時 代 と 歴 史 と
【1】







 焼け焦げた敷地の一角に、小さいながらも整えられた墓地がある。
 一見無造作に立てられた数々の墓標は非常に質素で、しかしその周囲では様々な花が咲き乱れている。
 その墓の下に眠るのはかつての戦士たちではない。残された鎧や兜、剣などのたぐいだ。
 この地に足を踏み入れるのはこれで十二度目にもなるのかと、風に吹かれながらクラウスは思った。数えても意味はないが、もうそんなにも時間が経過していることに少し寂しさを覚える。
「こんな時にここを訪れるのは軍師としては失格ですね」
 少し笑んで、一際大きな墓標の前に立つ。素晴らしい武将だった、彼の父の墓標だ。
 身内の贔屓目ではなく、本当に素晴らしい武将だったと、クラウスは胸を張って言えるだろう。事実、彼の父の功労はもはや歴史の一部となっているのだ。
 この地の墓標にはどれも名が刻まれていないが、この地そのものには歴史が刻まれている。
「大統領の許可を頂きました。…今年も父上の酌をしに参りましたよ」
 クラウスは手にしていた瓶を開けると、勢いよく中身を墓標の上に流した。
 少しきついほどの葡萄の香りが鼻腔をくすぐる。
「あまりゆっくりはできないのですが、しかし、それでも――…」
 クラウスはゆっくりと目を瞑り、ここへ来ることを許可した主に感謝した。


「今年もあの場所へゆかれるのでしょう?」
 デュナン国の大統領が言った。
 それは重要な軍事会議が終わった後で、会議室には彼女とクラウスしかいなかった。
「…お気づきでしたか」
 少し目を丸くすると、彼女はくすりと笑った。
「いつも同じ時期に暇を取りたいと言うのですもの、誰でも分かります」
「しかし何処へ行くかまでは…」
「私も戦場まではお供できずとも、ここで一緒に戦った身です。この国がこうしてあるのも、将軍の働きあってのことです。あの時のことを忘れることなどできません」
「…テレーズ様にそう仰って頂けるのならば、父もさぞ喜ぶことでしょう」
 クラウスは嬉しそうに笑った。しかしすぐに張り詰めた表情になり、
「ですが、今年は無理ですね。相手はなにしろこれまでの小さな反乱軍とはわけが違いますから」
テレーズに、大きな溜め息をつかせた。
「ハルモニア神聖国…。 予想しないわけでもなかったけれど、まさか十二年も経って今頃…」
「ハイランドの逃げ出した残兵は少なくありませんし、ハルモニアも機会を覗っていたのでしょう」
 彼の云う反乱軍とは、自らの出自国の軍の残兵たちのことだ。
 それを口にしてももう胸が痛まないほど時間が経っているのに、かの大国は現在デュナンの領土となっているハイランドの地を狙って進軍するというのだ。
 以前より警戒はしていたため斥候を出していた甲斐があった。ゆえに、これは正しい情報だった。
「この時期にここを離れるわけには参りません。相手がハルモニアであるならば、こちらも全力で当たらなければならないのはご承知の通り。我が国はようやく安定してきたのです。それを崩させるわけには…」
「…そうね」
 テレーズはふたたび溜め息をついた。

 十二年前、デュナンの統一戦争が終結した。
 同盟軍の軍主は少年だったが、しかし彼は人を統率することに優れていた。だから戦争終結後、この地に新たな秩序を立てる時、統治する者はその少年であると誰もが思ったものだった。
 だが実際は少年はそれを望まず、本人は姿を消してしまった。
 それはこの新しい国にとって大きな痛手ではあったが、だが、それでいいと誰もが思ったことも事実だ。主を彼にと願いながら、彼の願いこそ受け入れなければならないことを知っていたのだ。それだけの代償を彼は払っていたのだ。
 グリンヒル市長を兼任するという条件でテレーズがデュナン共和国大統領に就任したのは、統一戦争終結から一年後のことだった。
 そしてそれと同時に、
「わたしはこの国の軍師として、あなたとこの国を守る義務があります。それが民の願いで、わたしの願いでもありますから」
クラウスは副軍師から正軍師になった。
 テレーズは思案するように顔を俯かせ、ぽつりと呟いた。
「でも、それはあなたがキバ将軍を偲ぶことの邪魔をする理由にはならないわ」
「テレーズ様」
 クラウスが嗜めるようにきつい口調で言う。
「大統領が軍人にそのようなことを仰ってはなりません。あなたも十二年前の戦いで軍師という立場はどうあるものか、しかと理解しているはず。戦争時に個人の感情を持ち出してはなりません」
 テレーズは首を振った。
「でも、あなたにはその権利があると思います。かつての盟主がこの地を去ったことを誰もが許したように、あなたがほんの少しだけこの城を留守にすることだって許されるはず」
「しかしテレーズ様…!」
「それが許される、この国はそういう国でありたいと私は思っています。いえ、すでにそういう国なのかもしれないわ」
 あなたは違うのかしら、とテレーズは言った。
 こうなると、クラウスには何も言い返せることはない。言い返す術はある。しかし、それは何の意味もないということを知っているのだ。彼女が大統領に選出されたのは、この芯の強さと優しい人柄があってのことだ。そして、それが今の主なのだ。
「将軍を偲んでいるのはあなただけではないの。…行ってください」
「――ありがとうございます、テレーズ様」
 クラウスは深く頭を下げた。


 クラウスと彼の父、キバ将軍。今はもう無き彼らの祖国では将軍と軍師として共に戦った二人だが、同盟軍に籍を置いてからは同じ部隊になることは多くなく、将軍の最期も共にあることはなかった。
 今、将軍はこの地――傭兵の砦跡と呼ばれている――に眠っている。遺骨はウィンダミア家の墓に葬られたが、しかし戦場で命を落とした父のこと、魂はこの地に眠っているはずとクラウスは確信していた。
 これは未練なのかもしれない、とクラウスは思う。軍人として、息子として、将軍の最期を見届けることができなかったという未練。その思いだけで、父の命日はこの地に来ることを決めた。毎年、酒豪であった父に酌をするためだけに。
 今年は難しいと思われたが、テレーズの許可もありこうしてこの地に立つことができた。
 だが、いくら大統領が許可したといっても、軍師としてやらなければならないことは山ほどあるのだ。いつ始まるとも知れない戦に向けて、下準備をしておかなくてはならない。
 クラウスがこの地を訪れる際にテレーズは数名の精鋭を選抜したが、しかし彼はそれを丁重に断り、代わりに新たな軍の配備を指揮してきた。自分に割く人材があるのなら、それは県境近くの防衛に回した方が良い。
 ハルモニア相手ではデュナンの軍だけを使うのでは心許ない面が多々ある。ミューズに配備している軍はハイランド県との境に近いため下手に動かすことはできなかったし、ティントはグラスランドとのいざこざが絶えない状況にあり、援軍を求めるわけにはいかなかった。
 そのような現状と、そしてこの砦跡自体がハイランド県に近いこともあり、テレーズもクラウスの進言を一つ返事で了解した。焼け焦げた砦跡に置くよりも、県境に配備した方が遥かに効率は良い。
 そしてクラウスは最善最良と思われる置き土産を用意し、城を留守にしてきたのだった。

 毎年クラウスは将軍の墓標に半分ほどの酒をかけると、残りを自分で飲むことにしていた。弔い酒とは違う。下戸であった自分は酒豪の父と酒の席を共にできなかった、そのことが今更のように悔やまれるからだ。
 だが瓶の半分ほどの量すら、彼には難しい量だ。一気に呷れば卒倒するし、少しずつ口に入れれば気分が悪くなってくる。話し相手でもいれば気が紛れるかもしれないのだが、このひっそりとした墓参りは地味な儀式のようなもので、クラウスの他に同席する者はいなかった。
 育ちの良さ、というものだろうか。クラウスは瓶を直接口につけて飲むことはしない。杯を持参し、それに注ぎつつゆっくりと飲み減らしてゆく。時間をかけながら飲むので、次第に飽きもするし気分も悪くなる。下戸とはそういうものだ。
 それでも彼はこの儀式めいたことを十一年も続けてきたのだ。
 今年で十二年目。これまでと変わるものは何もない。

 ではわたしも、とクラウスが杯に酒を注ぐと、ふと背後に人の気配が近づいてくるのに気づいた。
 少数ながら連れてきた護衛の者は砦の外に置いてきた。急ぎの報告だろうか――否。伝達であれば悠長な足取りなわけがない。
 近づいてくる足音に耳を澄ます。…一人……いや、二人だ。
 剣の腕を持たぬ身なれど、クラウスは幾度となく戦場を経験した軍人だ。相手の間合いの距離がどれほどあるか見当はつかないが、しかし絶対に安全ともいえる距離なら計ることは容易い。
 あと三歩、二歩――…一歩。
「この地に何用だ」
 振り返らずに、厳しい口調で言う。
 普段は非常に穏やかなクラウスだが、戦においてはわずか齢十九にして一軍団の正軍師を務めた軍才の持ち主だ。声や口調や態度を変えることで相手にもたらす影響を、身をもって心得ている。
 気配はその場でぴたりと止まった。
「ここはデュナン共和国軍が管理している。関係者以外は立ち入り禁止だ」
 更に言うと、気配は何かを逡巡するように動いた。
 一瞬クラウスも警戒したが、しかしそれは剣を抜くとか弓を構えるなどの敵意や殺意を剥き出しにした行為ではなかった。
 そして返ってきたものはクラウスの予想の範疇にないもの――それは溜め息と含み笑いの懐かしい声。

「おいおい、俺たちは関係者扱いじゃないのか?」
「いやいや結構サマになってるじゃねえか、クラウスちゃん」

 振り返った先にある二人の人物が確かにその懐かしい声の持ち主だとわかると、クラウスは思わず杯を取り落としそうになった。
「――フリック殿、ビクトール殿も!」
 今しがたの厳しい口調から一転、昔と変わらぬ明るく通るクラウスの声を聞き二人はにやりと笑った。
「シュウもびっくりするほどの軍人ぶりだと思ったのによ、なんだ相変わらずか」
 駆け寄ってきたクラウスの肩を叩くのはビクトールだ。
 痛いですよ、と言いながらクラウスもビクトールの肩を軽く叩く。
「お久しぶりです。でも‘ちゃん’付けはないでしょう。相変わらずなのはお二人もそうなのではありませんか? まさかまだご一緒に旅をされているとは思いませんでした」
「…不幸なことに、もう腐れ縁になっちまってるからな」
 フリックは本当に不幸そうに溜め息をつく。いっそ芯まで腐って切れ落ちて欲しい縁だとまで言った。
 ビクトールは気分を害するどころか、
「嘆くな、嘆くな。 お前の不幸は当たり前過ぎて、もう笑い話にしかならねえよ!」
と、豪快に笑った。
 そんなビクトールとますます深い溜め息をついたフリックを見て、やはりこの二人は何も変わっていないのだとクラウスは思う。
 そしてそれが懐かしくて、とても嬉しかった。
「それで? ここには何か用があったのでは?」
 先ほどクラウスが言ったように、現在この地は軍が管理している。
 誰がどのような用向きでこの地へ立ち入るか逐一耳に入るようにしているが、しかしこの十二年でフリックとビクトールがやって来たという報告は一度もなかった。
 十二年ぶりの訪問、クラウスは何となく問いの答えに気づいていたが、敢えて知らぬふりをした。
「…ここに来ればタダ酒が飲めると思ってよ」
 ビクトールはクラウスの後ろを顎でしゃくってみせた。
 それは二人が来るまで、彼が立っていた場所。
「そうですか」
 にこりと笑ってクラウスはどうぞ、とその場所に二人を促した。
 そして、
「本当は先に城へ行ったんだ。 お前とは行き違いになっちまってな…」
問いの答えが当たっていることを確信した。

「ハルモニアが来るまで、あと少しだな」
 フリックの呟きに、クラウスは大きく頷いた。






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