「いくつって、年齢のこと?」
「ああ」
 彼が孤児であったという事実はこの船では知っている者の方が知らない者よりはるかに多い。
 不思議なことに、この少年は他人が踏み込んでもいいだろうかと躊躇すべきところをまったく隠そうとしないのだ。
 彼に嘘と裏は無い。相手が子供であろうと大人であろうと、男であろうと女であろうと、そして敵でも味方でもそれは同じなのだ。
 だからこそ、誰もが彼を軍主と認めるのだろう。
「年齢なんて特に重要だと思ったことはないんだよな。確か今は十六ってことにしておいたはずだけど」
 実際は知らないよと続け、
「でも、これからはずっとこのままなのかもしれないし、逆に明日には死んでるかもしれない」
「…真の紋章か」
「うん」
 セナは笑った。
 ヘルムートはその表情を直視できず、思わず視線をそらした。どうして、と口から洩れそうになったのはなんとか我慢することができた。
「――…もう一つ、訊いてもいいだろうか」
「んー」
 やはり気のない返事だったが、ヘルムートは構わなかった。
「ある男―…少年が、海に落ちた人間を助けた。落ちた人間は規則を破り、それが原因で海に落ちたのだ。 少年はその人間を助けたが、実は助けることも規則で禁じられていた。当然彼には罰則が待っている。 きみがその少年だったら、その落ちた人間を助けるだろうか」
 視線はそらしたままで、自分でも驚くほどの早口で語った。
 そんなヘルムートが珍しいのか、セナは不思議そうに首を傾げた。
「その少年って、ヘルムートのことなのかな」
「俺はある少年と言ったはずだが」
 語調を強めると、セナは肩を竦めるだけで「はいはい」と言った。
「ま、俺なら助けるね。 そもそも助けるのを禁じられてるってのがおかしいと思うけど」
「…この話はそばに訓練された大人がいて、その人間がその助ける役目を負うことになっている場合だ。少年の年齢で海に飛び込んでは、巻き添えになる可能性が高かった」
「でも少年が助けたってことは、その大人は助けてくれなかったんだろ。それで少年も無事戻ったし、落ちた人も助かった。何がいけないんだよ」
 やっぱりおかしい、と不満そうに呟いた。
 ヘルムートはそらしていた視線をセナに向けた。何故自分がこんなことを話しているのか自分でも分からないが、しかし
「きみがその少年であり、助けに海に入ったとしよう。 しかし生きて戻れなかったら、それでもそう思うだろうか」
 まだ、食い下がる。
 そんなヘルムートを見て、セナは理解できないといった顔をした。
「ヘルムートって案外バカだな。死んだらそんなこと思うわけないだろ。思うも何も、死んじゃってるんだから思うことすらできない」
 ヘルムートはがくりと力が抜けた気がした。
 それは決して愚かだと言われたことにではなく、至極正当な答えにだ。
「死んだら終わりだ。それはその少年だけじゃなくて、落ちた人も同じだよ。死んだら終わり。だから少年は助けなくちゃダメなんだ」
「…それで自分が死んだとしてもか」
「そこが難しいところだとは思うよ。ただ自分が死にたくないからって、誰かが死にそうなのを見捨てるのは俺にはできないってこと。名誉ある死とか、俺はそんなの認めない。そんなのは幻想だ。死んだら終わりなんだよ。名誉もなにも、死んだ人には何も残らない。残った人が、死んだ人の名誉を受けてどうする。…終わりなんだよ、何もかも」
 多弁なのはいつものことだが、今のセナの言葉には重みがあった。
 それは軍人として生きることに憧れ、それを此れとして生きてきたヘルムートには理解しがたい答えだったが、しかしこれ以上にないほど当たり前の正論だとも思う。
 目の前にいるこの若い軍主は、自分が首を差し出すと申し出たとき何を思ったのだろうか。
 そんなことを考えているのが顔に出ていたのか、セナは珍しく苦笑いをした。
「この船の中には、当然ヘルムートをよく思ってない人だっているよ。でも、俺と同じ考えを持ってる人がいたら、その人はきっとヘルムートに優しくしてくれるんだと思う。裁かれる者も死んではいけない。死んでしまったら永久に許されない。だから、ぜったいに死んじゃダメだって思う人がこの船にはたくさんいるはずだ」
「…それは優しさのつもりか」
「つもりっていうか、みんな優しいよホントに。前にヘルムートがそれを理解できないって言ってから、いつか教えてやろうと思って」
 そう言って、セナはにっこりと笑った。
 少年らしい、とても大きな戦艦を持つ軍主とは到底思えない笑顔だ。
「…きみがそういうことを言う人間だとは思わなかった。俺は少し誤解していたかな」
 つられてヘルムートも一瞬表情を崩しそうになったが、それは一つ咳払いするだけで誤魔化すことに成功した。
 セナはそれにはまったく気づかず首を振る。
「別にいいよ。俺って、他人にどう思われようと気にしない人間なんだ。逆にヘルムートは何を言われても耐える人だろ?気にしないと耐えるとでは大きく違う。耐える方が大変だ。でも、これに当てはまらない人間だっている。我慢できない人だっているってこと、俺はよく知ってる」
「…誰のことだ」
 訊ねると、セナは笑顔をそのままに暗い海へと視線を落とした。
 そして何かを呟いたが、ヘルムートはその呟きを聞かなかったことにした。セナにはセナの考えがあり、思いがある。他人が邪推することではない。
 そう納得したとき、ふとセナがふたたびヘルムートに顔を向けた。
「だからさ、ヘルムートが落ちた人を助けたっていうのは正しかったと俺は思うわけ」
 突然話が飛び、一瞬呆気に取られる。
 そして話が飛んだのではなく戻っただけだと理解すると同時、ヘルムートは面白くなさそうに顔をそむけた。
「何の話だ」
「だーかーらー、“ある少年”の話。 少年ってやっぱヘルムートのことでしょ」
 隠しても無駄だと云わんばかりの得意げなセナにすうっと目を細める。そしてちっと舌打ちをする悪態も忘れずに、その通りだと頷いた。
「もう、昔の話だ。セナ殿と同じくらいか、もっと若い頃のな。助けた相手の顔も忘れてしまった」
「そっか。 うん――…でも、相手は違うといいね」
 ヘルムートが怪訝そうに眉を寄せると、セナは肩を竦めて笑った。
「その人はヘルムートのことを覚えてくれてるといい。 俺がそう思いたいのは自己満足だけど」
 
 ぽつり、と頬に冷たい感触があり、ヘルムートとセナは同時に空を見上げた。
 そんなに長い間話し込んでいたわけではなかったが、雨がとうとう降り出してしまったようだ。
 そろそろ中へ入ろうと促すと、セナはふと真面目な表情でヘルムートを見た。
「ね、ヘルムートは真の紋章について何か知ってる?」
 突然なんだろうと思いながら、そういえばこの軍主は会話の糸口がどこから飛び出てくるのか予想できないのだった思い直し、記憶を辿りながら答えた。
「紋章は専門ではない。知っているのは学生の頃に学んだ一般的なことだけだし、そもそも真の紋章自体も伝承の一つとしか考えていなかった。 まさか実在するとは」
 失礼だろうかと思いながらも、目は自然とセナの右手を追う。
 幸いなことにセナはそれに嫌悪感は見せず、手をひらひらと振っただけだった。
「俺もそうなんだ。っていうか勉強は嫌いだからその一般的なことも覚えなかったんだけどさ」
 あははと他人事のように笑うセナに、呆れたように溜息をつく。
「…で、紋章がどうしたと?」
「んー、真の紋章ってどいつもこいつもこんなにいけ好かないものなのかなって」
 緊張感のない話し方ではあるが、しかし言っていることは非常に重い。
 彼は一人でクールークの第三艦隊を壊滅させたが、しかしつい先ほど本音を漏らしたばかりなのだ。「裁かれる者も死んではいけない」と。
 彼は好んで人を殺めたわけではない。結果としてそうなっただけなのだ。だが、結果がそうなら原因は一体どこにあるのだろうか。
「セナ殿はあの少年―…テッドといったか。 彼と話を?」
「んー」
 曖昧な返事は否定とも肯定ともつかないが、もしかしたら話などしなくとも同じ真の紋章の継承者として、その性質を感じ取ることができるのかもしれない。もっともこれはヘルムートのただの憶測だったが。
 やがてセナは暗い海を見つめ、そして次に雨の降り出した空を見上げた。
「今日はきっと金星が見えないよねー…」
 それは問いだったのか独り言だったのか。
 ヘルムートは何を言うべきかが分からなかった。ただ、何故か先ほどセナが海に呟いた言葉を思い出した。

「だから、俺はぜったいにスノウを死なせない。 ぜったいに、ぜったいに」

 答えを求めているのは、何も自分だけではないのかもしれない。
 ヘルムートはそう思った。
 




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