オ オ ル リ の 言 葉




 自分に恥ずべきことをしたとは思っていない。だが、たまに後ろを振り返って思うことがあるのだ。悩みや迷いと形容されるそれは、何年経ってもなかなか消えるものではない。日常の中では忘れてしまうものだが、ふと思い出してしまう。そんなときに、彼に出会ったのだ。


 ヘルムートは目の前の男に首を傾げた。手入れをしているとは到底思えない無頓着な色素の薄い金髪に、女性かと見間違うほど整った顔立ち。年齢は十代の少 年に見えなくもないが、二十代前半の青年なような気もする。とりあえず自分よりは年下なのは確かだろうと思いつつ、年寄りくさいことこの上ない口調にはヘ ルムートも対応に困った。
「どうした? まったく進んでおらぬではないか」
 そう言いながらぐびぐびと酒を飲んでいるのだから、やはり少年という年齢ではないのだろう。なんとも不思議な人間だと思う。しかしそれ以上に不思議なのが、一体なぜ自分はこの奇妙な男と酒を飲み交わしているのだろうということだった。
 まだそんなに酒の回っていない頭で記憶を辿ると、確かに最初は一人で飲んでいたはずなのだ。それがいつの間にかこの少年だか青年だか年齢不詳の男がやってきて――…
「そうだ、確か人を探していると言っていなかったか」
 思い出した。この男は人探しをしていると言った。といっても、人探しは連れの人間に任せ、自分は疲れたので情報入手のためにここに入ったという。一休みついでと酒を一杯頼んだところまでは理解できるが、いつの間にやら酌の相手が自分になっているから首を傾げてしまう。なにゆえ俺が?そんなことが頭をもた げるが、結局は自分の要領の悪さが原因なのだろうと当たりをつけた。
「人探しといっても、この町にいるという確証はまったく無い。もっとも可能性がないわけではないから、ここでこうしておるのだが」
「…事情は知らんが大変そうだな」
「なに、もう何年も続けておるからな。今に始まったことではないし、時間はたくさんあるのだからのんびりやるつもりだ。…少なくとも私は」
 表情はにこやかなままなのだが、最後の言葉がやけに引っかかる。
「何か理由ありか?」
「理由もなく人を探しまわる者などおらぬだろう。その逆も然り、姿を消すにも理由がある」
「いや、そのことではなくて…」
 これ以上は何も答えんとばかりにまた酒を口にしたこの男の言葉を受けて、ヘルムートも溜息をつきながら口を噤んだ。確かに自分にはどうでも良いことでは あるが、しかし胸のあたりがちくりと痛むのを感じた。姿を消すにも理由がある――…ずいぶんと痛いところを突いてくれる。それは紛れもなく自分のことだ。
「――相手が理由があって姿を消したというのに、わざわざ探しているのか?」
「探しているのは私ではない。連れの者なのだが…ふむ、もう一度会ってみたいという意味では間違ってはおらぬな。 そういうものだろう。別れが中途半端である場合は」
 違うかと目で問われ、ヘルムートは何も答えることはできなかった。
 そうだ、自分にはその経験がある。あのときは姿を消すことが最善だと思っていたし、それは今も間違いではなかったと思う。後悔もしたことはないが、しかし自分は一体何から逃げ出したのだろうと悩むことはある。群島を出て、祖国にも戻らなかった。何年か後に祖国が瓦解したと聞いたのは、海も戦もない遠い地 でのことだ。群島か、祖国か……自分は何から逃げたのだろう。もし逃げたのではないとしたら、何故帰ろうとしないのだろう。
「――人は前を向くだけでは生きられはしない。だが後ろを振り返りながらは歩けまい。だから会いたい人がいれば会いに行けば良いのだ。そして会いたくなければ会わなければ良い。悩むことはない、ただ思った通りのことをするだけ」
 言葉の意味は理解できないが、心を見透かされた気がしてヘルムートは顔を上げた。男はにっこりと笑んでいる。つくづく不思議な男だ。容姿と口調が一致しないことを差し引いても、充分に奇妙だ。人を探していると言うが、言動自体からはまったくその印象が見られない。むしろ会えないことを悟りながら探し続け る矛盾ばかりが見えてくる。偶然か否かは知らないが、人の心まで読んだ。一番怪しいのは崩れることのない絶対の笑みだが、これは間違いなく少年のものではないだろう。
 ヘルムートが一体何者なのかと問おうとしたとき、それは大きな声で遮られた。

「あーっシメオンさん、こんな所にいたーっ!」

 入り口で眉を吊り上げた娘が一人。長い金髪を揺らしてこちらに指を向けている。
「おお、キリルは見つかったか?」
「何を悠長なことを言ってるんですか!キリルよりもシメオンさんを探し回っちゃったじゃないですか!」
 つかつかと歩み寄りながら、しかし怒鳴り声の大きさは小さくならない。周囲の客も何事かと振り返ったが、二人の様子を見て「なんだ、ただの痴話喧嘩か」などとぼやきながらすぐに無視を決め込んだようだ。
 ヘルムートはこの娘に見覚えがあるような気がした。だが、それがどこでだったのか全く思い出せない。おそらく最近のことではないのだと思うが、金髪の女性は珍しくはないし、何よりも今日初めて会った男の知り合いとなれば、ますます自分の記憶に自信が持てなくなる。
「そうか、それは悪いことをしたの」
「まったくです。宿で待ってるって言ったくせに、なんでこんな所にいるんですか?」
「宿にいる…はて、そんなことを言ったかのう」
「ボケたふりするのやめて下さいっ!」
 両手を腰に当てて凄い剣幕で見下ろす女性の姿に、ヘルムートはやはり自分の記憶違いだと思った。どう記憶を探ってもこんな知り合いはいない。否、いたような気がしないでもないが、少なくともこの娘ではないことは確かだ。
 一向に悪気を感じさせない男になだめられてようやく落ち着いたのか――呆れただけかもしれない――娘は大きく溜息をついた。
「まったく、心配させないで下さいね――…と、こちらは?」
 ヘルムートの視線を感じたのか、娘が振り返る。正面から見るとますますどこかで見たような顔なのだが、しかしどうしても思い出せない。娘の方もこちらに見覚えがあるような様子はまったくない。
「ああ、私の愚痴に付き合ってもらっておったのだよ」
 男はにこやかに言ったが、娘はまた頬を膨らませた。
「もしかしなくても、愚痴って私のことですか?まったくもう……すいません、シメオンさんがご迷惑をかけてしまったみたいで」
「いや…」
 先ほどの剣幕は何処へ、娘が丁寧に頭を下げる。逆にこちらが恐縮すると思ったところで、ヘルムートは唐突に聞き覚えのある名前に気がついた。
「…シメオン?」
 男を見やると、いかにもといった表情で頷いた。
「私の名だよ。 今も、昔もな」
「シメオン……まさか、ハルナの?」
 ヘルムートは今はもう無き祖国に、同じ名前の魔術師がいたことを思い出した。そう、確かシメオンといった。とはいえ、ハルナのシメオンといえばヘルムートの父が幼い頃にはすでに高名であったと聞く。実際ヘルムートがエルイールへ赴く直前でもまだなお偉大な魔術師として知られていたのだから、年齢でいえば 相当高齢のはずだ。
「ほう…ハルナの街を知っておるのか」
 間違っても目の前でしたり顔で笑う少年のような年齢ではない。しかしそんなことよりも、ヘルムートはうっかり祖国の街の名前を出してしまったことに慌てた。祖国を捨て、もうかなりの時が経つ。しかし自分の出自がそこだと公言するにはまだ少し後ろめたい思いがあるのだ。理由はどうあれ、裏切りの行為には違 いない。
「いや…確かクールークにそんな街があったはずだと……」
「うむ、確かにハルナは元クールーク皇国だの」
 シメオンの笑みは一向に崩れない。自分がクールークの出だということを知っていて、その上でシメオンの正体に気づくことまで見越していたのではなかろうかと考えると、ヘルムートは少しだけ背筋が寒くなった。しかしそれを表情に出したのは意外にも話を聞いていた娘の方で、不安げに瞳を揺らすとシメオンの後 ろに隠れるようにして顔を背けた。
 それに気づいたのか、シメオンが娘の手をあやすようにぽんぽんと叩いた。
「…宿に戻っていなさい。 私も後から行くから」
「でもシメオンさん、私……」
「お前がしたことは何年経っても変わらんよ。言い訳をしたくないのなら、毅然としておれ」
 もう二、三小声で何かを話すのが聞こえたが、最後には娘も納得したように頷いた。シメオンが優しげに背中を押すと、娘はヘルムートに一礼をした。そのまま後ろ髪を引かれるようにして酒場を出て行ったが、申し訳なさそうな表情が最後まで頭に残った。
 娘がいなくなり、心なしか小さな声でヘルムートは訊ねた。
「……貴方は本当に魔術師のシメオン殿…?」
「うむ。いかにも私は魔術師であり、シメオンだ。そしてきみの頭の中にあるハルナのシメオンと同一人物であろうことも認めよう。しかしクールーク皇国のハルナの、という言葉はもう意味を成さぬ。クールークはもうない」
 クールーク皇国が瓦解したのは群島開放戦争の二年後のことだと聞いた。あの戦争自体が瓦解に繋がったとは到底思えない。群島の連合軍には気の毒ではあるが、あの戦は皇国にとっては些事の一つでしかなかったのだから。皇王派と長老派の争いにくだらなさを感じていた自分は、クールークの軍人としてはどこか異色だったのかもしれないが、もしかしたらこの結末を予想していたのかもしれないとヘルムートは頭のどこかで思っていた。だから祖国には後ろめたさを感じ続 け、なおかつ群島で学んだことも捨てきれないでいるのだ。
「…俺は確かにクールークの出だ。だが、祖国がなくなる前にとっくにその意味はなくなっている。裏切ってしまったのはもうずっと前のことだからな」
「きみがどう思おうと勝手だが、そう思っていない者もおるだろう。後ろを向いてばかりでは歩けまい、私はそう言ったはずだ。だから振り返るのは懐かしむ時だけにして、いい加減顔を上げて生きても良いのではないかの」
 一度も絶やすことのない笑みでシメオンはそう語る。また心中を読まれたかとヘルムートは思ったが、彼の話を聞いていると、もしや自分の正体そのものを知っているのではないかとも考えてしまう。
「……貴方は俺が何者なのか知っているのだろうか」
 ためしに訊ねると、シメオンはからからと笑った。
「然り、然り。そうでなければこんな話はせぬよ。人違いではないと確信したゆえ、伝言を伝えようと思っての」
「伝言?」
「長く生きると伝言を頼まれることも多くてかなわん。だが、今回は早く見つかった方だの。きみが死ぬ前で良かった」
 満足そうな笑顔で言うようなことではないと思うが、シメオンの言うことには真実味がある。なんといっても目の前にいる高齢であるはずの偉大な魔術師は少年の姿をしているのだ。
「――とりあえず聞くが、伝言とは?」
 どことなく力が抜けたヘルムートは、シメオンの答えを聞いて更に力が抜けた。
「カニを食べさせてやる、だそうだ」
「………カニ」
「そう、カニ」
 冗談かと思い復唱してみたが、自信たっぷりに肯定されては何を言って良いのか見当もつかない。
「……これから顔を上げて歩くとき、ふと過去が懐かしくなることがあるかもしれぬ。そのときは少し南へ歩くと良い。そういうことだ」
 そう言いながら、シメオンは立ち上がった。ヘルムートは立ち上がることができず、ただその伝言を飲み込むことで精一杯だった。
 南へ歩く、すなわちあの青い海に浮かぶ島々へ行けと。いや、伝言なのだから「行け」ではなく「来い」が正しいのだろう。そしてそんな馬鹿らしいことを平然と偉大な魔術師に頼む者など、ヘルムートの記憶にはただ一人しかいない。
「……いつか懐かしむ余裕ができたら、な」
 呟く程度の返事ではあったが、シメオンが満足げに頷くのがヘルムートにはわかった。シメオンと記憶の少年の間にどんな縁があったのかは想像もつかないが、だが少しだけ自分の中にある迷いのようなものは薄くなったような気がする。偉大な人物は言葉が重い。

「さて、それでは私も宿に戻るとするかの。あの娘も落ち込んでいるかもしれぬ」

 顔を上げると相変わらずの笑みは浮かべているものの、声は少しだけ気遣わしいものだ。
「あの娘――…シメオン殿の弟子か何かか?」
 そういえばあの娘も見覚えがあるのだが、結局最後まで思い出せないままだった。いぶかしげな顔でもしていたのだろう、シメオンはからからと笑いながらかぶりを振った。
「私は弟子を取らぬ。 あの娘はコルセリアという」
「コルセリア…コルセリア……?」
 シメオン同様聞き覚えのある名前だ。何度か反芻するうちに、それは記憶の奥へとたどり着く。

「――ッ コルセリア様!?」

 ヘルムートが叫びながら立ち上がったときにはすでにシメオンの姿はなく、呼んだ名前が記憶の彼方にある少女の顔と重なった。そうだ、あの金髪と顔立ち。あれは紛れもなく無き祖国の姫君のものだった。ヘルムートは口を押さえながらへたりと椅子に崩れ落ちた。
 姿を見たのは式典の際に数えるほど。記憶にあるのは酒場で大声を出す娘ではなく、皇王の後ろで優雅にたたずむ幼い少女だ。皇王の孫娘にして、正統な皇家継承の血筋の高貴な人間。ヘルムートもクールークを瓦解させたのは齢にして若干十一だったその姫君だと聞いてはいたが……
「……真実だったのだな」
 最後に見せた申し訳なさそうな表情が頭から離れない。きっと自分の下した決断に未だ迷いがあるのだろう。先ほどまでの自分のように。
 もしかして、シメオン達が探している人物こそがその迷いを払拭してくれる存在なのかもしれない。ヘルムートはそんなことを思った。自分にとってその存在がまさかカニを獲っているとは思わなかったが、自由を生きる人間など何をしているのかわからないものだし、彼らの探し人も意外なところで意外なことをしているかもしれない。


 偉大な魔術師は言った。悩むことはない、ただ思った通りのことをするだけだと。ヘルムートはその通りだと一人頷く。そういえば敬愛する父にも言われたではないか。自分の道を進め、と。
「悩むことはない、自分の道を進むだけだ」
 立ち上がり、前を見る。今日はこのまま振り返らず帰ろう。ヘルムートは一歩を踏み出す。もし振り返ってしまったら、南に歩こう。断じてカニを食べたいわけではない、とでも自分に言い訳をしながら。



 f i n .






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