わ す れ ゆ き




「こんな所にいたのかい」
 ルックは溜息をついた。姿を見ないと思って探してみると、決して鮮やかな緑色ではない芝生の上に彼女はいた。スカートを広げたまま横になっている彼女の隣に、丁寧にたたまれたショールを置く。
「セラ、風邪をひくよ」
「――平気です」
 彼女は空を見上げていた。ルックの方を見るでもなく、置かれたショールをかけるでもなく、ただ眼前に広がる曇った空を見ていた。
 ルックは黙ってセラの隣に腰掛ける。
「ルック様、もう春だというのに寒いですね」
「…だから風邪をひくって」
「セラは平気です。 …ルック様、雪が」
 それはルックがセラにショールをかけようとしたときだった。頬に冷たい感触があったと同時に、空からひらひらと白い結晶が落ちてきた。
 もう春だというのにというセラの言葉を受けて、ルックはぽつりと呟く。
「雪のはて――…か」
 セラは上体を起こして首を傾げた。暗にそれは何かと訊ねている。
 ルックは彼女の肩にショールをかけると、大きく息を吐いた。それは真綿のようにふわふわと広がってゆき、消えるまでに時間がかかった。それが見えなくなると、ルックはくすりと笑った。
「セラも言ったように、もう春だってのに降ってくる雪のことだよ。冬の名残に降ってくるから忘れ雪って言い方もあるみたいだけど」
 セラはルックの真似をして大きく息を吐き、やはりふわふわと浮かぶ白い綿を見て楽しそうに笑う。そしてかけられたショールを抱き込むように身体に巻きつけ、
「どうせ冬に未練があるのなら、急いで春にならなくとも良いのに」
自分は冬が嫌いではないのだと言った。
 ルックは感情のない顔で空を見上げた。曇り空から舞い落ちる雪は真っ白な結晶なのに、しかし灰色の空よりも濁った異物に見えるのは何故だろう。美しいのは雪の方なのに、しかしこの空から降ってくる物はまるで埃のようだ。
 こんな風に世界を見てしまう自分を滑稽だと思いながらルックは自分の手のひらを見る。
「確かにこの世界は忙しない。 でも止まってしまうよりはマシなんだよ。きっと、ね」
 この身の成長が止まったのはいつの頃だろうか。
 息を吐きながら、ゆっくりと消えてゆくそれを見ながらそんなことを思った。そして、ふとセラの年齢はいくつだったろうかと考える。
 隣に座っている彼女の表情は、あどけなさが残っているものの、紛れもなく女性へと成長する過程にある。
「セラ、きみは今いくつだっけ?」
「十六、です」
 ルックはそうだったねと呟いて、くすりと笑った。
 ――やはり、世界は忙しない。
「この前までは小さな女の子だと思っていたのに、もう僕と肩を並べるほどになってしまった。時間ってのはどうしてこう、流れるのが早いんだか」
「――ルック様」
「ごめん、ただの無いものねだりさ」
 吐く息の向こうで苦笑するのが見えたセラは、何事かを呟こうとして、やめた。そして肩にかけていたショールの片端をルックの背中にまわし、身体をそっと包み込んだ。大きめのショールは二人の身体をすっぽりと隠してもまだ余裕がある。自然と温かくなる空気に、セラはにこりと微笑んだ。
「セラ――?」
「ルック様、不思議だと思いませんか?近くの雪はゆっくりと舞うように見えるのに、遠くの雪は細かく急ぎ足で落ちてくるように見えます」
 確かにそうだった。だんだん多くなる雪を見ていると、まさにセラの言う通りの光景に気づく。しかしそんなことは目の錯覚であり、不思議なことでもなんでもないのだ。ルックはセラが何を言いたいのか分からなかった。
 しかし。

「ルック様のまわりでは時間がゆっくりと動くのですね。 セラはそれがとても好きです」

 とても、とても好きなのですと、よりいっそう白く大きな綿のような息の向こうで、セラは反芻するように呟いた。
 白く曇った空から降る濁った雪は、何故かそのときだけは白い空間にそそぐ白い光のように、ルックには見えた。そしてその中にいるのが、何よりも白いセラ。白い中に紛れてしまう白さに、一瞬彼女を消し去ってしまうかのような感覚を覚える。
 ルックは思わずセラの手をつかんだ。
「…冷たくなってる」
「はい。 かなりの時間、外にいましたので…」
 セラは急に手を握られたことに少しだけ驚いたのか、白皙の頬に珍しく朱が走っていた。ルックにはそれが現実感の表れに思えて、少なからず安堵した。
 ――セラはここにいる。
「僕といたんじゃ、さらに長時間いてしまうことになるね」
「…?」
 首を傾げる仕草が可愛らしい。
 どれだけ時間が過ぎても、セラはセラだ。昔から何も変わらないその仕草に微笑ましさを感じて、ルックはくすりと笑った。

「僕のまわりはゆっくり時間が進むんだろう? 本当に風邪をひいてしまう前に、戻ろう、セラ」

 ゆっくり、ゆっくりと。
 セラは立ち上がったルックに差し出された手を当然のように握り返した。それは初めて出会ったときから何一つとして変わらない約束のようなもの。
 一つのショールにくるまったままの二人は、どちらからともなく微笑み合うと、その下で手を繋ぎ合わせて雪の中を歩き始めた。
 進まなくなってしまった自らの時間も、実はゆっくりと動いているのかもしれない。例えば感情とか、見える世界とか、そういったものが自分の中で絶えず成長し続ける。ルックはそんなことを思い、セラもそう思ってくれているといいと願った。
 セラの冷たい手は、いつの間にか手放せないほど温かくなっていた。

 途中、ルックはふとセラに訊ねた。
「セラはどうして冬が嫌いじゃないの」
 春になるのに急ぐことはないといったセラの言葉を思い出したのだ。ルックは決して冬を好きにはならなかったが、そのセラの言葉はとても気になった。
 しかし彼女の答えは嬉しそうな、そしてどこか恥ずかしそうに微笑みを浮かべながらのたった一言だけ。
「ルック様の手が温かいからです」
 答えになっていないよ、と首を傾げるルックに、セラは珍しく声をあげて笑うだけで何も答えなかった。


 春はそこまできているけれど、
 時間はゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、まだまだ――







 END






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