両手を広げた大人が十人で囲んでもまだ届かないほど大樹。しとしとと降りそそぐ雨を受けてまだ枝を伸ばすそれは結界も手伝って見事に集落の存在を隠していた。
その大樹の根と根の間にできた空洞の中に人影を見つけ、リウはほっとしたように息を吐いて駆け寄った。 「見ーつけたっと!」 「きゃっ」 空洞の中から小さな悲鳴をあげた少女がリウを見上げてくる。驚きで見開かれた大きな瞳には涙がたまっており、すぐに一筋零れ落ちた。 「レン・リイン……やっぱ泣いてたか……」 「だ、だって、暗くなってくるし雨も降ってくるし」 「はいはい、分かってるよ。とりあえずオレもそん中に入れて。この雨まだ止みそーもねーし、オレも冷てーしさ」 小さく見える空洞は意外と広く、子供二人なら余裕で入れる程だった。レン・リインが少し横に詰めるとリウもすんなりとその中に収まった。そして腰を下ろすと同時、レン・リインが飛びついてきた。 「わっばか!しがみつくなよ、おまえまで濡れんぞ」 「だ、だって怖かったんだもの!」 「おっまえなー、オレだってこんな暗い中探しに来んの怖かったんだぞ」 いくら生まれた時から樹海に囲まれた生活をしているといっても暗い森は怖い。わずかにしか差さない陽の光や月灯りすら失われてしまえば、その暗闇は子供に充分すぎるほどの恐怖心を与えることになる。結界のため人間をはじめ他種族の者と遭遇することはまず無いが、樹海を棲家とする魔物の数は決して少なくはないのだ。 「ごめんなさい……」 「まーそれは別にいーんだけど」 消え入りそうな声で謝りつつも腕を離さない彼女に、リウは視線を泳がせて「仕方ねーなー」と頬をかいた。 「でも何だってこんな集落のはずれまで一人で来たんだ?」 「ご、ごめんなさい」 「だから謝んなくていーって。なあ、何で?」 今日は朝から天気が良くなく、森で遊ぶのはやめて二人で本を読んでいた。けれどあまりにも夢中になりすぎてしまい、ようやく彼女がいなくなったことに気づいたのは雨音が耳に届くようになってからだった。時間は夕方を過ぎており、集落を囲む木々はすでに暗闇の中に姿を隠していた。 「大人たちが騒ぎ始める前にオレが探しに来て良かったよ。この場所、おそらく大人じゃ見つけらんねーもん」 この空洞はちょうど集落の反対側にできていて、以前二人が偶然見つけた場所だった。広さは子供二人が入れるほどだが、入り口は小さく更に大人の視線には低すぎる位置にあった。大樹の根が作る影が余計にそれを隠し、ましてや雨の降る夜になど見つけられるはずもなかった。 「…………リウ・シエンが見たいって言ったから」 長い沈黙のあと、レン・リインが口を開いた。 「え、オレ?」 「前にあなたが森の外を見てみたいって言ったから。だから、木をのぼれば森の外の世界も眺められるんじゃないかって思ったの」 今日読んだ本に大樹の上から世界を見下ろす絵が載っていたのだと、レン・リインはしょんぼりと肩を落とした。 確かに森の外を見てみたいと願っていた。まだ線刻はないけれど、人間と比べて豊富な知識を持っているのなら、それを持て余すようなことはしたくなかった。むしろそれを是として生きているスクライブという存在そのものに疑問すら感じてもいた。 けれどそれを口にするのはこの集落で暮らす上で必ずしも賢いことではなくて。だからこそ彼女にだけ打ち明けたのだったが。 「……そ、それなら一人で来るんじゃなくてオレも誘ってくれれば良かったのに」 少しだけ拗ねた口調になったのは、気恥ずかしさを隠すため。スクライブへの疑問を話したとき、レン・リインは少しだけ悲しそうな顔をした。だからこの話題のことはもう忘れていると思っていたのだ。まさか自分のために一人で行動するとは考えもしなかった。 「もし森の外を見ることができなかったら残念がると思って。だから私が先に確かめておきたかったの」 「レン・リイン……」 「でもやっぱりこの木は大きくて私ではのぼりきれなくて。途中で雨も降ってきてしまったし……だから、ごめんなさい」 レン・リインはますます俯いてしまい、リウはどう声をかけて良いのかわからなかった。その代わり不思議とくすぐったい感覚が沸き起こる。それは彼女がしがみついている腕の辺りでもなく、また濡れた髪から落ちた雫が伝う頬の辺りでもなく、誰も届くことのできない胸の奥を優しく撫でてもらっているかのような感覚。何故か自然と口元が緩んでしまう。 「……おまえ、ホントにばかだな」 ぽつりと出てきたのは言葉とは裏腹に笑いを噛み殺したような声で。ようやく顔を上げたレン・リインと目が合うと、リウはにやりと笑ってみせた。 「オレのためだって言うなら尚更だよ。一人で木なんてのぼって、怪我でもしたらどーすんだ」 「だって……」 「おまえがこんな危ないことする必要はねーよ。それに……」 外の世界を見てみたいとは言ったが、それはこの地で生きている限り無理だろうということをリウは知っている。おそらくこの大樹の一番高いところへ辿り着いたとしても、そこから見る世界は決して自分が満足できるものではないはずだ。 「リウ・シエン?」 「んー……ま、これはいっか」 怪訝そうに首を傾げる彼女には曖昧に笑って誤魔化す。 今すぐは無理でもいつの日か必ずこの目で外の世界を見たい、こんな樹海の奥でこっそり願うばかりではなくこの足で世界を知りたい、リウはそう思っていた。ただその時、隣にレン・リインがいてくれたなら――とまで考えてしまったから、それを口にすることはできなかった。この大切な女の子にそんな無責任な願望を話すほどの勇気はまだない。 「いつかおまえにちゃんと言える日が来ればいーんだけどな」 「……?」 「こっちのこと。とにかく……ありがと、レン・リイン」 空いた手で彼女の頭を軽く小突いた。きょとんとしたのは一瞬だけ、間もなくどちらからともなく笑い始めた。 「――外、完全に真っ暗になっちゃったな」 「そうね、真っ暗ね」 「雨も全然止まねーなー」 「うん、まだ降ってるわね」 そんな当然の会話すらも何故か嬉しい。冷たい雨も嫌だし暗い森も怖いはずなのに、それでも今は温かいし恐怖もまったくない。 ずっと疼いたままのくすぐったい感覚は、リウの中から一向に消え去ることはなかった。 「――で、なんで何年も経ってんのにまた同じことになってるんでしょーか、オレたちは?」 「本当ね」 リウは溜息をつきながら隣でくすくす笑うレン・リインを見た。 「笑いごとじゃねーよ。ったく、あんなに晴れてたのにまさか雨が降ってくるなんて思わなかったよ」 「でもあの時よりも枝が伸びているから、雨宿りにはちょうど良いわ」 「そりゃそーなんだけどさ」 二人が思い出の大樹の場所へやって来たのはつい先ほどのこと。集落に残ったスクライブの様子を見に来たついでに懐かしさに駆られて来たのはいいが、急に天候が変わってしまった。 しかし大樹は見事に枝葉を伸ばしており、その下にいる二人に雨の影響はまったくと言って良いほど無かった。 「……ホント懐かしーな、これ。さすがに入んのはもう無理だけど」 「そのくらい、私たちも成長したということなのね」 かつて二人で入った空洞は当時と変わらぬ大きさで残っていた。リウは腰をかがめて感慨深そうに覗き込んだ。 「結局あん時は朝まで雨が止まなくてずっとここにいたんだよなー」 「集落では大騒ぎになっていて、戻ったら大人たちから散々叱られたわね」 「そーだっけ?そこはあんま覚えてねーな」 「本当は私が悪かったのに、あなたが色々と言い訳を考えて庇ってくれたのよ。だからよく覚えてる」 「ま、ますます覚えてねー……」 思い返せばそんな事もあったような気がするが、あっさり肯定すれば顔を上げられなくなる事態に陥りそうなのでやめておいた。けれどそんなリウの心境をよそに、レン・リインも隣に並んで空洞の中を覗き見た。そしてポツリと一言。 「……今なら分かるわ。あの時リウ・シエンが言いかけたこと」 リウにはそれが何のことかすぐに理解できた。 彼女と一緒に外の世界を見ることができたら――この小さな空洞で願った幼かった自分の願望。今となっては懐かしい思い出の一つだが、それはその願いが叶ったから言えることだ。何かひとつでも違っていれば、今レン・リインが隣にいることはなかっただろう。 「私はラオ・クアン様を尊敬していたし、だからあなたと一緒に樹海を出ることができなくても後悔しなかった。でも、あなたの願いが叶うことが私の願いでもあったのに、私は結局それを自分でなかったことにしてしまったんだわ。この中で雨宿りをしたときの私だったら、きっとそんなことしなかったはずなのに……」 淡々とした口調だが、声は沈んでいる。彼女は後悔しなかったと言ったし、それは事実だろう。けれどきっとそれだけではないはずなのだ。樹海を出るとき、レン・リインは確かにこの手を離したが、自分だって彼女の手を再度掴もうとはしなかったのだ。 「オレもおまえが一緒に来てくれなかったのは……そりゃ残念だったけど、でも樹海を出たことは後悔しなかった。シトロ村でクレイン達と出会って、オレはやっぱり正しかったんだって思ったし。でもさー、」 言いかけて、レン・リインを見る。言葉を切ったリウを不思議に思ったのか、少し首を傾げている。その表情があまりにも昔と変わらないくらいあどけなくて、リウはあの時と同じくすぐったさを感じた。けれどその感情が意味するものを知らないほど子供ではない。 手を伸ばして彼女の肩をそっと抱き寄せた。 「でもさ、オレたちは再会しちゃったじゃん。だったらもうそれを大事にするしかねーだろ?」 大切だった少女とは別れ、おそらくそのまま互いに忘れてしまっても仕方が無いほど歩む道は違えてしまったのに、けれど二人は再び出会い恋をしてしまった。 「あの時お互いが手を離した後に後悔したかどうかなんて、今にしてみればもう意味なんてねーよ。今オレたちが一緒にいられて、きっとこれからもそれは変わらなくて……いや、変わらずにいようって思うことが一番重要なんだと思う」 目線だけでおまえはどうかと問えば、彼女も目を細めて首を縦に振った。 リウが抱いた肩に力を込めると、レン・リインは肩口に頭を預けた。それと同時に両手を身体に回して、ぴったりと寄り添う。 「――この樹の上から見る世界は、きっとあなたの見てきた世界のほんの一部にしかならないのでしょうね」 「なんでそー思った?」 「リウ・シエンという大きさが、スクライブという枠で収まるわけがないから。理解していたつもりだったけど、今、確信したの」 「なんだそれ?意味わかんねー……」 眉をしかめたリウに、レン・リインは苦笑した。 「私にとって、あなたがとても大きな存在だということよ」 幼くてのぼることができなかったこの大樹。当時よりは大人になった今でもおそらく上まで辿り着くことは不可能だろう。けれどそこから見える以上の景色をリウは手に入れ、そして同じものをレン・リインにも見せることができるようになった。 「この大樹なんて比べ物にならないくらい大きな存在だわ」 「……おまえ褒め殺しって言葉知ってるか」 「あら、スクライブは本当のことしか言わないのよ?」 あなたも含めて、と微笑まれてしまえばリウも何も言えない。苦肉の策で出来ることと言えば、レン・リインをぎゅっと抱きしめて「そーかよ」と拗ねたように呟くことだけだった。 しかし二人に流れる空気に気まずさは欠片もなく、かつてこの樹の元で感じた温かさと同じものが包み込む。 「ま、とりあえず雨が止むまでこーしてるか」 枝葉のわずかな隙間から一滴だけ雫が落ちてきたが、嬉しそうに頷いたレン・リインに見とれていたリウがそれに気づくことはなかった。 E N D ============================================================== 二人とも十歳前後〜ED一年後くらいな感じのイメージで。 おまえらずっと一緒にいるならもう結婚しちゃえよ。 ============================================================== |