夕星でも、明星でも
【1】





 よりによって、何故。
 ヘルムートは思い切り舌打ちをしたい気分で、しかし彼らを振り返ることはできなかった。彼は聞くつもりなどなかったのだから。

 なんとなく胸の中がもやもやと霧のかかったようにはっきりしないのは、決して彼らの話が普通ではとうてい考えの及ばぬ次元のものだったからではなく、彼としては空を見上げても分厚い雲が広がっているせいだと思いたかった。陽に当たることが好きなわけではなかったが、そのせいで海が暗くなるのは落ち着かない気分にさせる。
 反射する光のない海はただただ暗く、人の影すらできない甲板もやはり暗く、そしてひどく静かだ。誰が最初に言ったのかは知らないが、もうじき雨が降ると海賊たちが騒いでいた。
 それでも構わずにヘルムートが甲板へ足を運んだのは、何か意味があったわけではなく、ただの習慣だった。落ち着かない暗い海でも海には違いない。広がる先にクールークも群島もない、まだ見ぬ世界があると思うと不思議と安堵する思いがある。矛盾していることはヘルムートも知っていた。
 だから人気のない甲板にこそ用があるという者がいたのなら、彼はすぐにでも出て行ったはずだった。
 だが、彼らは何も言わなかったのだ。
 出ていって欲しいとも、耳をふさいで欲しいとも。


 そのとき、ヘルムートは彼らにとって先客だった。
 碇泊しているせいか船が波を切る音もせず、だから扉が開く音がやけに大きく響いた。
 何事かと振り返ると、扉を開けたと思われる人物と目が合った。
(あれは確か――…)
 帆のない船――船員は幽霊船と言っていたが、ヘルムートはその類の話に興味はなかった――から現れた少年だった。
 滅多に部屋から出ることのない、または出たとしてもにこりとも笑わない愛想のない少年だったが、しかし自分もそう対して変わらないと思い至ると、そんなことはどうでも良くなった。
 対する少年も同じことを思ったのか、ヘルムートを見た瞬間こそ驚いたように目を見開いたが、しかしすぐに視線をそらした。
 すると、間もなく彼の後ろからもう一人顔を出した。
 その人物のことも知っていた。自分も他人に干渉されることを厭うので、少年に自分を重ねて同情することもたまにある。――このアルドという青年は、他人が見てもすぐわかるほどに少年を気にかけている。
 その二人がなぜこの場所に現れたのかは想像に難くない。なんとなく人を突き放したい雰囲気も合わせて、誰にも聞かれたくない話をするのだろうというのはヘルムートでなくともすぐに理解できるところだ。
 だからヘルムートも一度はその場所を離れようと思った。しかしそんな彼を知ってか知らずか、少年がさっさと話し始めてしまったのだ。
「――俺がこの紋章の話をするのは、警告のためだ」
 ヘルムートは自然を装い、慌てて視線を海に戻した。
(何の話をするかと思えば―…)
 彼らとの距離は結構あるが、しかし話の内容は筒抜けだった。聞きたいと思って耳を傾けるわけではないが、こうも静かな甲板では嫌でも耳に入る。
 そして今更その場を去るにはわざとらしいし、何より少年もアルドも話を聞かれることに懸念を抱いていないようだった。
 そういえば、とヘルムートはふと軍主のことを思い出す。
 彼が真の紋章を宿しているのは周知の事実だ。クレイ商会が追っているのはその紋章であることは明白であるし、そうなるとクールークは南進計画を使ってグレアム・クレイただ一人に操られていたに過ぎない。それを思うと自分の力のなさを痛感するばかりだが、この場ではあえて横に置いておく。
 この不思議な少年のことを、自分と同じようなものだと軍主が話しているのをヘルムートは聞いたことがあった。この笑わない少年も、真の紋章を宿しているのだと。
 この世にたった二十七しか存在しないと言われる真の紋章が、まさかこんな身近に二つもあるとは信じ難い。しかし事実軍主は罰の紋章の力でクールークの一艦隊を壊滅させたし、警告だと言う少年の声にも偽りがあるとは到底思えなかった。
「セナの紋章は罰の紋章って呼ばれてるらしいが、償いと許しを司ってる。 俺の紋章はソウルイーターって呼ばれるもので、司ってるのは……」
 背中を向けていても、少年が言いよどんでいるのはわかる。おそらくアルドも首をかしげているだろう。
 だがその紋章の通り名を聞けば、言いたいことは大体理解できる。意訳だけでもろくなもんじゃない。
 案の定、言いよどんだ先を言葉にしたとき、アルドの空気が一瞬張り詰めた。少なくともヘルムートはそう感じた。
 聞くつもりはなかった。
 当然、少年も聞かせるつもりはなかっただろう。
 だが、聞いてしまったのだ。
「――だから、俺のことはもう放っておいてくれ。 近づくのは利口じゃない」
 アルドがその場を離れたのは当然のことだ。
 彼の去り際にごめん、と聞こえたのは誰の声だったか。もしくはそんな声など最初から聞こえていなかったのかもしれない。

 やはり、簡単に耳にして良い話ではなかった。
 アルドに対しても本来なら話すべきことではなかったのだろう。少年にとって彼は危惧すべき人間だと感じたから、話すことになっただけで。
 おそらく軍主ですら事実は知らないでいるはずだ。否、知らないでいる方がいいと知っているのだ。司るものは違うとはいえ、同じ性質なのだろう。少年は警告といい、軍主は彼を自分と同じようなものだと語った。
「何故だ」
 黒い海から振り返り、疑問を声に出す。 だが、答えは返ってこない。
 少年はアルドの後を追おうとせず、その場に座り込んでいた。泣きそうになっているわけではないのだろうが、虚ろな目をしてヘルムートの方――厳密にいえば彼の後方に広がる黒い海を見ていた。
「何故、俺の前で話した」
 再度問い掛けると、少年は面倒くさそうに首をふる。
「聞こえるとは思わなかったんだよ」
「嘘だな」
 語調を強めると、ちっと大きな舌打ちをした。
「…別に、あんたがいてもいなくても関係なかった。海賊たちに聞かれるのは厄介だと思ったけど、あんたは海賊じゃないから」
 真理だと、ヘルムートは思う。
 人の噂とは何よりも早い勢いで広まるものだ。この船の海賊が義賊だとはいえ、海を駆け巡る人間に知れたら、あっという間に広がってしまうのは目に見えている。
 軍主がグレアム・クレイに目をつけられた理由が真の紋章にあるのなら、もしかしたらこの少年も――…
「誰かに追われているのか?」
「そこまで答える義務はねえな」
 そっけなく答えられ、しかしヘルムートは眉一つ動かさなかった。
「…話を戻そう。俺が海賊に話すかもしれない、その可能性は考えなかったのか」
 少年は盛大な溜息をつきながら立ち上がり、視線を海へ向けたままのろのろとヘルムートの隣に並んだ。
「あんたも大概しつこいな。 俺がアルドに紋章のことを話したのは、あいつのしつこさが迷惑だったからだ。俺は干渉されるのが大嫌いだ。 あんたもだろ?」
 ヘルムートは否定しなかった。
 それはもともとの性分であったかもしれないし、敵国の軍人であったからという負い目に近いもののせいかもしれない。ただ干渉されるのが好きか否かで考えれば、間違いなくこの少年と自分は同じであると思ったのだ。
 干渉を嫌う人間が、自ら干渉するはずがない。
 つまり自分は干渉するもなにも、この少年にとってどうでも良い相手なのだと。そういうことだ。
 なるほどと呟くと、少年は少し意外そうな表情でヘルムートを見上げた。
「あんた、やっぱり変わってるな。 海賊たちが言ってた通りだ」
「…何がだ?」
 何を言われていても構わないと思ってはいるが、まったく気にならないというわけではない。奥の奥にある感情論はまた別の話ということだ。
 それにこんな子供相手にくだらない虚勢を張っても仕方がない。ヘルムートは目線だけで少年を見下ろした。
「話してても一人でその先まで読んで勝手に納得してるだろ。だから会話にならねえってさ」
 この瞬間、確信に近い答えを予測していたが、ヘルムートはとりあえず訊いてみることにした。
「……海賊と言ったな。 誰のことだ」
「声のでっけえ奴と背のでっけえ奴の二人組」
 即答されて、予測が当たっていたことに脱力した。
 あの二人はよく絡んでくる。それが決して悪意あってのことではないことは分かる。おそらく二人の性分がそういうものであるのと同時、軍主の配慮でもあるのだろう。そもそも敵軍の将への配慮、というものを理解するのはヘルムートには難しいことだったが。
「俺は別に会話を望んでいるわけではないのだが」
「あんたがどうかなんて知るか。俺だって別にあんたと話したいわけじゃない。 ただ、そう思ってる奴もいるんだってことだ」
「…そうか」
 神妙に頷くヘルムートを見て、少年はますます不思議そうな顔をした。
「あんた生真面目なんだよ。 ただの真面目な人間ならどこにでもいるけど、俺の紋章のことを聞いても無関心でいられる上に納得できる奴ってのはそういない。 そういう意味でも、あんたは変わってるな」
 ふたたび変わっていると言われ、しかし不思議と不快ではなかった。
 この少年が悪意があって言ったわけではないということは分かったし、何よりもこの少年の持つ紋章が何たるかを知ってしまったこともあるのだろう。
 何かを背負っているのは、なにも自分だけではない。
「信じるものは紋章などではなく、自らの手にある。俺はそのような人間を見て育ったし、そうありたいと思う。 紋章が必要ないとは言わない。だがそれを恐れながら追い続ける欲は、理解できん。理解しようとも思わん。 今までも、これからも」
 ヘルムートは話しながら、珍しく饒舌になっている自分を滑稽だと思った。
 少年も同じように思ったかどうかは知らないが、
「…あんた、意外とおしゃべりだな」
そう言ったときの表情がなんとも形容し難いもので、ヘルムートは言い返すことができなかった。
 その表情をもし例えることができたなら、それは笑いだしそうな、または泣きだしそうな子供だと思ったのだ。
 目の前の少年は確かに子供だ。しかしまるで完成されていない大人のようにも見える。
「軍人って俺が思ってたのとなんか違うな。 それともやっぱりあんたが変なだけか?」
 またすぐに表情は戻ってしまったけれど。
 見上げてくる少年は、やはり子供だ。
「少年」
「少年って呼ぶな。 俺はテッドだ」
 生意気な口調が小憎らしい。だが同時に微笑ましくもある。少年らしさのないテッドの中で、唯一幼さの見えるところだ。
 ヘルムートは何か意図があったわけではなく、率直に思ったことを言った。
「これは失礼――ではテッド、きみこそ案外喋る奴だな」
 その瞬間、甲板の手すりに寄りかかっていたテッドがずるりと足を滑らせた。
 あやうく上半身が黒い海へと投げ出されるところで、ヘルムートが伸ばした手につかまり留まることができた。
「び、びっくりした――…」
 目を白黒させるテッドに、それはこちらのセリフだ!とヘルムートは怒鳴りそうになる。そこをあえて飲み込み、代わりに盛大な溜息をついてやった。
「よく喋る上に、落ち着きもない」
「う、うるさい! 大体そっちが変なこと言うから驚いただけだ!」
「変なこと? 何がだ」
 言いがかりもはなはだしいとばかりにテッドを見下ろす。
 こういう時、いかつい顔をしている者よりも整っている顔立ちの者の方が効果がある場合がある。
 テッドはつかまれたままだったヘルムートの手を思い切り振り払った。
「もういい!」
 そして笑わない人と交わらない、そんな得体の知れない少年は肩をいからせて背を向けてしまった。
 ヘルムートはそのまま去り行くテッドの背を見て、もしかしてと思った。
 アルドがこの少年に付きまとうのは、彼にもこんな一面があることを見抜いているからではないだろうか。得体の知れない少年ではなく、喜怒哀楽のある普通の人間として見ているのではないだろうか。
 そして、この少年と自分もまた変わらないようなものだと思ったことも思い返す。
「少年」
「少年って呼ぶな!」
 そのまま無視すれば良いだろうに、テッドは怒りながらも振り返った。
 ヘルムートは別段表情を変えずに淡々と続ける。
「紋章の話、俺は聞かなかったことにする。 きみの話を理解し、納得するのは俺の役目ではない」
 テッドは一瞬目を見開いたが、
「…アルドの奴でもねえけどな」
すぐに目を伏せ、今度こそ甲板を後にした。

 残されたヘルムートは今にも雨が降りそうな空をあおぎ、誰ともなしに呟いた。
「俺の話を理解し、納得するのは――…」
 そして海へと視線を移す。
 何も見えないその深い黒さは彼の独り言を飲み込み、且つ何も答えはしなかった。
 




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