誰もいない村は空気さえも寂しく、鳥の囀りこそかすかに聞こえてくるものの、それが止まっているであろう木は見当たらない。あるのは裸の木ばかりで、草は枯れて咲いている花もない。目の前にはかつて小川が流れていたと思われる跡があるが、今は完全に干上がっている。寂しい場所には違いないが閑静なのは非常に好ましく、シメオンは適当な場所に腰を下ろしその小川を眺めた。
小一時間も経つ頃、背後から慣れた気配が近づいてくるのを感じて、彼は読んでいた本を閉じた。 「…その調子だと、隣村も駄目だったようだのう」 振り返ると、もう何度見たかわからないほどお馴染みの光景が目に入った。スカートを握り締めいじけたように俯いている彼女に、シメオンは苦笑する。 「あまり落ち込むでない。世界は広いのだから」 「足跡ひとつ見つからないなんて…」 「それもまた仕方のないこと。 わかるな、コルセリア」 はい、と頷いたコルセリアはちょこんとシメオンの隣に腰を下ろした。 いまや亡国となってしまったクールークの姫君は、一人の女性として旅をしている。さすがに一人というわけにもゆかずこうしてシメオンが一緒にいるわけだが、旅の成果は一向に上がらない。 「キリルってばこうも雲隠れが上手だなんて」 子供っぽく頬を膨らませてはいるが、コルセリアも今となっては立派な女性だ。紋章砲を追っていたときの幼さはどこにもなく、変わらないものといえば長く艶やかな金色の髪だけだ。以前クールークの領地であった町に立ち寄ったときはコルセリアの正体がばれて騒ぎになったことがあったが、最近ではそれももうなくなった。クールーク皇家の最後の正統な血筋が成長した分、元・国家にも同じだけの時間が流れたということだ。 「キリルはもうこの辺りにはおらんのではないかの。さっきも言ったが、世界は広いのだし、彼にはここに留まる理由がない」 「それは理解しているつもりです。でも、どこへ行ったかとか小さな手がかりすらないのは…やっぱり落ち込むわ」 スカートを握る手は、力を入れすぎているせいかすっかり白くなっている。シメオンはやれやれと溜息をつきながら、優しくその手を取った。 「少し力を抜け、コルセリア。ほれ、服もすっかり皺になっているであろうが」 「服のことなどどうでもいいです!」 ぷい、と横を向くしぐさはやはり子供っぽい。幼い頃から皇族の姫君として教育されてきたせいか物腰自体や優雅であるが、時として幼くなることが多々ある。それが甘やかされてきたせいか、祖国を亡くした反動かはシメオンには分からない。だがそれは決して悪いことではないので、やはり彼は苦笑するしかないのだった。 「だがコルセリアはキリルの情報以外にもたくさんのことを見てきたではないか。元クールークの現状や、赤月帝国の情勢など……オベル国王のおかげで、群島の情報は割と簡単に得られるようだがの」 顔はそのまま反対の方を向けてはいるが、コルセリアはそうですね、と目線だけを戻した。 「私たちが今いるこの無人の村も、数年前まではクールークと呼ばれておった場所だ。キリルがこんなところに来るとは、少なくとも私には思えぬ。それでもコルセリアがこの地にやってきたのは、もっと広い世界を見たいと思ったからであろう?」 「……シメオンさんはイジワルですね」 「そうかの」 そうですよ、と言う代わりにそっぽを向くのをやめたコルセリアは、盛大に溜息をついた。 「私が何を考えているかなんて、シメオンさんには全部お見通しなんですもの。そしてそれを知っていて反対しないのは、やっぱりイジワルだからなんだわ」 「いつでも好奇心だけは強いからのう。 新しい知識を得る機会があるのならそれを逃したくないのだよ」 得意気に笑うシメオンを見て、コルセリアはもう一度溜息をつく。シメオンと初めて出会ったのは何年も前なのに、この人は何も変わらない。当時は自分もまだ幼く、キリル達がいなければ何一つ自分でできない子供だった。しかし今はそれなりに成長もしたし、身長もシメオンと並んでもそう変わらないほどだ。少なくとも旅を始めた頃は、落ち込む自分の手を取ってなだめてくれるのもせいぜい仲の良い兄妹くらいに見られていた。それが今はうっかり恋人に見られてしまうことが――たまたま今日は無人の村ゆえにそれも無いが――あるのだ。コルセリアに流れる時間が、シメオンにはまったく流れていないのだった。 ――キリルも同じようなものだと気づいたのは一体いつ頃だっただろうか。 「本当にキリルもシメオンさんと同じなのかしら」 俯いたまま呟いた。何度か同じ質問をシメオンに訊ねていたが、シメオンから返ってくる答えはいつも同じだった。それでもシメオンは面倒がらずに、同じ言葉で答え続けている。 「私は同じだとは断言せんよ。だからといって同じではないとも言わんがね」 「…まあ、どちらでも構いませんけど」 コルセリアとしても明確な答えが欲しいわけではないので、これだけでも充分だった。しかし曖昧ではあるが確実に答えを返すシメオンは、実は真相を知っているのではないかとも思う。詮無いことだが――なによりこの人の存在自体が不思議なのだから――シメオンはこうして時を止めたまま平然と生きているのに、なぜキリルは同じように生きてはくれないのだろう、などと考えてしまうことがある。その時に隣を歩くシメオンを見ると、とても恥じ入った思いをするのだ。きっとこの人は、なにもかもお見通しなのに、何も語らず世界を歩いている。 「やっぱりキリルは探して欲しくないのかな…」 「どうだろうな」 シメオンは苦笑したが、内心はそう思っているに違いない。コルセリアはあえて言葉にはしないが確信していた。もしキリルが探して欲しくないと仮定した場合、もしかしたらシメオンも同じかもしれないと思ったからだ。 いろいろなことを考えすぎて、どっと疲れが出る。コルセリアは深く溜息をついた。 「やけに弱気だな。そろそろ諦めるか?」 からかわれていると知っていても、言い返せずにはいられない。 「いや!私、もう一度キリルに会いたいもの!」 「なんだ、元気ではないか」 「当然です!」 諦めてたまるかとばかりに睨みつけると、シメオンは肩を揺らしながら笑った。そしてまるで幼い子を褒めてあげるように、コルセリアの頭をぽんぽんと軽く叩く。 「よしよし、その意気だ」 「…私はもう子供じゃないんですけど」 「なに、私にしてみればいつまでも子供のようなものだ」 「見た目はシメオンさんとそんなに変わらない年齢なんですよ?」 「だから、人を外見だけで判断してはならぬ。そういうところが子供だと言っておるのだがね」 くすくす笑われたままなのが悔しいが、ここで頬を膨らませでもしたらまた子供扱いされてしまう。返す言葉に詰まったコルセリアは「もういいです」と立ち上がった。 「私はキリルに会うのを諦めたりしません。それに、まだまだ世界のことたくさん勉強したい。私がクールークの民から国を奪ってしまったことが正しかったのかどうか、それも知りたい。やらなきゃいけないことはたくさんあるんだから!」 拳を握って、堅く誓う。その姿は皇族の末裔には見えないが、強く生きる一人の人間としては誰の目にも鮮烈に映るだろう。シメオンは満足そうに笑いながらも、気遣わしげに言う。 「…あまり無理はせぬようにな」 「もう少しいろいろな所をまわって、それでも手がかりが見つからなかったら一度戻りましょう。そのうちセネカさん達にも手紙を書きます」 赤月を旅立ってからだいぶ経つ。そんなに心配はしていないだろうが、キリルの行方を知りたいのは赤月の二人も同じことだろう。 「うむ、それが良いだろうな」 「はい」 コルセリアのにっこりとした笑みを合図に、シメオンも立ち上がった。 「では、次の町に行くかの」 「シメオンさんこそ無理しないで下さいね。 私はまだ若いからいいですけど」 「あとで疲れたと駄々をこねても、私は知らんよ」 「そんな子供っぽいこと、しません!」 何を言っても、シメオンにはかわされてしまう。コルセリアは「べ」と舌を出して、さっさと先に行ってしまった。そこが子供っぽい、との呟きがもう聞こえないところまで。 誰もいない村の空気は相変わらず寂しいもので、シメオンも振り返りもせずにコルセリアの後を追った。ただ一つ違うのは干上がった小川に透明な水があふれていたこと。彼が踵を返す直前に本を広げて何語かを呟いてはいたが、その光景を見たものはあいにく誰一人としていなかった。いるとしたら、どこかで歌い続けていた鳥だけだっただろう。 シメオンは背中でせせらぎの音を聞いたはずだが、そのことは誰にも話すことはなかった。 END |