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目を閉じるのが嫌だった。もし閉じてしまえば、襲ってくる睡魔に抗う方法はなくなってしまう。眠ってしまえば窓からさしこむ月の光は見えなくなるが、その代わりに夢を見てしまうという絶対の確信が彼にはあった。その夢だけは、今は見たくない。
しかしどうにも言うことを聞かない身体は燃えるような熱をともなって、まぶたに重力をかける。 ――人間でもないくせに! 下唇を噛みながら、嘆いてもどうしようもないことを思う。そんな自分にますます腹を立てながらも、声にならない声で、ちくしょう、と珍しくも口汚い言葉を吐いた。 最初は、一般的にいうただの風邪だったはずなのだ。それに気づかないふりをしていたら、いつの間にかこんな症状になってしまった。世界が自分の頭の中だけに存在し、それがぐるぐるとバカみたいに回り続けているかのような感覚に陥り、それから鈍器で殴られたようにこめかみが痛み出すのに時間はかからなかった。身体は火を吹くように熱いのに、極寒の地にさらされているかのように寒い。どれだけ水分を欲しても喉が潤うことはなくて、それは意識とは関係なく目のふちから流れ出る熱湯のせいだと彼は思った。その上、全身にべたべたと張り付く汗の感覚が不快感を増長させ、それがよりいっそう身体の自由を奪っていった。 体調が悪いときは紋章の力もまた不安定になる。制御しきれずに暴走するということはまずないが、思う通りに風を動かせないという点では、どちらも役に立たないには違いない。彼にとっては舌打ちのひとつもしたくなるのは当然だった。そういうときに限って夢をみる。最悪なことに自分が弱れば弱るほどそれは鮮明に頭の中に映し出され、目を覚ました後も生々しいほどの記憶が残るのだ。 ――人間でもないくせに! 詮無いことをふたたび思い、彼は喉の奥で鳴っているひゅうひゅうという音を他人事のように聞いた。 人間でもないくせに、なぜ人間と同じ病にかかる。 人間でもないくせに、なぜ人間と同じ苦しみをあじわう。 人間でもないくせに、なぜ夢を見る。 「それは貴方が失敗作だからだ」 彼はぞくりとして目を見開いた。 この部屋には誰もいない。一瞬だけ頭の中で響いた声ともつかない声が全身を粟立たせる。息を殺してゆっくりと右腕を持ち上げた。熱のせいで痛む関節がぎしぎしと鳴ったような気がしたが、彼の耳には何の音も届かなかった。目の高さまであげた震える右手の、甲を見る。そこにはこの世に二つとない風の印がいつもと変わらず存在していた。 ばかみたいだ。 つめていた息をすべて吐き出し、彼はぐたりと腕をおろした。部屋の中にはひゅうひゅうと喉の奥から聞こえる音だけが響く。相変わらず他人事のように聞こえる音だったが、それはやけに現実感をともなっていた。 「――ばかみたいだ」 彼は自嘲し、観念したように目を閉じた。寝ても覚めてもあの声が聞こえるのではどうしようもない。それなら深い眠りという身体の欲求に大人しくしたがった方が楽ではないか。 ちくしょう、とらしくもない言葉をもう一度だけ口内で呟いたときだった。 「ルックさま」 目を開けて首だけを動かすと、いつの間にか開いていた扉からセラがひょっこりを顔を出していた。 「ルックさま」 眉を寄せる表情で、ああこの娘は自分のことを心配して来てくれたのだと気づく。風邪が移っては良くないと師が半ば強引に部屋から連れ出したはずだったが、こっそり抜け出してきたのだろう。 「ルックさま」 自分の名を呼ぶその声は、明らかに震えている。放っておけばそのうち泣き出すに違いない。彼は鉛のように重くなった手で、ゆっくりとセラを手招いた。 「ルックさま」 「僕は大丈夫だから、セラ」 部屋へ戻れと目で訴えても、セラの蒼い瞳はそれを了承しない。寝台のそばにある椅子に足をかけ、ちいさな手で彼の頬にぺたりと触る。そのひんやりとした感触が心地よくて、彼はほぅと息を吐いた。 「ルックさま」 頬の次はひたい、そして手、とセラは冷たくちいさな手で彼に触れる。しだいにルックさま、ルックさまと何度も名を呼ぶその声すらも心地よくなってきて、彼はうとうとと目を閉じた。最後に感じたのはまぶたの上に乗せられた温かい手の感触で、身体は冷たさを欲しているのに、なぜかそれはとても気持ちが良かった。 今なら眠っても夢は見ないだろう。彼はそう確信して、意識を手放した。 ふと目が覚めると、まっさきに飛び込んできたのは真っ赤な夕日だった。一体どれだけの時間を自分は寝ていたのだろうか。目を閉じたのは確か月の光がさしこんでいた時間帯だったから、というところまで考えて、ルックはようやく何かが違うことに気づいた。 (あ、れ――…) 自分は確かに寝ていたのだろうが、そこは自室ではなく、ましてや寝台の上ではなく、背中を大木にあずけて緑の草原の上に足を放り出していた。 「ルック様」 肩の辺りから声がして、ゆっくりとそちらに振り向く。 「ルック様、起きられましたか?」 少しだけ嬉しそうに笑いを含んだ声は、いつになっても変わることなく心地よい。だがその姿は幼い少女のものではなく、すでに女性と呼んでも遜色のないほどの娘のものだ。ルックと同じように大木に背中をあずけて彼の肩口に寄り添うように座るセラは、まだ思考が定まらないルックの表情を見て小首をかしげるように微笑んだ。 「ルック様」 「………もしかして…僕は、寝てた?」 「はい、とてもよく」 にこりと目を細めたセラにルックは憮然とした表情をする。そして霞がかった頭の中を振り切るように辺りを見渡す。嫌になるほど赤い夕日と、それに染められた草原の向こうに湖が見える。その中心には今はもう誰もいない城が静かにたたずんでおり、その湖がトラン湖だとわかる。 そうだ、確か昼過ぎにセラと遠出をしにここまできて――…というところまで思考が定まると、隣からくすくすと笑い声が聞こえてきた。 「……何がそんなにおかしいの」 「おかしいのではありません。 嬉しいのです」 そしてまた更に笑う。おかしいわけではないと言うが、これでは一方的に笑われているようなものではないか。理由も知らないままに嬉しいと言われても、説得力はまるでない。 「意味がわからないんだけど」 「…言うと、ルック様がお怒りになるかもしれませんから」 「いいよ、怒らないから言って」 「でも」 「セラ」 語調を強めると、セラは諦めたように溜息をついた。 「最近ルック様がお忙しそうにしていらしたので、心配だったのですよ。その、きちんと睡眠を取っていらっしゃるかどうか……」 言葉を濁すセラに、ああなんだ、とルックは思う。 彼は昔から眠ることが嫌いだった。もちろんそれは夢を見るのが嫌だったからなのだが、セラはその理由までは知らず、ただ漠然とルックがそれを嫌う理由には深いものがあるのだろうと思っていた。だからあえて口にすることはなく、もし口にしようものならどうしても萎縮してしまうところがあったのだ。 ルックにしてみれば実はそんなに大したことではなかったのだが、セラのそういう控えめな気づかいが救いであることも彼は自覚していた。ほんの少し居眠りをしただけで、笑みが声となってこぼれるほど嬉しいと思われるとくすぐったくなってくる。確かに忙しさにかまけて睡眠を取らないことは多々あったが、それで彼女に心配をかけているとは思わなかった。 「――僕は大丈夫だから、セラ」 静かに息を吐くように言うと、知っています、と返ってきた。 「ルック様はそういうところが昔からお変わりにならないから」 言いながら、セラの手がルックの頬へと伸ばされる。そのひんやりとした感触を、ルックはどこか懐かしく感じて目を細めた。 「…僕の、どういうところが変わらないって?」 「優しい嘘をおつきになるところ、とか」 「僕は優しくもなければ嘘もつかないよ」 「そういうところもお変わりになりませんね」 また一つくすりと笑う声が聞こえてルックは憮然とする。そして嘆息した。 「…優しいだけならきみの方が上だよ、セラ」 人間でもないくせに彼らと同じ幸福感を感じてしまう。とくに、セラのそばにいるときは。セラはルックの見てしまうものをまだ何も知らない。だからこそ真っ白な手で彼に触れることができる。 「ルック様」 名を呼ばれ、頬をなでるセラの冷たい手にルックは自分の左手をそっと重ねた。 人間でもないくせに、なぜこんなにも温かさを感じるのだろう。 人間でもないくせに、なぜそれを痛みと感じてしまうのだろう。 「それは貴方が失敗作だからだ」 ルックは背筋が凍りつく感触に目を見開いた。セラが驚いたように彼を見る。その目は、どうかしましたかと暗に訊ねている。 ここにはセラしかいない。他の誰も存在しない。 「――いや、なんでもない…」 やはりあいつの声か。ルックは悔しそうに目を伏せ、右手を握り締めた。どこまでいってもこの右手は邪魔をする。 どうにもやるせない思いがルックの中で渦巻いて、それが「ちくしょう」とらしくない言葉となって彼の口からこぼれようとしたとき、しかしそれは一瞬にして消え去った。 「ルック様」 セラの声に目を開ける。まっすぐにそそがれる蒼い視線に、ルックはすべてを見透かされたような気がした。 「セラ――…」 「ルック様」 両手で包みこむようにルックの頬に触れるセラの手は、とても冷たかった。しかし―― 「セラも、昔から変わらないね。 きみの手はいつも温かい」 感じたことと言葉にしたことは矛盾していた。しかしルックにはそれが嘘であるという認識は欠片もなかった。感じて言葉にしたことは、すべて彼の真実だ。両の手でセラのそれに重ねると、くすぐったそうに彼女は笑う。 「ルック様」 彼女の手だけでなく、声にすら心地よさを覚えるのも昔から変わらないことだ。人と呼ばれなくともいい、ただもう少しだけあいつの声を忘れていたい。 ルックは深く息を吐いた。そして、互いのひたいを静かに合わせる。 「僕は大丈夫、大丈夫だから――…」 はい知っています、と返ってくると、ルックのまぶたは自然と下りてきた。そのとき目を閉じるのは、決して嫌ではなかった。 今ならあの声は聞こえないし、夢も見ない。 f i n . ------------------------ 愛しのかえでさんへ(笑) ------------------------ |