閑静な広い廊下には二人の他に誰もおらず、ヘルムートは黙って話を聞いていた。
そして話を最後まで聞くと、納得がいかない表情で眉を寄せた。 「先日の報告では、ラズリルを攻めても意味がないということでしたが」 「確かに」 「ならば何故、」 「総督の決定であれば仕方あるまい!」 唸るように返され思わず溜息が出そうになったが、それはなんとか飲み込むことに成功した。 「…総督は今回の任に就かれたばかりです。群島の事情をご理解頂いているとは思えませんが」 「そうだ。 だが、そこは問題ではないのだ」 淡々とした言葉の裏に、上層部の真意が垣間見えてくる。 ヘルムートは今度こそ飲み込むことはせず、盛大な溜息を吐き出した。 「――ということは、やはり総督の名を利用しようとする者が存在するわけですね」 コルトンは、苦々しげに息子を睨みつけた。 クールークと群島諸国の争いは今に始まったことではないが、ここ暫くはエルイールに築いた要塞で互いを牽制する程度に収まっていた。 南進の計画は消えたわけではない。常に要塞にはいくつかの艦隊を配備しているのはその証拠だ。 だが突然ラズリルを攻めるというのは、道理がいかなかった。 ガイエン公国の海上騎士団があるからか? それは違う。むしろ、そこは唯一刺激してはならない地だ。 ヘルムートは噂を間に受ける人間ではなかったが、可能性的に否定できなくなる話もいくつか耳に入ってきている。 「グレアム・クレイ…」 試しにその名を口にすると、思った通りコルトンの顔色が変わった。 噂もあながち馬鹿にはできないものだと、内心息を吐く。 「軍部中央では『光』を追っていると聞いています。 先日持ち込まれた巨大な紋章砲――…あれが関係しているのですか」 「お前には関係のないことだ」 「しかしラズリル占拠の命が私に下るのであれば、その光が何なのかを事前に知っておくのは当然のことです」 「それでも、お前には関係のないことだと言うほかないのだ!」 誰もいない廊下は声が響く。 存外大きな声を出してしまったコルトンは慌てて周囲を見回したが、幸い二人以外の気配はなかった。 「ヘルムート、お前は若い。トロイ殿よりも、更に若い」 その声は先ほどよりも幾分か小さめなものだったが、かの英雄の名だけは何故かよく響く。 ヘルムートは首を傾げた。 「何故、そこでトロイ様の名が出てくるのですか」 「――トロイ殿もお前と同じことを言った。ラズリルを攻めるのはもう無意味だと」 コルトンは小さな目を細め、苦虫を潰したような表情で更に続けた。 「だが、それでも無駄だったのだ。あの方を以ってしても駄目だということは、それ相応の理由がある。そしてそれを知るには、お前は若すぎるのだ」 遠まわしに将としての力が足りないと言われているような気がして、ヘルムートは憮然とした。 それに気づいたか否か、コルトンは溜息をついて首をふった。 「戦は汚い、そういうことだ。 あの紋章砲を運んだ商人と忍びもいずれは――…」 「…父上?」 語尾を濁し目を逸らしたコルトンを怪訝そうに伺ったが、ヘルムートには父の真意は見えなかった。 「――とにかく、群島への南進計画は以前より進められてきたことだ。トロイ殿もそうお考えのはずだ。 今回もその一環だと思えば良い」 「父上、しかし…」 「お前がこの任務を不本意に思うのは良くわかる。だが、お前もクールークの徒なればいた仕方ないことなのだ」 それは決して悟すような口調ではなかったのだが、もうヘルムートは父の言葉に頷くしかなかった。そもそも一介の士官でありながら中央へ意見する方が、身の程知らずだったのかもしれない。 「…承知、致しました」 軽く頭を下げ、そしてふたたび顔を上げたとき。 コルトンの自分を見る目がどことなく遠くにあり、ヘルムートにはそれがとても不思議に感じられた。 いつも厳しい父が珍しい、そう思ったのかもしれない。 「正式に命が下るまでそう時間もないでしょう。 準備に取り掛かりますので、私はこれで」 頭に残る疑問と今回の任務への不満もあり、それ以上コルトンの方を見ずにヘルムートは踵を返した。 「ヘルムート」 ふと、背中に声をかけられた。 「お前が愚かではないことは知っている。だから、あえて言う」 「…は?」 肩越しに振り返ってみると、コルトンも背中を向けていた。 「先ほども言ったばかりだが、お前はまだ若い。物事の流れを見つめ、そして考えろ。そして自身で答えを出せ。…お前が出した決断は決して間違ってはいないはずだ」 言っている意味が理解できず問い返そうとしたが、コルトンは息子の方に振り返ることなくそのまま去って行った。 父の背中が見えなくなるまで見送り、ヘルムートはまた一つ出そうになった溜息を飲み込んだ。 少し、考える。 だがやはり父の言っている意味が理解できない。 「――自身で答えを出せ、か」 呟いてトン、と壁に背中を預けた。 その仕草がだらしなく見えないこともなかったが、誰もいない廊下ではそれを気にする必要はなかった。 「考えるもなにも、所詮はクールークの徒。俺も、父上も、みんな…そうじゃないのか?」 問い掛けてみるも、一体誰に問い掛け、答えて欲しいのか、ヘルムートは自分でも分からなかった。 そして暫くそのまま俯いていたが、再び顔を上げ飲み込んだはずの溜息を吐き出すと、何事もなかったかのように歩きだした。 広い廊下には、もう誰もいなくなった。 END |