その時、二人はまだ子供だった。
 恋とか愛とか、その言葉を知っていてもまだ意味を理解するほど大人ではなかった。




セイクリッド・スクライブス


 物心つく頃にはすでに一緒にいたと思う。それより数年の後も二人の距離は変わらず、隣にはずっとその存在があった。
 記憶にある当時の彼女は声を出して笑うことがあまりなかった。笑うだけでなく怒ったり泣いたりといった、人間の子供にある感情の起伏そのものが非常に緩やかだった。それは決して異質なことではなく、彼女がスクライブで、スクライブとはそういう種族であるというだけのことだ。むしろ笑って泣いて騒ぐ自分こそが異質である――リウは子供ながらにそれを自覚していた。
 だからどうして自分が彼女と一緒にいるのか、彼女が自分と一緒にいるのか不思議だった。だからといってその答えを知りたかったわけではない。物心つく頃にはもう一緒にいたという事実が全てであり、そしてそれは二人にとって呼吸をするのと同じくらい当然のことだったからだ。
「レン・リイン、これやるよ」
 樹海の奥に隠れるように棲家を設けたスクライブは、独自の結界を張ってまで外界とのつながりを絶った。しかしそれは外から内側を隠すだけで、その逆については意味を成さない。集落からそう遠くない距離であれば樹海の中を散策することは容易にできたのだ。
 その日リウが彼女に見せたのは、そうして樹海の中で見つけた物だった。
「きれい……これ、なあに?」
「たぶん、貝殻だとおもう。こないだ本で見ただろー?樹海を南にぬけるとポーパス族が住んでるナイネニスってところがあるらしーし、きっとそこのやつらが落としていったんだよ」
 実際はポーパス族が樹海に入ることはないのだろうが、ナイネニスに出入りしている交易商が迷い込むことはあったのかもしれない。しかし幼いリウとレン・リインにとってそこは重要ではなく、今ふたりの視線を釘付けにしているのはリウが手渡した薄桃色の貝殻だった。
「これよりもずっとずっと、ずーっとデカイ貝のなかにポーパスたちは住んでるんだぜ。すっごいよなー」
 ぐるぐると螺旋状の形をしたその貝殻は、レン・リインの手の中で木々の隙間からこぼれる光を反射して白く輝く。
「これをわたしに?」
「うん!」
 その初めて見るきれいな物とどこか得意げな顔のリウを交互に見て、やがてレン・リインは僅かに目元を和らげた。
「――…ありがとう、リウ・シエン」
 リウはこの少女が何気ないときに垣間見せるちいさな感情の揺れをとても尊いものだと感じていた。手の中にある貝殻をゆっくりと撫でて壊さないようにそうっと両手で包み込む、その一連のしぐさも宝物のように思える。胸が温かくなってついスクライブらしかぬ笑みがこぼれてしまう。当然、その感情がただの嬉しさではなく愛しさと呼ぶものなのだとは、まだ理解できない。
「オレ、ホンモノのナイネニスを見てみたいんだよなー。もちろん掟やぶりだから、こっそりとさ」
「わたしもいっしょに行っていい?」
「掟やぶりだって言っただろー。だからおまえはダメ」
「………うん」
 樹海を出るということがどれほど難しいか、どんな子供でもスクライブであるならば知っていた。それが何を意味するかも知っていた。実際に見たことはないが、赤い線刻を施されて追放された者だっているのだ。しかしこのときリウの意志は本物であり、そしてレン・リインを連れて行かないと言ったのも本気だった。おそらく樹海を出てしまえばもう戻ってくることはできないだろう。この少女をそれに巻き込むことはきっと怖くてできない。その恐怖の正体を知るには、まだリウは幼すぎたが。
 けれどそれはもっと大人になってからの話であり、なにも今すぐのことではない。リウ自身もその願望を口にしながら具体的なことはまったく考えていなかった。何よりもこの少女と離れてしまうことを、自身もまったく想像できなかったのだ。――ひとは呼吸をしなくては生きていけないから。
 いずれにせよ、レン・リインは本気にしないだろう。ちいさく頷いた彼女の表情はいつもと何も変わらなかった。そこには喜びも悲しみも怒りも見つからない。少なくとも、リウにはそう思えた。

 それが間違いだと知ったのは、数日後のことだった。
「なあ、まださがすのー?」
 青白い顔でレン・リインが貝殻をなくしてしまったと言ってきた。話を聞けば、あの日からずっと持ち歩いていたらしい。きっと遊んでいるうちに落としたのかもしれない、と更に顔を青くした。
 確かにきれいで珍しい物だったし、それをあげたリウも少なからず惜しいと思ったが、それでもそんなに執着する代物ではないはずだ。だからこうして朝から休まず探す彼女の姿には逆に申し訳なさを覚えてしまう。木々の間から降ってくるあかい陽の光は、もうすでに夕刻を知らせていた。
「もーあきらめろよ。また見つけてやるからさー」
「だって!」
 レン・リインの珍しく張り上げた声にリウはびくりと身体を引いた。そしてそのこれまで見たこともない表情に驚く。
 僅かに微笑む程度にしか感情を表に出さない少女が、おおきな瞳いっぱいに雫をためて、悔しそうにくちびるをふるわせていた。
「わたしもリウ・シエンと同じものを見ていたいんだもの!あなたがホンモノを見ているあいだ、わたしはせめてあなたがくれた貝殻を見ていたい」
「レン……」
「本当はずっとリウ・シエンといっしょにいたいけど、でも……」
 その後は言葉にならず、とうとう緑の瞳から涙がひとつふたつとこぼれた。二粒のおおきな雫はレン・リインの白い頬をつたって落ちてゆく。それは一瞬のことなのに、リウにはとてもゆっくりに思えた。そしてその間に頭の中にいろいろなことが巡った。
 レン・リインが泣いた。感情をむき出しにして、泣いた。いつかナイネニスを見に行くと言った話を信じたのだろう。ということは、あの日からずっとこの感情を押し込めていたということだろうか。
 いつも二人が一緒にいたのは呼吸をするのと同じくらい当然のことで、特にそれには理由などないはずだった。けれど実はそこにはあまりにも当然すぎて見落としてしまうほどの理由があったのだ。ただ一緒にいたいというだけの理由が。それは今まで見せたことのない涙をこぼすほど、彼女の感情を大きく揺り動かした。
 スクライブらしかぬ今のレン・リインの姿は、間違いなく自分に原因があるのだ。レン・リインの感情を動かしたのは自分だ。
「――どうしてリウ・シエンまで泣くの」
「だ、だっておまえが泣くから!」
「? 意味がわからないわ」
 自然と涙が出てきた。
 大切な幼馴染を泣かせてしまったという自責の念からか、彼女の涙を初めて見たという驚きからか、または胸の奥からわきあがってくるどこか誇らしげな想いからか――その涙の理由は今のリウにはまったく見当もつかない。ただレン・リインの涙の原因が自分にあるのだとしたら、自分の涙の原因も彼女にあるのだろう。
「オレだっておまえとおなじなんだよ。本当は一緒に……」
 その時がきたら一緒に行きたい。レン・リインとずっと一緒にいたいから。けれどそれらの言葉を続けて口にするのはやっぱり怖くてできなかった。背中を押してくれるようなものもなかった。悔しいことに言葉の代わりに涙だけは止まらない。不思議そうに見てくるレン・リインを直視できなくて、リウは大きく鼻をすすって俯いた。
 そこで、見つけたのだ。
「……レンの涙が落ちてる」
「え?」
「いやいや、それはねーよな」
 それは俯いたリウの下げた視線の先、レン・リインの足元に落ちていた。
 ナイネニスの貝殻ほど珍しいものでもないのに思わず目をとめてしまったのは、言葉のとおりレン・リインの落とした涙だと思ってしまったからだった。
「なんだ、ただの石か……」
 リウが拾い上げたのはどこにでもあるような何の変哲もない石。それはどこかレン・リインの瞳を思わせる緑のいろをしていて、落ちていた位置といい、先ほどこぼれ落ちた彼女の涙の結晶かもしれないと本気で考えた。
 そんなことは有り得ないと頭で理解しても、しかし本当に今までそこに落ちていただろうかとも思えたのだ。気づかなかった、気にもとめなかった、そう言ってしまえばそれまでだ。けれど本当にレン・リインの涙だったら――?実際手にした石は神秘的なものではなかったのだが、彼女の涙ならばこれは彼女の感情、想いそのものだということだ。
 ぎゅっと握りしめた。それは薄暗い樹海にあって何故かひとの体温のように温かい。間違いなくこれはレン・リインの想いだとリウは思った。
 それと同時、レン・リインも「あ」とちいさく声を上げて何かを拾い上げた。
「これ、リウ・シエンのとおなじものかしら」
 見せてくれたのは緑の石。ただの緑ではなく、やはり彼女の瞳を思わせる緑だった。リウは自分の拾った石とそれを見比べてから辺りを見渡した。レン・リインの足元に落ちていたそれらはほぼ同じかたちをしていて、そして他にはもう見当たらなかった。レン・リインの落とした涙はふたつ、そして拾った石もふたつ。リウの考えのとおりならば、これは世界にたったふたつだけの石ということだ。
「……レン・リイン、これ貝殻のかわりにしよーよ」
「かわり?」
「うん。この石、オレたちしか持ってないとおもうんだ。オレとおまえだけの石だよ」
「わたしたちだけの石……」
「これを見てるとき、オレたちはおなじものを見てるってことだ」
 言い終わったとき、情けないことにリウの目からまた涙が落ちた。当然それは結晶になることはなく、地面に吸い込まれていった。それでもリウは構わなかった。手にある想いはどうせ同じなのだ。
 レン・リインはその様子をきょとんとしながら眺めて、ややあってから自分の石を差し出してきた。
「ねえリウ・シエン、わたしの石ととりかえっこしてほしいの」
「へ? べつにいーけど……」
 頷きながらレン・リインに石を渡す。そしてそれと交換に彼女が拾った石を受け取った。
「リウ・シエン」
「ん?」
「これでいつもいっしょね。 ずっと、ずーっといっしょね」
 リウの石を胸元で愛しそうにぎゅっと握り締め、それと同じいろの瞳を再び潤ませながらレン・リインは笑った。その泣きそうな笑顔は胸の奥に強烈に焼きついて、その後リウにとって生涯忘れられないものとなる。彼女の潤んだ瞳から雫がこぼれ落ちることはなく、その強さといじらしさは子供ながらにきれいで毅然としていた。このとき以降、彼女の感情がよく表に出るようになったのだが、それはまた別の話だ。
 リウはレン・リインの石を握り締めながら、ぐい、と涙を拭った。
「うん。オレたち、ずっといっしょだ」
「わたしが困っているときも」
「オレが長老におこられてるときも」
「あなたが泣いているときも?」
「も、もう泣かねーよ!……えっと、おまえが笑ってるときも」
 これ以上は言葉にしなかったが、ふたりの胸には同じ約束が生まれていた。

 ――――離れていても、ずっとずっと一緒に。




 その時、二人はまだ子供だった。恋とか愛とか、その言葉を知っていてもまだ意味を理解するほど大人ではなかった。純粋に「ずっと一緒」というだけのことがどれほど簡単で、いかに難しいかを身を持って知ったのはこの数年後だった。リウが樹海を出るときにこの石がどれほどのお守りになったか、レン・リインが彼は戻らないと知りながらも石を捨てられなかった意味を、互いが知ることはない。
 けれどその約束の証を持ち続けた二人が再会した頃には、恋も愛も大切に育てることができる年齢になっていて。今、こうしてリウが空を眺めているこの城のどこかで、大切な幼馴染はていねいに皺を伸ばした洗濯物をきれいに畳んでいることだろう。
「リウ、決めたんだから男らしく言ってこいって!」
「簡単にゆーなよー」
 情けなくため息をついたリウは、親友たちを軽く睨みつけた。
「相変わらずヘタレね。あとは実行に移すだけじゃない」
「や、そーなんですけどね」
「……もしかしてまだ悩んでいることでもあるのか?」
 痛いところを突かれて言葉に詰まった。悩んでいるわけではない。ただ迷っていることが一つだけあったのだ。
「広い世界を夢見て樹海を出たのに、結局あいつを選ぶのは視野が狭いってことなのかなーって、さ」
 今更といえば今更なのだが、かつて自分が何よりも優先したことを自分で否定しているような気がしてならなかった。それを迷いと呼ぶのは自己中心的な考えだが、これはもうどうしようもない。マリカの言うとおりいまだヘタレ脱却ができていない自分にため息が出てきた。
 だが、それを明快に否定してくれるのが、リウが樹海を出てから得た大切な親友たちなのだ。
「お前バッカだなー。たくさんの選択肢の中からそれでも選んじまうくらいレン・リインの存在がデカイってことだろ?リウが選んだなら、その道は絶対間違ってねえよ」
 その自信は一体どこからくるのか、クレインはさも当然だと云わんばかりの顔をしている。ジェイルとマリカも大きく頷いた。
「クレインの言うとおりだ。お前が選んだのはきっと正しい」
「そうよ。ほら、リウ!」
 三人からばしっと音がするほど強く背中を叩かれたリウは、「いってぇ!」とその勢いのまま立ち上がった。涙目にはなっているが、しかし表情はどこか清々しい。
「おまえらほんっと容赦ねーな……」
 振り返って親友たちを見れば、悪戯を成功させたような顔をしていた。それでもそこにからかいや戯れの意味が欠片もないことくらい、リウには良く分かっていた。
 深呼吸をして「よし!」となけなしの気合を入れた。
「三人とも、ありがとな! オレ行ってくる!」

 ダメだったら慰めろよ!と捨て台詞を残しながら部屋を飛び出したリウの手の中には、もちろん緑の石がある。レン・リインの想いだと信じてきたそれには約束が刻まれているのだ。
 ずっと一緒だというそれを、今度こそ一生かけて守り続けたい。
「レン・リイン!」
 名を呼び、振り返った彼女が笑うと胸が温かくなった。

 それが嬉しさではなく愛しさなのだと、リウはもう怖いくらいに知っていた。





 E N D





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リウのプロポーズに走るまでを「緑の石」で書いてみました。
当サイトでの緑の石にはこんなエピソードがありますということで。
ちなみにこれの続きがお題の五番目「あの日の約束を今」になります。
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 おまけで雰囲気ぶち壊しの親友たち。
「リウ、上手くやるといいな」
「大丈夫でしょ。リウをお婿さんに貰ってくれる物好きなんてレン・リインしかいないわよ」
「あれ、リウが婿に入るのか?レン・リインを嫁さんにするんじゃなくて?」
「え、違うの?」
「……違和感がないならどっちでもいいんじゃないか」
「それもそうか」





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