若 さ の 教 訓 。




「ふ…ふ、ふ、ふえっっくしゅ!」
 普段の生真面目さからは想像もできない可愛らしいくしゃみを聞いて、バスクは呆れたように肩をすくめる。すでに何度目か数えるのも馬鹿らしくなったくしゃみがもう一度聞こえそうになったとき、盛大な溜息とともに言った。
「お前はもう少し頭の良い男だと思っていたのだがな」
「ふえっ……は、はい、なんでしょうかバスク殿?」
 バスクの声は都合良くくしゃみを止めてくれたらしい。ずず、と鼻をすすりながらヘルムートは背を正した。
 濡れた髪はまだ完全に乾いておらず、くしゃみの原因がそこにあるのは明白なのだが、その裏には真面目なヘルムートが皇家直系の嫡男兼同期の友人に呼び出されて断るはずがなく、乾かす間も無く飛び出してきたという事実があったりする。
 バスクはそれを知っていて最初こそしたり顔で笑ったものだが、止まらないヘルムートのくしゃみを聞くにつれ、だんだん面白くない気分に陥っていた。なんといってもヘルムートがくしゃみをするたびに通りすがる女性が振り返ってゆくのが癪に障る。別に振り返るだけなら問題はないのだ。頬を染めながら何語かを呟いてゆくことに腹が立つのだ。何を言っているのかと口元を窺がってみれば「かわいい」ときた。健全な男子であれば嫌味の一つどころか二つも三つもぶつけてやりたいところだが、バスクは自分がそのような小者ではないと自負しているので、そこはあえて口に出さなかった。全て表情に出ている――何故かヘルムートだけは気づかない――ので全て無駄ではあったが。
 さて、バスクがヘルムートを呼び出したのは、別に濡れた髪のまま走ってくる彼をせせら笑いたかったからではなかった。そのヘルムートの髪を濡らした事件こそに理由があった。
「お前、訓練の際に海に落ちた者を助けたらしいな」
「――? はい、それが何か」
 いつになく厳しい口調で詰め寄る友人に、ヘルムートは首を傾げた。なにせいつものバスクときたら会話のほとんどは自分のことばかりだ。他人に無関心なわけではない――それどころか大いに人の目を気にする――ので、ただ単に自分第一な性格だからだろう。他人の噂話をするくらいなら自分の自慢話をするのが好き、それがバスクという男だった。
 ヘルムートはその性格をよく心得ており、しかしそこが嫌だと思うことは一度もなかった。世の中にはいろいろな人間がいるものだ、自分に無いものを持つのはむしろ羨ましい限りだ、といった賢くも謙虚な思い込みのせいである。この二人が友人という良好関係を築いてこれたのは、一重にヘルムートの生真面目さとその思い込み、何より旺盛な好奇心のおかげに他ならない。勤勉なヘルムートは新しい知識を得るのが好きだ。珍しいものには興味を示す。だから、バスクとはウマが合うのである。端的に言えば、バスクが珍獣的な存在というだけなのだが。
「それが何か、とは! 相変わらずお前は国政を理解しないのだな。お前が助けた者は市民階級の者、すなわち永久的に皇王派にはなれない人物だぞ。いずれ敵対するかもしれぬ人間に、よくもまあ情をかけられたものだ」
 いぶかしげなヘルムートの表情にはまったく気づかず、バスクは仰々しく身振り手振りで演出をしながら早口でまくし立てる。
「更に言わせてもらうが、何故俺はこの事実を部外者しかも女子を通して聞かねばならんのだ!」
 おそらく部外者の女子というなら彼の家の侍女あたりだろう。ヘルムートはバスクと関係のある女性を、彼の姉君と使用人以外に一人も知らなかった。
「それはバスク殿が頭痛と腹痛と腰痛を同時に訴えて訓練を欠席なさったからでしょう」
「問題はそこではない! 何故校外の、しかも女子が知っているのか、そこが何よりも重要な問題なのだ!」
 国政云々を語ったかと思えば、そこが本音か。
 ヘルムートにしてみればそんなのはこっちが聞きたいと思うことだ。確かに長々と教官の説教を受けたときは自分の行動の軽率さに少しだけ疑問もあったし、バスクの言うとおり助けた相手は将来的に皇王派になりえる人物ではなかった。だがヘルムートの信念にはどれも関係するものではなく、結局後悔の一つもしていないのだからそれで良しとするべきではないだろうか。何も大袈裟に騒ぐことではあるまい、とヘルムートは思った。
「――私は大したことをしたとは思っておりませんが」
「それだ!お前のそんなところが、この結果なのだ!」
 それだ、と怒鳴られても何がそれなのかまったく理解できないヘルムートは首を傾げるしかない。謙虚さが彼の人気の秘密なのだが、ヘルムートがそれに気づくことはない。なぜなら謙虚な彼には自分に人気があるなどという考えが最初から存在しないからである。
 バスクはそれが面白くない。もっともその事実をヘルムートが自覚したならば、それはまたそれで面白くない展開になるのは目に見えているのだが。
「お前は本当に頭の悪い男だ。もっと思慮を持って行動しろ」
「…それはもっと国政を学べということですか」
「それもある。それもある――が、とりあえずそんなに(女子の間で)騒がれることはするなという意味だ」
 大袈裟に首を振りながら、バスクは諭すように語る。一方ヘルムートは理解したようなそうでないような複雑な表情で、とりあえずわかりました、と頷いた。騒がせるつもりは全くなかったが、実際騒がれているのなら仕方ない。今度から気をつければ良いのだから。賢明なヘルムートはそれらを念頭に置く。しかし、どうにも納得のいかないこともある。
「ですが、バスク殿。いくら我が国には派閥が存在しているとはいえ、それを生命の秤にするのはどうでしょうか。いずれは皇王派に属さないとしても同じクールークの徒であることは間違いなく、ましてや敵対するなどと皇族のあなたがそれを口にしては」
 バスクは能弁に語り始めたヘルムートを見て内心舌打ちした。この男は何度諭しても国政の現状に理解を示そうとしない。自らが皇王派であるにもかからず、今回の件のように将来的に長老派になる者――もっとも国政に携わる役まで登りつめればの話だが――にも情を割く。皇王派と長老派がどんな状況にあるのかを知っていてあえて理解しない頑固さは、賢くも懸命な友人の持つ厄介な部分の顔なのだ。
 ヘルムートの信念、愛国心は皇族のバスクに劣ることなく、常に揺らぐことなく真っ直ぐに貫かれている。バスクはそれを羨ましく思いながらもそれが自慢の友人なのだと誇りに感じるときもあり、または面倒なことだと呆れることもあるのだが、今回は後者の方だったようだ。
「――というわけです。ですから、いずれ皇王派の要となられるあなたならば」
「わーっ もうわかった、黙れ! お前の説教は聞き飽きた!」
 いつの間にか立場が逆転して説教を受け続けるのは納得のいかないバスクであった。そもそもヘルムートに渇を入れようと思ったのは自分ではないか。それが何故、逆になるのだ。バスクは精一杯胸を張ってできるだけ虚勢を張って言う。
「と に か く ! この話はこれで終わりだ。まったく、お前と話していてこの話題になるとろくなことがない」
「そもそも話を振ってきたのはバスク殿の方ですが…」
「ええい黙れ! そこを考慮するのがお前の役目だろう!」
 むちゃくちゃなことを言われ、しかしヘルムートは相変わらず面白い方だと思いながら「はぁ」と曖昧な返事をした。結局何のために呼び出されたのかわからないが、とにかく呼び出した本人がこれで終わりだと言うのだから、もういいのだろう。まだぶつぶつと不満らしい言葉を呟いているが、なに、放っておいても大したことにはなるまい。それは友人としての経験から悟ったことだ。
 それはヘルムートがその結論に達し、そろそろこの場を去ろうとしたとき。
「それではバスク殿。 他に用件がないのならこれで失礼…っくちゅ!」
 忘れかけていたくしゃみが、不意打ちで飛び出した。
 ちょうど通りかかった二人と同じくらいの年齢の娘が二人、ちらりと振り返った。そして先ほどまでバスクが嫌というほど見てきた光景とまったく同じ光景が繰り広げられたことは、誰の想像にも難くないだろう。ましてや不意打ちのくしゃみはいつもよりも更に可愛らしかった。
「ヘルムート…お前という奴は……っ!」
 しっかりとその光景を目撃したバスクは、鼻をずずっとすすったヘルムートの肩を掴んで青筋を立てた。
「俺はもっと思慮を持って行動しろと言ったばかりだぞ!それをお前は……ぶ、ぶいーっくしゅ!」

 ―――早い話がすべてはバスクのつまらない嫉妬なのだ。それはバスクの生来の性格であるから仕方ないし、ましてや女性に人気のあるヘルムートが悪いわけではない。誰も悪くないのだ。だから、バスクがたまたま盛大なくしゃみをしたときに綺麗どころのお嬢さんたちが通りかかったのも、誰のせいというわけでもない。強いて言うなら運がなかった、それだけだ。
「ちょっと、今の見たぁ?」
「きたなーい」
 そんな声がバスクの耳に入ってくるのも、決して誰のせいでもない。その娘達だって、思ったことを素直に口にしただけなのだ。だからバスクはこの場合とても運がない可哀相な人なのだろうが、しかし、勝手に打ちひしがれるバスクを心配し、結局その場を去るどころか彼を屋敷まで送り届けるはめになったヘルムートの方が、もっと運が悪かったのかもしれない。

 くしゃみをする時は、周囲を気にしろという教訓。



 E N D ?





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…書かなきゃわからないと思うので書いちゃう。
この話では二人とも十五歳設定ですから。
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