「――さむっ」
顔に触れる外気に思わず全身が震える。だが眠気覚ましには丁度良い冷気だ。まもなく彼は一つ深呼吸をして扉を閉めた。
甲板にはまだ朝霧が残っていた。もともと人と顔を合わせる必要のない早朝の散歩は好きだが、今朝は取り分け早くに目が覚めてしまった。おまけに昨夜は良く眠れなかった。眠れないときは紋章がうずくか、昔のことを思い出す。昨夜は後者だった。
少年は過去のことを鮮明には覚えていない。それは自らが忘却を望んだのかもしれないし、または彼の歩きつづけた気の遠くなるような時間がそうさせたのかもしれない。ただ彼が忘れていけないことは、捨ててしまいたい紋章を守りながら逃げつづけること。そして強くなることだ。もう顔も思い出せないひとだが、確かにそのひとは強く在れ、と言った。
あやふやな遠い過去の中で、彼にとってその言葉だけが確かなものだった。強く在れと言ったそのひとこそがとても強く、広かった。穏やかな海を見ると、少年はなぜかそのひとを思い出す。
―――雨はいつ頃まで降っていたのだろうか。いつもより霧が多く、視界が悪い。少年はその中で船首の方へ足を進めると人影を認めた。
少年は舌打ちをしたくなった。
(また、こいつが先客かよ)
誰もいないだろうと思ったのが甘かった。先客の人影はこちらを振り向かなかったが、どうせこちらの気配には気付いているんだろう。人と交わることを避けておきながら、ここで後ろを向かない矛盾した自分の気質にはうんざりする。
少年は舌打ちをする代わりに溜息をつき、構わず歩いた。
俺は話をしたいわけじゃない。ただ海を見にきただけだ、と言い聞かせて。
夕星でも、明星でも
【4】
「――あんた、もしかしてあれからずっとここにいたのか?」 話しかけられて、ヘルムートは少しだけ驚いた。誰かが甲板の扉を開けたことは気付いていたが、まさかそれがテッドだとは思いもしなかったからだ。 ややあって質問の内容があまりにも馬鹿げていることに気付き、ヘルムートは眉を寄せた。まだ早朝であり、昨日この場で話をしたときはまだ夕刻前だったのだ。 「そう思うか」 「思わねぇ、け、ど」 テッドも自分がどうでも良い質問をしてしまったことに居心地の悪さを感じているようだった。誰が聞いてもその場凌ぎにしか思えない質問だ。 もしかしたらこの少年は話しかけるつもりなど毛頭なかったのかもしれない。黙って通り過ぎてしまえば良いものを、わざわざ必要のない話の糸口を見つけようとするのはどことなく可笑しかった。 「もしかして、俺はまた邪魔をしてしまったのだろうか。この場所に何か用か?」 「…そういうわけでもない、こともないけど」 「どっちだ」 「知らねえ」 テッドがぷいと顔をそむけると、ヘルムートはわざとらしく大きな溜息をついた。 「素直じゃないな。 話をする気がないならわざわざ声をかけることもないだろうに」 「…俺は話をしたいわけじゃない。ただ海を見にきただけだ。そしたらあんたがいたから、ちょっと気になっただけだ」 そこまで言うと、テッドはふたたびヘルムートに向き直った。 「あんた、こんな早くから突っ立って何やってんだよ」 ヘルムートはそれには答えず、また海に視線を移した。晴れない霧の合間から見える海は、反射する光がないため非常に黒い。それは昨日見たときと何も変わらない。碇泊したままの船は波を切ることをせず、とても静かだ。風も少なくただ空気が冷たいだけの甲板は、余計にそれを際立たせる。 黙りこんだヘルムートに舌打ちしてから、テッドは「やっぱり変なやつ」と呟いた。 それとほぼ同時、ふたたび背後の扉が開く音がした。 こんな時間から千客万来――というには語弊があるかもしれないが――な甲板も珍しい。テッドはもちろんのこと、ヘルムートも振り返った。 「人騒がせな―…生きてるじゃん」 扉を開けたと思われる人物がそう言ったのち、迷惑そうに眉をしかめた。そして噛み殺すことをしない大きなあくびを一つすると、面白くなさそうに溜息をついた。 「セナ殿―…?」 「ヘルムートの部下に隊長が部屋に戻られていない!とか言って叩き起こされたんだよ。それだけでも頭にくるってのに、俺が寝首を掻いたとか云々言いがかりまでつけてさー」 ぶつぶつと文句を言って後ろ手で扉を閉める。そしてまた一つあくびをすると、セナは背伸びをしなが二人に並んだ。 「なに、ヘルムートはあれからずっとここにいたの?」 同じような質問をされて、ヘルムートは軽く頭痛を覚えた。どいつもこいつも会話の引き出しが狭すぎる。第一、雨が降っていたことを知らない者はいないだろうし、夕刻前にヘルムートと一緒に甲板を出たのは他でもないセナ自身なのだ。 「そう思うか」 「ヘルムートなら有り得る、とは思う」 別の意味で頭痛のする答えに、ヘルムートは眉間に皺を寄せた。その隣ではテッドがどうでも良さそうに溜息をついている。 「――もう俺の部下ではないのだが、迷惑をかけたのなら詫びよう」 溜息交じりに言うと、セナはあっけらかんと笑った。 「謝って欲しいわけじゃないし、別にいいよ。 ね、本当にずっとここにいたわけ?」 「…それが冗談で言っている質問なら、大して面白くはないな」 「笑い上戸のヘルムートが面白くないってことは、相当センスがないんだな、俺」 嫌味を込めて言っても、軍主はわざとらしく肩を落とすだけだった。ヘルムートは呆れて「誰が笑い上戸だ」とぼやくしかなかった。 今度はテッドに向き直り、 「テッドは何してんの。いつもこんな朝早いの?」 「…お前には関係ない」 「うん、まーね」 セナはにこりと笑った。その笑顔を見て、テッドはふといつものように表情に暗く影を落とした。 「――この船は変なやつばっかりだ。意味が分かんねえ」 ヘルムートはぽつりと呟いたテッドを見下ろし、気付かれない内に視線をそらした。 テッドの言葉はセナに向けられたもので、自分も同じ言葉を受けたばかりだ。しかしそれはアルドのことを指しているのだろうとヘルムートは思った。 昨夜アルドと話をした後、ヘルムートはすぐに部屋へ戻った。それなりに睡魔は襲ってきていたし、事実横になるとまぶたはすぐに降りてきた。だが存外眠りは浅く、結局はこんな時間に目を覚ましてしまった。 テッドがそれと同じ理由でここにいるかどうかなどは、ヘルムートにとってはどうでも良いことだ。だが昨日のテッドとアルドの会話の後に「ごめん」と聞こえた声がテッドのものだったとしたら、やはりテッドという少年の本質はアルドの言う通りなのだ。そのテッドがアルドに紋章の話をして落ち着いていられるはずはないだろう。眠れなくて、早くに目が覚めて海を見ることだってあるかもしれない。 今のはアルドのことかと問おうとして口を開きかけたヘルムートだったが、意外にもセナがそれを遮った。 「それ、アルドのことか」 まるでヘルムートの心情を読み取ったかのように目配せをする。テッドは図星なのか返事もせず、ただ黙って俯いていた。 「確かにテッドの言う通り、この船にいるのは変な人達ばっかりかもしれない。でもそれはテッドの世界が狭いからだ。もっと、もっといろんな人が世の中にはたくさんいるはずだ」 世界という言葉に、ヘルムートはふいとセナの顔を見た。彼はヘルムートの視線に気付いたか否か構わず話しつづける。 「昨日もヘルムートと話してたんだ。例えば周りからごちゃごちゃと言われたら、俺はそういうの全然気にしない人間だけど、ヘルムートは言われたことにじっと耐える人間だってね。そして俺はそれに耐えられない人間も知ってるって。テッドはどれにも当てはまらないね。あえて言うなら、最初から耳をふさいでついでに目も閉じちゃってる人間かな」 テッドはゆっくりと顔をあげてセナを見据えた。見られた本人はにやりと笑う。 「――俺に何が分かるかって顔だな。確かに何も分かんないよ。俺の見てる世界だって狭いし、知らないことばっかりだからね」 「……」 テッドは何かを言ったが、その声はあまりにもかすれた小さなもので、聞き取ることはできなかった。それは少なからず彼がショックを受けたからなのだろうとヘルムートは思った。そしてもし自分も声を出していたら、そんな風に聞こえていたのだろうとも考える。 「こんなの朝っぱら話すのも何かおかしいけどー、すぐに理解しろとか言うわけじゃないしさ。もちろん干渉する気もないしね。ただ次にアルドが笑いかけてきたら、変なやつーって思うのは勝手だけど、もうちょっと広い目で見てやってもいいんじゃないかと、俺は思うわけ」 ね、と突然話を振られ、ヘルムートは思わず「あ、ああ」とどもった。そしてそれを咳払いで誤魔化してから、昨夜のアルドの言葉を伝えてみる。 「きみはもう少し笑った方がいいそうだ。そして強くなるべきだと」 ヘルムートはそれが誰の言葉だとは言わなかったが、思いのほかテッドは驚いたようだった。 「…強くなれって、言ったのか」 そのテッドの表情は、ヘルムートにとってもセナにとっても意外なものだった。それは驚きの中に懐かしさや嬉しさが混ざっているように見え、しかし実際にはただ単に泣くのを我慢している子供のようにも見えた。 テッドにとってその言葉が何を意味するのかなど見当もつかない。しかしとても意味があることなのだろうということは一目瞭然だった。 「――軍人ってお節介なんだな。 あんたが特別なだけか?」 「何のことだ」 憮然とした声で答えると、テッドが少しだけはにかんだような気がした。それは見間違いかと思うほど一瞬のことだったが、セナも珍しく驚いたような顔をしているのを見やってヘルムートは確信した。この少年は、間違いなく笑ったのだ。 「俺、軍人にだけは関わらないようにする。干渉されるのが嫌いだし、お節介もごめんだからな」 そう言って、テッドは踵を返した。アルドの言葉が彼にどういう影響を与えたのかは知らないが、どうやら悪い方向ではなさそうだった。 かける言葉も特になく、残された二人は無言で彼を見送った。もし彼がただ単に早朝の散歩と洒落込んでいただけだったのなら、こんな重い話をするのは逆にお笑い草なような気もしたが、それを考えるには少し遅かった。 ふとヘルムートはセナが満足そうな表情を浮かべていることに気付いた。 「セナ殿…?」 「目安箱にアルドのが入ってた。 テッドが紋章のことを教えてくれたって、喜んでた」 それでアルドのことを持ち出したのかと思い至ると同時、ヘルムートは首を傾げた。 「アルドが喜んでいたのは知っているが…セナ殿も嬉しそうだな」 「そう見える?」 頷くと、セナは肯定とも否定ともとれない声で「んー」と返事をした。その意味は理解できなかったが、しかしこの軍主殿の曖昧さは何故か少しだけ心地良い。 「干渉を嫌うから―…かもな」 思わず漏れた言葉に今度はセナが首を傾げた。 「テッドのこと?」 「いや、俺のことだ。 あの少年はなかなかどうして、人をよく観察している」 ヘルムートの感心したような声に、セナは「やっぱりほんとだったんだ」と笑う。何が、と問う前に本人が答えてくれた。 「ヘルムートと話しをすると面白い。起承転結の結から喋るもんだから、会話にならないもん」 意味わかんないよと言われ、ヘルムートは盛大な溜息をついた。 昨日からどいつもこいつも同じことを言う。これもテッドのいう「声のでっけえ奴と背のでっけえ奴」の海賊のせいだ。確かに奴らに彼の紋章のことを知られるのは厄介かもしれない。偶然とはいえ話を聞いていたのが自分で良かったと、ヘルムートは関係のないところで安堵した。 いつの間にか朝霧は薄くなり、見上げれば青い空が広がっていた。 「今日は晴れるな。金星も見れるかも!」 背伸びをしながら水平線を眺めるセナを、ヘルムートは眩しそうに目を細めて見た。 ――金星。 昨夜アルドが言ったことが本当ならば、このつかみ所のない軍主も希望にすがっているのだろうか。真意を本人に問う気はないが、もしそうならそれは嬉しいことだとヘルムートは思う。 悩むのは自分だけではない、弱いのは自分だけではない、狭い世界しか知らないのも自分だけではないと、どこかほっとする。 視線に気付いたのか、セナが振り返った。そして、たった今思い出したとばかりに声をあげる。 「そうだ! ヘルムートの“ある少年の話”、やっぱり助けられた少年はヘルムートのことを覚えてたよ!」 「――は?」 話の糸口がどこから来たのかすぐには思い当たらず、ヘルムートは気の抜けた返事をしてしまった。会話の結末から話すのはこの軍主も同じではないか。そんなことを考えたときに、それが昨日話した自分の過去のことだと思い出す。 「俺を起こしにきたヘルムートの部下がその人だったよ。ヘルムートを恩人だって言ってた。やっぱりヘルムートは正しかったね」 セナは嬉しそうに話す。 別に彼の栄誉でもなんでもないのだが、喜んでもらえるのはやはり嬉しい。 「…そうか」 「もうちょっと嬉しそうにしたらいいのに」 「これは性分だ」 即答すると、セナはちぇーと口を尖らせた。しかし笑顔は崩れない。 「さっきヘルムートはもう自分の部下じゃないって言ったけど、ヘルムートの部下はやっぱりヘルムートの部下なんだよ。どこにでも崩れない関係ってあるもんだろ?」 返事に窮すると、セナはふたたび水平線の彼方を覗き見た。 「俺はそう信じてる。だから、スノウが帰ってくるのを待ってるんだ」 その目はとても力強く、ぜったいに死なせないと言った言葉を確かなものにさせる。 ヘルムートは一度だけ目を伏せ、次にこの若い軍主見るときには、自分も同じ強さを持てるといいと願った。 「今日こそは、きっと金星が見れるだろう」 自分に言い聞かせるように呟くと、セナが嬉しそうに頷いた。 END 幻水4はキャラが濃いのが多いせいか、シリアスを書くのは不可能かと思っておりました。それなのに、うっかり手をつけてしまったこの話、なんとか完結できて本当に良かった(笑)元ネタはもっと短かったはずなのですが、テーマが重いせいかいつの間にかこんな長さになってしまいました。本当は4主なんて出さない予定だったのに!
軍人には関わらないとテッドに言わせてしまいましたが、150年後に親友となる坊ちゃんはマクドール将軍のご子息であります。結局は運命なんてわかんないよね、というオチですね。ヘルムートもコルトンとの絆をこれから深めていけば良いし、4主は4主で……まあ彼らしく曖昧に流されて生きてくれれば本望です(笑) 最後まで読んで下さった方、ありがとうございました!! 2005/03/11 花梨 |