その意味は、まだ
(後)
「魔法兵団長、シュウ軍師がお呼びです。」
若い兵が――もっとも彼らとそう変わらない年齢のようだが――ルックを呼びに来たのはもう数時間も前のことになる。どうやら敵軍の偵察隊を発見したとのことで、フリックの弓兵隊の一部と、ルックの魔法兵団の一部だけで叩くという作戦に出たらしい。先日のルカ・ブライトとの戦いの直後であるし、傷ついた兵は少なくない。ましてや城主自らがたかだが偵察隊を叩くのに出兵できるはずもない。
だからと言ってルックが素直に従うはずがない。何故自分が行かなくてはならないのか、自分じゃなくてもフリックだけで十分ではないかと悪態をつき、むしろそのこと自体を楽しんでいるかのように若い兵を困らせた。結局は軍師の言う通りに事が運ぶことをルックは知っている。しかしこれは生来の性格であり、もはや誰にもどうすることもできないのだ。
散々文句を並べた後、ようやく少しは気が晴れたのか、ルックは舌打ちしながら立ち上がった。隣でルックの悪態を傍観していたにはたった一言だけ告げ、すぐにその場から去ってしまった。
「君も用がないなら家に帰ったら。」
この場が少なからず懐かしいと感じるのは、やはり三年前の境遇を頭をかすめるからなのだろう。決して嫌悪ではなく、懐古な気分。しかしグレミオを置いてきたことは、何故か正解だったとは思う。
かつての仲間が何人か声をかけてきたが、ある程度の他愛のない会話で終わった。シーナは終始騒ぎ通しだったが、これにはさすがに城主が止めに入った。まだ語り足りないと騒いでいたが、「リィナさんのところに新しい芸を見に行こう」と誘うとあっさり頷いた。
「さん、ゆっくりして行って下さいね!」
明るい声が妙に安心する。はその場に座り込み――彼はまだ約束の石盤の前にいた――お言葉に甘えて、と目を閉じた。
まさか眠ってしまうとは。ゆっくり、の意味が多少違うような気もしたが、城主はシーナを連れてその場を去った。少年とはいえ、彼はトランの英雄だ。彼には彼の考えがあるのだろう。今の自分にもそれがあるように。
決して眠っていたわけではない。目を閉じて周囲の喧騒を背景に、ルックの言葉をずっと考えていた。
(―――…壊す、か。)
あれからルックはその話には一切触れなかった。確かにあれは「ただの噂」であり、勘違いであればルックにとっても無関係なことだ。しかしあの過剰反応はどうだ。ルックは確かにあの噂を知っている。
(だからと言って僕にできることなんて何もないし―――…)
何よりも、その噂が彼にとってどのような意味があるのかを知らない。ただ、とてつもなく嫌な予感がする。自分自身がそれを感じているというより、むしろこの右手が彼の右手を警告している感じだ。
目を閉じながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
ふと、慣れた人間の気配を感じた。その気配は目の前で止まり、に影を落とした。
「よ〜う!お前まだこんな所にいたのか?」
周囲の目を引く程の大きな声。しかし決して不快なものではない。もともと眠っていたわけではないが、その声の主を無視するはずもなく。
「やぁ、ビクトール。」
目を開けて軽く手を振った。
「ルックの代わりに石盤の守人をやってるんだ。……早い話が留守番ってこと。」
思ったより退屈だと笑う。三年前と変わらない笑顔に、ビクトールにも笑みがこぼれる。
そして、ルックの隣にが陣取ったように、ビクトールも当然のようにの隣に腰掛けた。
「―――…で?たぬき寝入りの理由はなんだ。」
それは先程よりもややトーンを落とした声。はそれに少し感謝しながらも苦笑した。
「やだな、寝たふりって気づいてたのか。」
「まあな。」
軽く相槌は打ったものの、ビクトールは回答をせかすことはしなかった。むしろそれに安心したのか、が口を開くのにはむしろ時間はかからなかった。
「なぁ、ビクトールはハルモニアの噂を知ってる?」
「うわさ……まぁあの国に関してはいろんなのが出回ってるがな。どんなヤツだ。」
「クリスタルバレーにある円の宮殿って知ってるだろ?……その奥で“化け物”を飼ってるって。」
トーンを一層落としたの言葉を何度か反芻すると、ビクトールは「ああ」と大きく頷いた。
「似たような話は聞いてるな。俺が聞いたのは“化け物”じゃなく“シンダル族の末裔”ってやつだ。」
「シンダル族…末裔……?」
「でもこれはあくまでもただの噂だ。この城の中にもシンダルを追ってる人間が何人かいるが、この噂には見向きもしねぇ。…案外、お前の知ってるほうが正解かもしれないな。」
どちらにせよ、今の自分たちには関係ない。ビクトールはそう言うと、いつものように大声で笑った―――が、は眉根を寄せるだけだった。「ただの噂」、確かに自分もそう思っていた。そのはずなのに。
「……なんだ、考え事ってのはこれだったのか?」
「当たらずとも、遠からず……って感じかな。」
曖昧に笑ってまた黙る。明らかにの様子がおかしい。しかし彼が悩みを抱えるのは至極自然なことで、それはビクトールにもよく分かっていた。何を悩んでいるのかは知らないが、真の紋章持ちとは通常の人間と比べて図り知れない、そして得体の知れない黒いものを背負ってしまうのだろう。そう、おそらくここの城主も。
そこまで考えると、ビクトールはもう一人の真の紋章持ちの顔が浮かんだ。
「、どうせグレミオのいない所で悩むんなら、ルックにでも相談してみろ。ここの城主よりはお前を理解してるし、お前もあいつを理解できるだろ?」
多少毒は強いが、と付け加えて。
「そろそろ帰ってくるはずだぞ。俺がここに来る少し前に前線から伝令が来たんだ。」
出兵とはいえ、偵察隊を叩くだけの任務。やはり時間はかからなかったらしい。が時間を惜しくと思ったことを、ビクトールは知らない。は小さく溜め息をつき、顔を上げた。
「そうするよ。外に迎えにでも行こうかな?」
寄せられた眉は元の位置に戻り、表情にはいつもの人好きのする笑顔が戻っていた。ビクトールもつられて笑いかけた―――その時、
「その必要はないけど。」
いつ聞いても冷たい印象の声がした。性格そのものが現われているその声の主は、顔を見るまでもなくやはりルックなのだと気づく。少なからず戦闘があったはずなのに、本人は無傷で飄々と二人を見下していた。気配を全く感じなかったのは、おそらく空間移動で戻ってきたからなのだろう。他の者を置いて先に一人だけ、という辺りが非常に彼らしい。
当然ルックはそのこと自体はまったく気にしていないらしく――むしろそれを当然と思っているのかもしれない――いつもの自分の居場所にたむろする二人組を睨みつけた。
「呑気にお喋りとは本当に偉くなったよ。用がないなら帰れって言ったはずだけど?」
刺に毒がたっぷりと塗りこんであるその言葉は、一瞬にしてその場を凍りつかせた。更にビクトールに対して「アンタはまた余計なこと話してたんじゃないだろうね。」などと付け加えたものだから、それは尚更のことだった。
しかし二人、特にはそれが意に介さないわけではないらしい。ルックの刺と毒には慣れているだけなのかもしれないが。
「偉くなったのはどっちだよ魔法兵団長サン。ここの城主にゆっくりして行けって言われたんだよ。」
「どのみちすぐ夕刻になる、さっさと帰るんだね。誰かさんがシチュー作って待ってるんだろ?」
「心配には及ばないよ。ビッキーに途中まで飛ばしてもらうから。」
「変な所に飛ばされたら誰も助けてくれやしないよ。」
「じゃあ、ルックにも途中まで一緒に来てもらおうかな。」
「はぁ?」
「僕の用はまだ終わっていないからね。」
小さな言葉の攻防戦は目を丸くしたルックの負けだった。ビクトールは付き合いきれないとばかりに、は軽く手を振ってその場を離れた。ついでに戻ってくる兵の出迎えに行くつもりなのだろう、足は出口に向いていた。
「――――あの噂のことなら、僕が話すことは何もないよ。」
ややあって口を開いたルックの声は変わらず冷めていた。彼の顔を見上げてみれば、嫌悪感をあらわにした表情だ。
「そう睨むなよ、ルック。もうあの噂はどうでもいいんだ。」
「じゃあ何の用?」
間髪入れずに返すルックの言葉の裏には「さっさと帰れ」という意味がありありと読み取れる。その証拠に、彼の鋭い視線が和らぐことはなかった。は苦笑しながら立ち上がり、
「コレのこと。」
と、右手をルックの胸元に突き出した。
「途中であの噂のことは、ビクトールにきみのことを聞くまで本当に忘れていたんだ。本当はコレのことを話したかった。」
「―――…ビッキーに頼まなくても、君一人くらいなら僕が誘導できるよ。」
ルックがそう言うか否か、二人の足元がぐにゃりと歪み、空間にひずみができた。そして強い風が吹いたかと思うと、次の瞬間には、石盤の前には誰もいなくなっていた。
「君がこの力を皆のために使ったら、きっとあの城主も喜ぶと思うんだけどね。」
「何で僕が他人のためにそこまでしなくちゃならないのさ?」
それはほんの一瞬の出来事。二人が今足をつけているのは石盤の前でもなく、ましてや城の中でもなかった。グレッグミンスターの入り口、少し目を凝らせばバルカスの姿も確認できる距離だ。ビッキーの能力ならばバナーの村までが限度だろうが、ルックは易々とそれを飛び越えた。
「そもそもこれは門の紋章の技の一部さ。むやみに使用するわけにはいかない。」
ルックの師・レックナートはにとっても縁の深い人物だ。だからこそ、彼女が門の紋章を所持していることを含め、ルックが彼女の技の一部を使いこなす意味が痛いほどよくわかる。
真の紋章持ちが呪われているとはよく言ったものだ。
「なあルック……僕たちがこの呪われた右手を背負う意味が、この世界のどこかに存在すると思うか?」
自分の右手を眺めながらは言った。
「ルックは言ったよな?僕はまだ紋章の恐怖の意味を知らないって。まだ視えていないって。」
「……まあね。」
「その恐怖の意味を理解した時に、この右手を背負う意味も視えてくる?」
ルックは何も言わず、首を横に振った。
「じゃあ、その答えはどれほどの時間で手に入れることができるんだろう。テッドが歩いたのと同じだけの時が過ぎれば、何か手ごたえが出てくるのかな?」
「…君たちと違って、僕は自分の右手の存在する意味を良く知っている。だけど、君がソレを持つ意味は僕のそれとは明らかに違う。だから、君がソレを持つ意味は僕にはわからないし、その答えを手にするまでどれほどの時間がかかるのかも知らない。けれど、きみがソレでできることを僕は一つだけ知ってるよ。」
「―――なに?」
「簡単さ、君のソレは僕を殺せる。」
は自分の耳を疑った。あまりにもあっさりと、風が頬を撫でるようにさらりと彼が口にした言葉。……殺す?
「ぼ、僕はルックを殺したりなんかしない!」
「―――…ほんの冗談だよ、。でもあり得ないことじゃない。そう、例えば―――…」
「きみが壊れた時、なんて答えは願い下げだぞルック!」
は思わずルックの胸座を掴んだ。しかしルックは表情一つ崩さない。むしろ、彼特有の冷たい瞳は更に温度を下げた。彼本来の毒とは、会話をするよりも、むしろこの瞳で射抜かれた時が一番効果があるのかもしれない。
「…なら話は終わりだ。僕はデュナンの湖城に戻るよ。これでも戦場から戻ったばかりで疲れてるからね。」
は愕然としながらも、彼の毒に染まる前に手を離した。そしてがくりと膝をついた。壊れるの次は殺せる?ルックは自分の命を何だと思っているのか。そう思いながらも、は瞬時にソウルイーターの運命を呪った。こんなことを聞きたくてデュナンまで行ったわけではなかったのに。
ルックは法衣を整え、右手をかざした。それと同時に、足元の空間が歪み始める。彼はそれに体を沈める直前、未だ膝をついて呆然とするに一つだけ言葉を投げかけた。
「でも、もし僕が今賭けている救いの道が敗れたら、その時は考えてみてよ。」
その時が見たルックの表情は、嘲笑ともとれる薄い笑いに哀傷の瞳。
「―――――だよ、。」
最後の言葉は姿が消える直前で、運が良ければ聞かずに済んだかもしれないのに。
それは親友の最期、否、幾度となく聞いてきた親友の言葉。何よりも、この右手の始まりはこの言葉だったのだ。何も知らない自分に、全てを知っていたデッドが託したのだ。ルックはそれを知っていて、その言葉を使ったのだろうか。ルックは何も知らない自分に、テッドと同じように残酷なことを託そうとしているのだろうか。
ルックが賭けていることとは何だろう?
あの噂は何故ルックを惑わせるのだろう?
いくら考えを巡らせても、には到底理解できないことばかりだ。しかし、言い知れぬ不安だけが残ったことだけは確かだった。
ルックが去り際に残したテッドと同じ言葉、それに返す言葉などに見つかるはずがない。
『……お願いだよ、。』
彼がこの時のルックの話に含まれる数々の真意を理解するのは、これより十五年も先になる。
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