時 代 と 歴 史 と
【3】







 一階の広間の最奥に、大人の背丈ほどの石版がある。
 特に隠しもせず、だからといって奉っているわけでもないそれには、誰にも読むことのできない文字が刻まれている。
 以前は読める者もいたが、この石版に足を止める者が少なくなると、不思議なことに自然と文字は薄れていった。
 その文字がかつて統一戦争で活躍した英雄のもとに集まった仲間の名だと知る者は、今となっては知らない者の方が多い。
 その石版の前にある見慣れた背中に、クラウスはふと足を止めた。
「…フリック殿?」
「うわっ」
 勢い良く振り返ったのは、やはりフリックだった。何かに追われ、追いつかれた時のような驚愕の表情で目を丸くしている。
「な、なんだクラウスか。 何か用か?」
 用もなにも、単にこの場所が軍務室に向かう途中にあるだけであり、クラウスは特にフリックに用があるわけではなかった。
「いえ、これからシュウ殿と打ち合わせがあるので……フリック殿こそ、こんな所で何を?」
「いや俺は…別に……」
 フリックは少し慌てたように目を泳がせたが、
「そ、そうだこれ。 これを見てたんだ」
今思い付いたように石版を指した。
 クラウスはああ、と微笑んだ。
「この石版、とても不思議なんですよ。 今はもう薄れてしまって読める文字はほとんどありませんが、手入れをしていないのに傷や汚れがまったくつかないんです。 本当に不思議です」
 そう言いながら、目を細めてそれを見る。
 この石版は解放軍誕生時にレックナートという占い師がもたらしたのだと、クラウスが知ったのは実は統一戦争が終結してからかなり後になってからのことだった。
 当時一人の少年がこの石版の守人をしていたが、それに特に意味があるとは思わなかったし、クラウス自身もそれどころではなかった。敵軍から一転しての生活に加え、劣勢な軍事状況、それ以外のことを考える余裕などどこにもなかった。
「そういや、お前はよくこの石版を見てたな。 名前を覚えるため…とか言ってたっけ」
 フリックに言われ、クラウスは多少驚いたような顔をした。
「よく、覚えておいででしたね」
「まあな」
 フリックの言う通りだった。
 確かにクラウスは当時の生活に余裕などなかったが、しかし仲間の名前すら覚えられないようでは敵軍からきた副軍師など信用に値するはずもなく、クラウスは気がつけばこの石版で名前を確認するようにしていた。
「今ではすっかり習慣になっています。もうわたし以外にこの石版を見る者はほとんどありませんけれど…文字もだいぶ薄れてしまいましたし、仕方ありませんね。 時代が、流れている証拠なのでしょうが――」
「少し寂しいか?」
 からかうような口調に、静かに首を振る。
「時代を動かし、歴史を作る手伝いをするのが軍師の仕事です。それはわたしにとってこの上ない喜びです。 シュウ殿にも教えられました。策を練るだけが軍師ではない、時代が上手く流れるように、歴史が積み上がってゆくように手を差し伸べる。神になる必要はないが、人としてそれが許されることもあるだろうと。それを学んでゆくのも軍師なのだ、と。」
 シュウがシルバーバーグに師事し、破門になったのはある意味良かったのではないかとクラウスは思う。
 シルバーバーグの考えを学び、そしてシルバーバーグとは違うものを学んだシュウ。だから、今の自分がいるのだ。
 フリックは感心したようにほお、と頷いた。
「あの鬼畜軍師がそんなことをねえ…」
「時として、軍師とはそう在るものなのです」
 笑ったクラウスを見て、フリックは納得したようなそうでないような、複雑な表情を浮かべた。
「しかしアレだな。 シュウは随分とお前のことをご自慢というか信頼してるというか…まあお前らは師弟みたいなもんだろうから、当然といえば当然なんだろうが」
「は?」
「いや、さっきの軍事会議で思っただけなんだが。 息が合うというか、そんなお前に満足しているというか… あの頃のシュウと比べるとそれが珍しいなと」
 フリックは特に考えがあって言ったわけではなかったが、クラウスは少し言い難そうに目を伏せたのを見て、自分は何か地雷を踏んでしまったのかと焦りを覚えた。
 だが、顔を上げたクラウスはにこりと笑った。
「シュウ殿は、わたしに負い目を感じているのでしょう」
「負い目?」
「はい。わたしが立派な軍師になれるように教育をお願いしたのは父です。 遺言だったと、シュウ殿に教えられました」

 普段から冷血と言われていたシュウがこの作戦に限ってそのような言葉をぶつけられなかったのは、キバ将軍の最期がじつに見事だったからだろうと言われている。
 軍主をマチルダ騎士団領に送り込むため、おとりとして軍を率いて傭兵の砦へ向かった将軍。彼は命を賭して任務をまっとうした。敵軍からきた将軍ではあったが、その志し生き様は誰よりも軍人らしいものであった。彼の死には多くの者が涙したという。
 だが、息子であるクラウスだけは涙を流さなかったということもまた、皆が涙した理由の一つだった。彼こそが最期まで軍人で在った父を誰よりも誇りに思い、また自分もそうで在りたいと願った人物だからだ。
 彼らに涙した者はみな、彼らを称える意味を含めて、将軍を死地へ向かわせたシュウを批難したりはしなかった。

「父は後悔など一つもなかったでしょうし、わたしもシュウ殿を恨んだりしたことは一度もありません。今この国があるのも、それが正しかったからなのでしょう。 ですが、シュウ殿にはそう捉えることができない部分があるのかもしれません。…人というものは、誰一人として同じなわけではないですしね」
 クラウスは、石版のかつて天猛星と刻まれていた部分を静かに撫でた。今はもう消えかかっていて読むことはできないが、この星には父の名が刻まれていた。
 あの日、誰よりも早くこの名前が割れたことを知ったのはクラウス本人だった。石版の守人である少年は軍主とともに出兵しており、この場所に残った自分だけが、その音を聞いた。
 名前に赤くひびが走る、ぱきりと乾いた音を。
「――わたしはシュウ殿に負い目を感じて欲しいとは思いませんが、そうすることで父を悼んでくれるのだと思うと、嬉しかったりもするのです。わたしは軍人ではありますが、人の子でもありますから」
「クラウス…」
 フリックの声は気遣わしげなものだったが、クラウスが撫でた部分が将軍の名前があるとは気づかなかった。
 当時からあまり石版を見ることをしなかったというのもあるが、あの戦いの日々から十二年も経っており、薄れた文字はすでに何の言語で刻まれているのかすら読むことができなかったからだった。
「誰にでも、忘れてはいけない人はいるものです。わたしにはそれが父であり、そうすることでシュウ殿も父を忘れないでしょう。 そんなわたしをひどい人間だと罵る人もいるかもしれませんが、しかし父はそうするに値する人物だと思っています。 過去も、今も、これからもずっと。わたしはそんな父の背中を、決して追いつくことのできない背中を追い続けます」
 石版から手を離したクラウスの表情には、決して悲観しているとか企んでいるとかの後ろめたいものは一つもなく、前だけを見ているからこそ過去を背負うことができる強さがあると、フリックは思った。
 過去を忘れることで強くなるのではなく、背負うことで前に進む強さ。
 フリックは本人も気づかぬうちに、愛剣を握り締めた。
「お前、本当に立派になったよ。シュウじゃなくたって自慢に思うだろう。 きっと、将軍だって同じだ」
 クラウスは少し照れたように笑って、
「ありがとうございます」
頭を下げた。

 それから間もなく、フリックは引きとめて悪かったとクラウスを見送った。
 そして彼の姿が見えなくなってからふたたび愛剣を握り締める。
「忘れないに値する――…か」
 呟き、そして剣を見つめ一つの名を呼んだ。
 それは剣の名なのか、いまだ心に眠る太陽のような女性の名なのか。
 今この場に誰もいないことに、フリックは感謝した。
「オデッサ…」


「お前が時間に遅れるのは珍しいな」
 シュウは書類から目を離さずに言った。
 昔とまったく相変わらないその姿にクラウスは笑みをもらした。
「今しがたフリック殿と話していたのですよ。」
「フリックと? そういえば酒場にはいなかったようだが」
 ようやく顔あげたシュウにクラウスは首を傾げた。
「シュウ殿も酒場の方にいらしたのですか? わたしも一度立ち寄ったのですが」
「ああ、お前に用があったのだが…まあ急ぎでもなかったから別に良かったんだが。フリックはなんだ、どうせニナに追い掛け回される幻想に悪寒が走ったとかで逃げ回ってるんだろう。 人間には一つくらいトラウマがあるもんだしな」
 表情一つ崩さずに言ってのけるシュウに、それで声をかけた時にフリックがあんなに驚いたのかと、今更のように納得した。もう十二年も経っているのだ、あの少女もどこかで魅力的な女性に成長しているだろう。そう思うと、クラウスは少しだけフリックに同情した。
「そういえばビクトールはあの奇妙な剣を手放したようだな」
「は?」
 突然変わった話題に首を傾げる。
「星辰剣とかいう喋る剣だ。自分は真の紋章の化身だとかなんとか、やけに自己主張の強い剣だったと俺は記憶しているが」
 そういえば、とクラウスも記憶を辿った。
 当時ティントに現われた吸血鬼を倒すのに使用したはずだ。持ち主のビクトールとは常に口喧嘩をしていた気がする。それも、実に低次元の争いを。
「手放したというと、売ったということでしょうか…」
 もしくは喧しさに付き合いきれず捨てたのだろうかと思った。同盟軍が誕生する前にビクトールはまさにその通りのことをやってのけたわけだが、クラウスは知るよしもなかった。
「いや、旅の途中で少年に預けたそうだ」
「…少年?」
 シュウの話によれば、吸血鬼が出るという村にたまたま立ち寄ったビクトールたちが、星辰剣でその少年の姉を助けたらしい。そのせいか少年は二人にとても懐き、離れるのが嫌だと駄々をこねるものだから代わりに星辰剣を預けたのだという。
「『お前が強くなって俺に返しに来い』などと言って剣を置いてきたようだが、それは喧しいのと縁を切る口実だったんだろう。大方旅を続けているというのも、その子供が星辰剣を持ってくることから逃げてるんじゃないのか」
 どいつもこいつもと呆れた溜め息を聞き、クラウスは苦笑した。

「だが――…戦力にはなる」
 ふと、声色が変わった。
 クラウスは表情を引き締め、無言で頷いた。
 これは軍師同志で話す時にだけ使われる声で、他の者には絶対に聞かれてはならない。
 軍師たるもの時として非情で在ることも辞さない。それはシュウと父が身を持って証明したことだと、クラウスは知っている。
「クラウス、俺はもうお前に教えることなど何もない。将軍との約束は果たしたつもりだ。 だが、お前はまた俺を呼んだ」
「…あなたの力が必要だからです」
 シュウは頷く。
「俺の全てを叩き込んだお前が、まだ俺を必要としている。その理由はたった一つ。 俺が、お前ではないからだ。策や能力が同じでも、人というものは誰一人として同じなわけではないからだ。 違うか?」
 問われて、クラウスは違いますとは言えなかった。
 まったくその通りだった。表面上は置き土産となんとでも言えたが、クラウス自身がこの戦にはシュウという人間が必要だと判断したのだ。
 能力が劣っているとか、そういう次元ではない。クラウスはシュウから得るだけのものは充分に得尽くしたし、経験が足りないというわけでも決してなかった。
 ただ、自分とシュウは同じ人間ではないこと、それだけが理由だった。
「同じではないということは、俺にできてお前にできないものがある。そしてその逆も然り。そういうことだな?」
 クラウスは大きく頷いた。
「かつての統一戦争で学びました。この城には多彩な人種が集まり、その力が奇跡となって我らを勝利に導いた。この国はそうしてできた国だから、今度もいろいろな人物が必要なのだと考えています」
「…将軍は軍人であるから奇跡を信じたことはないと言っておられた」
「はい。 しかし、父は信じたのです。だからあの日の勝利があったのだと、わたしは確信しています」
 シュウは思案するように目を伏せた。
 彼が何を考えているのか、クラウスは知らなかったし、知りたいとも思わなかった。だがおそらくは、という予想はある。シュウは統一戦争の後、誰よりも自分のことを考え、父のことを思ってくれていたのだから。
 しかしそれを声に出してしまうほどクラウスは愚かではない。そしてシュウもそれを知っている。
 おそらく次に目をあけた時、彼は何事もなかったかのように今後の話を始めるだろう。

「ではクラウス。せっかくの戦力を逃す手はない。ビクトールとフリックについてだが…」

 話し始めたシュウに、やはりと思う表情を隠しながらクラウスも席についた。
 そして地図を広げ、話の要点となる場所に印を打ってゆく。
 いつもとは違う声色、口調、そしてハイレベルな軍義。
 その中で沸き上がる高揚感と緊張感、それがまた自分は軍人なのだと改めて考えさせられる。
 自分は誉ある軍人の息子として生まれ育ち、その道を此れとして生きているのだから。
 おそらくそれらはシュウの中には存在しない。彼は軍師であっても、軍人ではないのだ。
「――と、俺は考えているが。 クラウス、お前の意見は?」
「そうですね、おおむねは賛成ですが、この軍の配置ですと――」
 負けるわけにはいかない。
 せっかくこの手で、父の手で動かした時代と作り上げた歴史、負けるわけにはいかない。
 クラウスはまた少し動き出そうとしている歴史に、人知れず挑戦状を叩きつける。
 そして勝利したあかつきには、また飲めない酒を持ってあの地を訪れようと誓った。
 


 後にハイイースト動乱と呼ばれるこの戦で、デュナン共和国はハルモニアに勝利した。
 もっとも、それは歴史に残る大戦に発展した戦ではなかった。
 しかし、戦とは得るものよりも失うものの方が確実に多い。 それは歴史に刻まれたどの戦でも同じことであり、時代が流れまた別の時、別の場所で繰り広げられる戦いでも同じことなのだ。
 そう知りながら、クラウスはまたあの地へ足を運ぶ。

「父上、今年も酌をしに参りましたよ――…」
 
 軍人としての誇りを背負って。


 END









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