「がんばってお世話しますね」
もう何年も前のことだ。
彼は塔内の空気が元に戻ったことに気づくと、ゆっくりと振り返った。 そしてそこに彼女が立っていることに驚きもせず、視線を窓の外に移した。 「空を見ていたのですか」 問われたが、しかし特にそれには返事をしなかった。 「…お仕事は」 「終わりましたよ」 「そうですか」 淡々と話ながら、しかし視線は遠くを見つめるばかり。 彼女の仕事は赤月帝国へ星見の結果を渡すこと。塔内の空気が元に戻ったということは、訪ねてきた客人――十中八九、帝国の役人だろう――が帰ったということだ。 自分にとってはどうでも良いことだが、しかしご苦労なことだとは思う。何を見ても、何を知っても、結局行き着く先は変わらないというのに。 彼は変わらず遠くを見ながら言った。 「もうすぐ雨が降りますよ、レックナート様」 彼の視線の先にある空は青い。 レックナートはそれに何か言ったはずなのだが、しかし彼はもうそれを忘れてしまった。 「ごめんなさい、ルックさま…」 俯いたセラから、雫がぽたぽたと音を立てて床に落ちた。別に涙というわけではない。濡れた髪から雫が滴っているだけだ。 セラと同じく濡れ鼠のルックは怒っているわけではないのだが、しかし冷たいと思われても仕方のないような溜め息をついた。 「僕は大丈夫だから、ほら、きちんと拭かないと風邪ひくよ」 「セラはへいきです。でもルックさまが…」 ルックはまた一つ溜め息をつくと、手にしていたタオルをセラの頭に乗せた。そして 「ちょっと髪が乱れるけど…後で直してあげるから」 多少強引にくしゃくしゃと髪を拭き始めた。 「セ、セラのはいいです!」 「いいからじっとして」 タオルごしに頭を押さえつけると、セラは観念したように大人しくなった。 そして代わりに、小さな肩をくったりと落とした。 「ルックさまの言うこときかなかったせいで、ごめいわくをかけてしまいました…」 別にセラのせいではない。少なくとも、ルックはそう思っている。だがどうせ何を言っても自分を責め、そして落ち込んでしまうだろう。セラはそういう娘だ。 怒っているのかと誤解されそうな沈黙だが、しかしルックは黙ってセラの髪を拭き続けた。 ――数時間前、セラが自分で育てている花の様子を見に外へ出たいと言い出した。天気も良いし、気温も低くはなかった。しかしちょっと外の様子をうかがえば、風を司るルックには天候の変化など容易に読み取ることができる。 「すぐに雨が降ってくるから、後にしたら」 ルックはそう言ったが、セラはまだ晴れているからといってそのまま外に出てしまった。 彼女としてもルックの言うことが信じられなかったわけではない。ただ本当に外は晴れていて、雨が降る様子などまったくなかったのだ。ルックが言うのだから、雨は確かに降るのだろう。しかし、まさか本当にすぐに降ってくるとは思わなかったのだ。 雨が降ってきたのは、セラが塔を出てから間もなくのことだ。小雨程度ならと思ってあえて止めなかったが、しかし雨は思いのほかに強かった。 ルックは窓の外を眺め、ついさっきまで青色だった空が灰色に変わったことに顔をしかめた。ふと何かを思い出しかけたが、しかしそれが何なんなのかは思い出せず、慌ててセラを迎えに外へ出た。 降りそそぐ雨は叩きつけるような強さではなかったが、しかし決して温かくはなく、灰色の空も手伝ってなぜか苛立ちを覚えた。 (ああ、そうか) 理由にはすぐ気づいた。 (灰色なんて、いつ見てもいいもんじゃないね) 白昼夢――とは語弊があるだろうが、ルックにはそう思えて仕方がないのだ。彼の夜見る夢はいつも灰色の世界だが、ならばこうして昼にも見える灰色は一体何なのかと。 冷静に考えればそれはただの天候の変化であり、彼だけが見ている夢なのではなく、そして彼が夢と呼ぶ未来の世界でもないということに気づくだろう。だが、彼にはそれができない時があるのだ。それは彼の呪うべき宿命であり、誰にもどうしようもない。彼の見る夢は誰にも理解できず、救うこともできない。ルックもそれを身をもって知っているからこそ、こうして昼でも見える灰色に苛立ちを覚えるのだった。 ルックはもやもやとした感情のまま彼は歩いた。セラの育てている花は塔から少し離れた場所に咲いている。いや、咲いているらしかった。ルックはそれを見たことがない。花壇もセラが自分ひとりで作ると言い張り、手伝おうかといってもそれを拒否したからだ。 「だって、まだ恥ずかしいので…」 そう言って、花壇とやらができあがってからもルックに見せようとしなかった。まだ、と言ったからにはいずれは見せようと思っているのだろう。だからルックもそれ以上は何も言わなかった。 空間転移の術を使った方が早くセラを迎えにいけるのだが、そんな理由があってそれは憚られていた。早くセラを見つけなければと思う一方で、見せたくないものを見られたらどれだけ嫌な思いをするだろうとも考えてしまうのだ。 「あ、ルックさま――…」 セラを見つけたのはそれから間もなくだった。 もう自分もセラも全身ずぶ濡れだったので、存外早くに見つけられたのは僥倖だとルックは思ったかもしれない。しかし彼にとっての本当の僥倖はそれだけではなかった。 セラは薄紫色の花が咲き誇る中で、途方にくれたようにルックを見ていた。 「あ、あの…その…」 花壇と呼ぶには大きい、花畑と呼んだ方が正しいようなその場所で、セラはそれこそ泣き出しそうな顔をしていた。 だが、泣き出しそうになったのはセラだけではない。ルックもそうだったのだ。 彼の僥倖は、彼女を早く見つけられたということだけではない。その、薄紫色の花もそうだった。 「その花――」 「ご、ごめんなさい、ルックさま! ほんとうはもっとちゃんときれいに咲いたときにお見せしたかったのですが…」 ルックが近づこうと一歩踏み出すと、セラが駆け寄ってきた。その際に何本かその花を踏んでしまったが、そのたびにセラが痛そうな顔をした。 ルックのところまで来て、そして自分と同じくずぶ濡れになっているルックを見て、 「――ごめんなさい。もうちょっとだけ、ないしょにしたかったのです」 申し訳なさそうに俯いた。 違う、セラが謝るのは間違っている。 ルックはそう言いかけたが、しかしその言葉を飲み込むようにセラの手を引っ張った。 「帰ろう、セラ」 自身で感情表現にコントロールをつけにくいルックのその声には、少しだけ怒気を感じたかもしれない。 本人にその気はなくとも、セラにとっては、もしかしたら。 ルックはセラの髪を拭きながら、その時の様子を思い出していた。 大人しくルックに髪をあずけているセラは、やはりルックが怒っていると勘違いしているようだ。ルックがそうではないと言っても、何度も何度も申し訳なさそうに謝った。 実際にルックは帰ってからも優しい声をかけなかった。だが、それは大きな誤解なのだ。怒っているのではない、その逆だ。 「セラ」 「…はい」 「あの花――」 そこまで言うと、セラは身体を緊張させた。髪を拭くタオルで表情は読み取れないが、セラのこわばった顔が目に浮かぶようだ。 やっぱりそうだ。ルックは自分の考えを確信すると、ほうと息を吐き出した。 「あの花、以前僕がきみにあげた花だよね」 セラはちいさな声で、はい、と頷いた。何かを言おうとして散々迷ったあげく一番簡潔な答えを出した、そんな感じの声だった。 以前、ルックは軽い手土産ということでセラに何本か花を摘んできたことがあった。特に何かを期待したわけでもなく、本当にただの手土産だったのだ。 薄紫色のそれを、セラはぎゅっと抱きしめて言った。 「がんばってお世話しますね」 そして、その花よりもずっと華やかに笑ったのだ。 そういえば、と記憶をたどってみる。あの日以来、あの花を見た記憶はない。セラに花を摘んできたということすら記憶の片隅に追いやってしまったほどだ、それほどルックにとっては大したことではなかった。その花を、セラは小さな花瓶などではなく、もっと広い大きなところで大切にしてくれていた。 かつて数えるほどしかなかったわずかな花が、灰色の空のもと、薄紫色の絨毯をつくっていた。 それは、一瞬にして夢から覚めたような感覚だった。 実際、その瞬間までのルックは灰色の世界に苛立ちを隠せないでいたが、しかしその光景を目にした時は間違いなく視界が薄紫色に染まったのだ。その世界には、苛立ちなどどこにも存在しない。存在したのはその色と、セラだけだ。 夢から覚めた瞬間、泣きたいような感情に襲われたのはなぜだろう。 「ルックさまからいただいたお花は、もっと広いところでお世話したかったのです。いつかどんな大きな花束にしてもまだまだ咲いているような、そんなお花畑にしたかったのです」 俯いたまま、セラは言った。 ルックはといえば、淡々とした声で「そう」としか言えなかった。その声とは裏腹に、実は喜んでいるかもしれない自分に気づきながら。 「やっとたくさんきれいに咲いたので、晴れたときに見ていただきたかったのです。…こんなにはやく雨がふってくるとおもわなかったので…ルックさまにごめいわくを……」 またしょんぼりとした声になってきたので、ルックはセラの目線の高さまで腰をかがめた。 頭にのせたタオルはそのままで、セラのまっすぐな髪はそのタオルのせいでくしゃくしゃだ。その姿がなんとなく笑いを誘い、ルックはやっときつい口調ではなく話すことができた。 「セラのせいじゃないって言ってるだろ。それに、あの花をきちんと育ててくれたんだし…逆に僕がお礼を言わないとダメだね」 「でも、もっときれいなときに見てほしかったです」 「あれで…充分過ぎるくらいだよ」 瞬間とはいえ、夢から覚めた。ルックにはまさしくそれだけで充分だった。 「そう、僕には充分だ。夢はちゃんと覚めるって気づかせてくれたからね。こっちが夢ならどれだけいいだろうとも思うけど、それも覚めちゃったらつまらないしね」 「…よく、わかりません」 首をかしげるセラに、それでいいんだと口を綻ばせた。 それでようやくルックが怒っていないと理解したのか、セラもまたにこりと笑った。 「あ、ルックさま外!外を見てください!」 今度はセラがルックの髪を拭いているとき、突然セラは窓を指した。 窓の外は相変わらず雨が降っていたが、しかし一筋だけ雲の切れ間から光がさしていた。 「もうすぐ晴れますよ、ルックさま!」 彼女の指した先にある空はいまだ灰色だ。 ふと、ルックはこの瞬間を知っているような気がした。ずっと昔、セラと出会うよりも何年も前のこと――確かに記憶にある瞬間なのだが、しかしやはりそれが何だったのかは思い出せない。どこで、誰と、何を――? 悩むよりもさきに、ルックの口が動いた。 「雨もいつかは止むからね」 それは記憶の片隅にある、大切な人の大切な言葉で。 『雨が降っても大丈夫ですよ、ルック。 雨とはいつか止むものです』 ルックがそれを思い出すことは、最後まで一度もなかったのだが。 セラはそうですね、と笑った。 夢はいつか覚めるし、雨もいつか止む。その事実だけで、ルックはまだ自分は大丈夫なのだと思った。 まだ、しばらくは。 END
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