手を引かれるままに、冷たい石段を上ってゆく。
「…寒い?」
 時おり振り返りながら優しい言葉を降らす彼は、窓から差し込む月明かりでとても幻想的に見える。けれども繋がれた手のひらの温かさはどうにも夢とは思えず、セラはかぶりを振った。
「いいえ」
「――そう」
 ふ、と微かに緩んだ表情にまた少しだけ手のひらの温度が上がる。





ピ ア ニ シ モ




 ルックの気まぐれは今に始まったことではない。行動は本人が司る風そのもののようにつかみどころがなく、言動は理解する前に通りすぎてゆく。しかしそれが不快かといえば、まったくそうではないのだ。彼の風はいつも心地良い。
「起きてるなら、窓を開けて」
 ルックが訪ねてきたのは夜半過ぎだ。セラは温かいお茶で体を温めてから寝台に入ろうとしていた。ハーブと少しのバニラを刻んだものを茶葉の入ったティーポットへ入れて、ハチミツで甘くしたラムに漬けた干し葡萄も二つほど放り入れたときに、彼の声が聞こえた。
 ルックが訪ねてくるのは決して珍しくはない。昼間はもちろんのこと、日も昇らない朝のうちだったり今のようにとっぷりと夜が更けてから扉を叩くことだっ てある。しかし、扉ではなく窓の外からやってくるのは初めてのことで、風を操るルックには宙に浮くなど造作もないことだと知っていても、前振りがなければ 驚くのは当然のことだ。セラはティーポットにふたをするのも忘れて、窓に手をかけた。
「良かった、まだ起きてた」
 少しだけ開けると、ルックはその隙間から猫のようにするりと入ってきた。一緒に入ってきた風は夜気のせいかとても冷たい。セラは一瞬ぶるりと震えたが、ルックがすぐに窓を閉めたので風はすぐに消えた。
「どうかなさいましたか? 外からいらっしゃるなんて珍しい…」
「セラさえ良ければ一緒に見ようと思ってね」
 やはり外は寒いのだろう。ルックの吐く息は真っ白で、おかげで彼の表情が覗えない。しかしセラは何を見るのかと訊ねるよりも先に、とりあえず羽織るものを手に取った。彼女の中には、彼の誘いを断るという選択肢は存在しない。


 塔の石段は夜気に触れて普段よりいっそう冷たくなっていた。
 窓から迎えにきたのだから、外へ出るのだろうということは見当がついていた。だからてっきり空間転移の術を使うのだろうとセラは思っていたのだが、ルックはセラの手を引いて、こうして塔の石段を上がっている。
 石段を上がって外へ出るということは、塔のてっぺんまで上がるということだ。レックナートのいる最上階よりもさらに上までとなると、途方もない数の石段 を踏むことになる。冷えた石は空気をも冷やし、厚手の肩掛けを羽織ってはいるものの、セラの白い息はいっこうに薄まる気配はない。しかし決して多くない窓 から差す月の光はぼんやりと温かかったし、繋がれた手はこの寒さにしては不自然なほど熱っぽい。その温かさが自分のものなのかルックのものなのかセラには わからなかったが、彼が何も言わないのであればそれはどうでも良いことなのだろうと思った。何より寒くないかとか疲れないかと自分を気遣う声が、セラに とっては一番夢心地だったかもしれない。酔って足元が浮いてしまう感覚に囚われないよう、固い石段を踏む足音に耳を澄ませなくてはならなかった。
「――本当はてっとり早く移動しても良かったんだけど」
 ぽつりと呟かれた声に顔をあげる。ルックは振り返りはしなかったが、セラは言葉の続きを待った。階段を上る足も止まらない。
「まだ時間があるっていうのもあったし、それまで部屋で時間を潰すのは嫌だったんだ。きみの部屋は居心地がいいから、きっと眠ってしまう」
「呼んで下されば私がルック様のお部屋に伺いましたのに…」
「あそこは嫌いだ。 声がうるさい」
 ぴしゃりと返され、セラはああ、と気づかれない程度に嘆息した。
 嫌いだといっても、自室なのだから普段はそこにいるのだ。だから、今日はまた夢を見たのだろう。どうあがいてもルック本人にしか見ることのできない悪 夢。それで眠れなくなりセラの部屋を訪れるのはこれまでも度々あったが、おそらく今回はそのついでに何かを見つけたのだ。セラに見せたいと思った何かを。
「…ここは静かですね。風の声も聞こえません」
 二人分の足音しか聞こえない石段を上りながら、セラはちいさな声で言った。ルックは何も言わず、その代わりに手を握る力が少しだけ強くなったような気がした。


 途方もなく長い階段は思ったよりもずっと早く終わりが見えた。レックナートの星見の部屋の前を抜けて最後の細い階段を上りきり、塔のてっぺんへと出る扉を開ける頃には、息切れはせずとも冷えていた身体が充分に温まっていた。
 塔のてっぺんは展望台の造りになってはいる。しかしだからと言って誰かが利用するわけでもないので、都合よく椅子が用意してあるはずはなかった。二人は適当なところに腰を下ろし、セラは促されるままに空を見上げた。
「まだ少し早かったか……」
 見上げた空には月が一つぽっかりと明かりを湛えているだけで、他に見えるものといったらちかちかと瞬く星の光だけだった。満天の星と言うほどではないので、おそらく薄い雲がかかっているのだろう。
「ルック様、一体何が…?」
「一人で見るには冷たすぎるから、どうしてもきみを誘いたかった」
 怪訝そうなセラの問いには答えず、ルックはただ空を見上げて言った。彼の視線の先には何もなく、一体何が冷たいのだろうとセラは首をかしげた。しかしあ えて訊ねても明確な答えが返ってくるわけではないことは見当がついていたし、ここは黙って同じところを見つめていることにした。どうせ答えはすぐにわかる のだろう。
 それから暫くの間、耳が痛くなるような静寂に包まれた。ルックは何も言わなかったし、セラも口を開くことはなかった。石段を踏む音はもう響かないし、月 や星の光には音が存在しない。ただずっと離れることがなかった二人の手はじんとした熱を帯びていて、あえて表現するなら、感じる音はそこから伝わる互いの 鼓動だけだった。
 冷たい夜気をそのままに浴びて、しかし一度も震えることなく空を見上げて何度目かもわからないまたたきしたとき、ようやくそれは訪れた。
「…セラは初めてかな、この瞬間を見るのは」
 二人の鼓動が聞こえなくなる程度の声を耳にして、そして彼が指すものを見てセラはちいさく声をあげた。

「………あ」
「初雪さ。寒いはずだよね」

 月明かりとぼんやりとした星の光の中から、白い真綿のようなものが舞い降りてくる。薄い雲から降るそれは決してたくさんの数ではなかったけれど、光に照らされた結晶はそれぞれがきらきらと反射する。
 ルックは言葉もなくその光景に見入るセラに気づいてどこか安堵したように息を吐いた。
「初雪が降る瞬間も珍しいけど…それが月や星が出てるときに見れるなんて、そうないからね」
 セラは初雪を、ましてや最初のひとひらを見るのは初めてだった。冷え込んだ夜の間に降っていて、朝起きたらその名残に気づくという場合が多かった。それがまさかこんな幻想的な光景で見れるとは夢にも思わず、今はもうただ息を呑んでそれを見つめるしかできないでいた。
 ルックも同じようにふたたび空を見上げて、まぶしいものを見るように目を細めた。
「ちょうど目が覚めて外を見たら風が騒いでた。それで雪が降ることを知ったけど、空にはまだ月も星も出てたからきっと珍しい光景になると思ったんだ」
 目が覚めたという言葉に、セラはどきりとした。それはやはり真の紋章の夢のせいだろうと確信して、舞い降りる雪を見るのをやめてルックの表情をこっそり と覗き見る。しかし変わらず空を見上げる彼の表情からは何を考えているのかはわからず、セラは思ったその通りのことを口にした。
「ルック様、ありがとうございます」
「……え?」
「ありがとうございます」
 嬉しそうに笑いながら、同じ言葉を口にする。ルックは「何が」と首を傾げたが、セラは何も言わず嬉しそうに笑うばかりだった。
 何に感謝しているかなど、全てを言葉にできるはずがないのだ。ルックは部屋にいたくないと言った。外に出れば否応なしに初雪を見ることになるが、しかし それを一人で見れるほど今の彼は温かくはなかったのだ。その時そばにいて欲しいと思ったのが自分だということが、セラは嬉しかった。
 ずっと繋いでいた手を離し、セラは立ち上がるとその手を空へ伸ばした。熱をともなった手のひらの上で、ちいさな雪は溶けて跡形もなく消え去る。同じく立ち上がったルックはそれを見て苦笑した。
「人が温かい証拠だね」
「人だけではありません、ルック様」
 セラが目線だけで促したのは、はるか下方に見える地面。冬の固い大地にも、雪はしっとりと溶けて土の中へ染み込んでゆく。
「……世界もまだ冷たくはありません」
 ルックは何の感情もない顔で、地面を見下ろした。実際に溶けるところが見えるはずもないが、セラが言っていることは間違いではないだろう。まだ世界は冷たくはないのだ。ルックが夢で見るほどには。
「…その温かい大地に、人もやがて雪のように還るんだろう。正直に言えば僕はそれが羨ましい。でも、一方でそれだけは願い下げだとも思う。土だなんて、絶対に嫌だ」
 ルックの出生の事情をまだ知らぬセラには、時おりルックが見せる大地への嫌悪が不思議に見える。だが自嘲するように吐き出した冷たい彼の本音は、やはり言葉だけではどうにもならない凍った芯があるように思えた。
 セラはルックの手を取り、ちいさな声で言った。
「それなら、ルック様は風に還られるのでしょう。ルック様の風はきっと温かい。セラは楽しみです」
 二人の手はすでに冷たくなっていたが、ふたたび繋いだ瞬間からまた熱を帯びたようだ。
「……風だって決して良いものじゃないよ」
「私はとても好きです」
 もう冷たさが感じられないルックの声に、セラはくすぐったさを覚えて目をとじた。もしかしたらルックも同じように感じて目をとじたかもしれない。そう思えるほど、彼の声は静かだった。
「……ま、土よりはマシか。 セラは?セラはどうする?」
「決まっています。セラはルックさまのおそばにおります」
 間をあけず即答されて、ルックはどう返せばよいのか迷っているようだった。それでもルックの声に耳を傾けていたいセラは目をあけず、だから彼にふわりと抱きしめられたことに気づくのも少しだけ時間がかかってしまった。
「…ルック様?」
 先ほどよりもずっと高くなった鼓動の音に邪魔されながら、セラはちいさな声で訊ねる。
 ルックから返ってきた言葉もそれに負けじとちいさなものだったが、彼の声に耳を傾けていた彼女はしっかりと聞くことができた。
「今夜は、雪が白いな」
 その言葉が嬉しくて、セラは何かお礼をしたいと言った。ルックはしばらく思案したのち、白い息を吐きながら静かに笑った。
「じゃあ、セラの部屋でお茶をご馳走になろうかな。 ラムに漬けた干葡萄を入れた、温かいお茶を」
 セラはそういえばお茶の準備をしていたのだったと思い至ると、さらにはポットにふたをするのを忘れたことまで思い出した。そうなると、どことなくバニラの香りまで漂ってくるような気がする。
「…それだけでよろしいんですか?」
「それがいいんだ」
 ちいさく笑いあう二人に雪は降り続けたが、それは残ることなくすぐに溶けた。人が温かい証拠なのだと、ルックの言うとおりだ。 


 部屋へはまた石段をゆっくり下りて戻った。差し出された手を当然のように握り返し、セラはまたルックの後ろを歩く。相変わらず差し込む月明かりは幻想的だったが、雪はもう降っていないようだ。
「…寒い?」
「いいえ」
 静かで優しい声もやはり幻想的で、しかし繋がれた手のひらだけは夢ではない温かさを感じさせてくれた。



 f i n .








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