西日が射すのを感じて、セラは本に向けていた目を窓の外へと移した。
陽はほとんど傾いており、しかしそれでも空一面を橙色へ染め上げている。
時間にしてあと半刻。
あの方が帰っていらっしゃる。
薄紫色の花
セラはいそいそと本を閉じた。当然、いつものように「今日はここまで」としおりを挿めた。彼から貰った本、そのページには“Lavandula”と記載された薄紫色の花が載っている。どこまで読んだかなどとは、しおりに頼らなくとも忘れはしない。しかしこれが几帳面な彼の習慣であることを知ってしまっては、真似をせずにはいられない。幼心に少しでも彼に近づきたいという思うがゆえの、彼女なりの精一杯の努力だった。
たたた、と小走りで塔の廊下を駆け抜ける。さすがに上に向かう階段は、彼女にとってはまだ少し高かった。それでも一段一段、転ばぬように一生懸命登ってゆく。
階段の中頃、息が切れた所で一休みをする。自分の背丈よりも更に高い位置にある窓を恨めしそうに見上げた。かすかに見え隠れする窓の外では、大木が思い思いに伸ばした枝をちらつかせている。生い茂った葉は静かに橙色に照らされていた。
「風はない……まだ、だいじょうぶ!」
セラは深呼吸をすると、再び階段を駆け上がっていった。目指すは最上階、星を詠む部屋。彼はまずその部屋へ帰ってくるはずだ。
『こんどは、いつお帰りになるのですか?』
セラがそう問うたのはつい三日前のこと。大してかからないと思うけど、と彼は言った。
彼にとって日常は決して時間を持て余すものではなかった。星占師としての業を全うする師のもと、彼もまたその弟子としての役割というものがあり、それをこなすには隣国へ、またある時は遠方の町にまで赴かなくてはならなかった。
『……今回はハルモニアへ行かれるとうかがいましたが。』
言葉通り、この魔術師の塔の住人には因縁のあるハルモニア神聖国すらも、彼の役割の対象となっていた。セラの声はどことなく落胆していたが、それ以上に心配の色を帯びていることは確実だった。
心配はいらない、と彼は言う。彼は師より絶対の信用を得ているからこそこの仕事を受けるのであって、それは失敗という結果には終わらせないという自信、むしろプライドの問題となってくる。セラもそれは重々承知してはいた。安否を気遣う思いも彼のプライドを傷つけているのではないかと胸を痛めることもあるが、涌きあがる不安感はそう易々と拭い去ることはできない。それを言葉にせず自分の喉元に抑えるのは、まだ幼い彼女には難しいことだった。
しかし結局はいつもの通り、お決まりの言葉で彼の背中を見送るのだ。
『お気をつけて、ルックさま。』
だからこそ、その日ルックがセラに振り返ったのは珍しいことだった。
『セラ、僕は三日後に戻ってくる。そうだね、宵…いや早宵の刻には必ず。約束するよ。』
思いがけない言葉にセラは思わず目を丸くした。
ルックが与えられた仕事から戻るのは必ず深夜と決まっている。意識してその時間帯を選んでいるのか否かは、本人以外知るよしもない。しかし、決まってセラが寝静まった時間帯に戻ってきては、翌朝何もなかったかのように顔を合わせるのは、喜びの中にも彼女にとって少なからず孤独を感じるものでもあった。
(いつも、一番にお迎えしたいのです。)
密かにそう願うも、それを言葉にするのは非常に難しい。ましてや自分の思いが彼のプライドを傷つけているのではないかと危惧していたセラにとっては。
ルックの「約束」という一言は、彼女にとって魔法だったのかもしれない。
『早宵…夕陽が沈んで間もないころですね。』
お帰りをお待ちしております、そう言ったセラの表情は、込み上げるくすぐったい喜びを全く隠しきれていなかった。
「レックナートさま!」
長い階段も終わり、セラのちいさな足はようやく最上階へと辿り着いた。はぁはぁと肩で息をしつつも、なんとか顔を上げて窓の外を確認する。夕陽は沈んでしまったが、空はまだ残照によって照らし出されていた。
「セラはっ、間に、合ったので、しょうか……?」
まだ息の切れるセラに、レックナートは微笑みかけた。部屋の中央にていつもと同じように星を詠むことに没頭していた彼女だが、さすがにセラの状況は瞬時に理解したらしい。
「セラ、そんなに慌てなくともルックはまだ戻っていませんよ。あの子が戻るのはいつも深夜ですから――――」
「いいえ、ちがいます。お出かけになる前に、ルックさまはセラとやくそくをして下さいました。三日後の早宵の刻に戻るからと。」
そう言いながら、ゆっくりと深呼吸をして息を整える。そのセラを見やりレックナートは「まあ」と小さく呟いた。その声にはさも珍しいといった意が含まれていたが、セラがそれに気づく様子はなかった。
「ルックさまはやくそくを守らぬような方ではありません。こんどこそ、セラはルックさまをお迎えしたいのです。」
満面の笑みを浮かべて言い切られてみれば、もはや何も言うことはできない。それは門の紋章の継承者も然り。無愛想な弟子がどんな顔をしてその約束を取り付けたのかを考えると、むしろ笑みを隠せないのは彼女の方であった。
「しかしですよセラ、あなたはまだ空間移動の術を使うには精神力が整っていません。だからこそ、あなたのその幼い足でここまで上ってくるのは一苦労だったはず……大人しくルックの部屋で待っていた方が良かったのでは?」
「いいえ、いいえ。」とセラは首を振った。
「ルックさまはいつも、最初にレックナートさまの所へいらっしゃるのでしょう?お仕事のごほうこくをするために。」
「それは――――…」
「セラは一番にルックさまをお迎えしたいのです。ですから、レックナートさまとごいっしょした方が良いかと思ったのです。」
本に夢中で危うく遅くなる所だったと、無邪気に笑った。
まだ何か言おうと言葉を探すレックナートには気づかず、セラは再度窓の外を眺めた。残照もいい加減消えかけ、宵闇がすぐそこまで来ている。必然と暗くなる部屋で、セラは沸き上がる高揚感を押さえられなかった。
一瞬の沈黙。
残照が完全に消えた。もともと星を詠むための構造になっている部屋では、余分な灯りがあるはずもない。
「――――…ルックさま?」
セラの少し高い声が響く。それがどんなに小さな呟きだったとしても、この明りとともに音までも消えたのではと思わせる静寂の中では、それはまるで意味を成さない。
「ルックさまぁ…?」
再度彼の名を呼ぶが、セラの震える声には変わらず返事はなかった。
必ずこの時間に戻るとおっしゃっていたのに。
やくそく、したのに。
「ルックさま、もう早宵の刻は過ぎてしまいました――――…」
セラは肩を落とし、俯いた。水晶から離れたレックナートが傍へ来て、優しく頭を撫でても顔を上げようとはしない。
「レックナートさま…ルックさまはやくそくを忘れてしまったのでしょうか?」
小さな身体を丸めて悲観する少女にを目の前に、かけることができる言葉は実は選ぶほど多くはない。レックナートはそれを知っているからこそ、ただ静かに頭を撫でながら宥めることしかできなかった。
「セラ、ルックは約束を忘れたわけではないでしょう―――しかし、あの子にも急な都合ができたのかもしれません。あまり落胆するのは――――――…あら?」
レックナートはセラの頭を撫でていた手を戻し、ついと顔を上げ辺りを見回した。もっとも彼女の盲た瞳に何が映るというわけではない。ただ、すでに慣れ親しんだ気配を感じ取ったとなると、そうせずにはいられないのだ。
「レックナートさま?」とセラが顔を上げ、
「…悲観するのはまだ早いかもしれませんよ、セラ。」とレックナートは微笑む。
セラはその表情に何かを悟ったかのように背筋を伸ばし、彼女と同じように辺りをきょろきょろと覗い始めた。彼女の視線はまず最初に窓の外へ、次は足元、最後には部屋の入り口へと向けられた。そして――――――
「風!」
セラが叫ぶと同時、部屋の入り口――最後に向けた視線の先だが――の空間が突如歪み始めた。そして間もなく、その中央からセラが三日もの間待ち焦がれた人物が姿を現した。
ルックは空間が元に戻るのを待たずに、真っ直ぐにレックナートの元へ進んできた。暗い部屋の所為なのかそれとも疲労のためか、彼の顔色が三日前と比べ、どことなく青い顔をしているのが気になる。それはレックナートにとっても同じことで、彼女は迷わず声をかけた。
「どうしました、ルック?少々顔色が優れないようですが……何か不首尾なことでも?」
ああ、とセラは思う。今回は几帳面な彼が時間に遅れるほどの仕事だ。もしや自分との約束のせいで、無理を通してきたのかもしれない。ならば、もし彼が体調を崩すことがあれば、それは自分の所為になる。
急に不安に駆られたセラをよそに、当の本人の答えは意外な一言だった。
「セラがいません。」
それはあくまでも真剣そのものの口調で、セラ本人はもとより、レックナートすらも二の句が次げない状態だった。
「確かに早宵の刻に戻ると言っておいたのですが、部屋のどこを探しても――――」と首を横に振る。
言葉を一つ一つを繋げるたびに、彼の顔色はますます青くなるような気もする。部屋の暗さも手伝って、まさか目の前に本人がいるとは今のルックには想像もつかないのだろう。師に戻りの挨拶の一言もないことが、彼の混乱ぶりを証明していた。
「空間移動はまだ禁じています。セラがそれを破るとは思えないので…」
「セラはここです!」
それは暗い部屋で向き合う師の、丁度足元の辺り。ルックの言葉はそこから飛び出た聞きなれた声で遮られた。
「ルックさま、セラはここにおります。」
再度、確認するような声はやはり同じ場所からで。目線を落として落ち着いて見れば、その場所には当然のように暗い部屋で映える白い肌。ルックが目を丸くするのに時間はかからなかった。
「………セラ?」
「はい!」
真っ直ぐに名前を呼ばれるもの三日ぶり。セラの声が弾むのも当然のことだった。しかし、ルックの方は今ひとつ現状をつかめていない様子で、レックナートとセラを交互に見やり、ようやく理解した頃には自分の行動に動揺し始めていた。
「何故セラがここに――――…?」
感情を滅多に表に出さない弟子が、珍しく狼狽している。それだけでも微笑ましいというのに、レックナートは彼の左手にある物に気づき、とうとう笑みがこぼれるのを押さえられなくなった。
「ルック、帰ってきたばかりで疲れているでしょう?もう下がって良いですよ。」
「しかしまだ報告が……」
「それは明日で結構です。……セラはあなたを一番に迎えられるようにと、幼い足でここまで上ってきたのですよ。それを汲んであげなさい。そして――――」
再度、彼の左手を見留め満足そうに微笑む。
「それはセラへのお土産でしょう?早く渡してあげなさいな。」
ルックは師の云わんとすることが瞬時に理解できなかった。しかし、彼女の云うものが確かに左手に収まっているのを確認すると、珍しくも彼の頬に朱が差した。部屋が暗くて助かったと少なからず思ったかもしれない。
にこりと微笑む師を前にして、これ以上この場にいる事は無用と判断したルックはセラを呼んだ。
「セラ、おいで。」と手招く。
「明朝、経過ご報告に上がります。」
レックナートには駆け寄ってきたセラと共に一礼をし、未だ歪んだままの空間へと足を向けた。今頃になり疲れが出てきたのか、足のもつれるセラの手を右手でしっかりと繋いだままで。
後に残った師は、笑みを残したまま再び水晶へと戻った。
塔の最上階から空間を繋いでいた先はルックの部屋だった。外はもう月が顔を見せ、ルックは何も言わず暗い部屋に灯かりをつけた。その無言な態度に、自分のせいで彼の機嫌を損ねてしまったのではないかと、セラは小さな胸を痛めた。
「………これ。」
突然、ルックは俯くセラに左手を突き出した。それは奇しくも先にレックナートに見つかってしまったもので、小さな花が数輪、彼の手の中で咲いている。彼の白い手に良く映えた薄紫色の花びらは、セラのは胸の痛みをどこか遠くへと消し去った。
その花は彼女にとって見覚えのあるもので、嬉しそうに名前を呼んだ。
「ラベンダー!」
「……へえ?」
セラの小さな手にその花を握らせると、ルックはようやく微笑んだ。
「この辺りには咲かないから、知らないと思ってたんだけど。」
「ルックさまからいただいた本にのっていたのです。先ほどまで読んでいたのですが…よかった、べんきょうしていて。」
セラは手の中の花ににっこりと笑う。
「これもセラがいただいてよろしいのですか?」
「……さっきレックナート様が先に言っちゃったけどね、もともときみへの手土産だったんだ。手抜きになってしまったけど……いつも心配かけてるからね。」
その詫び代わりに、と心なしか申し訳なさそうに呟く。セラはほうと長い溜め息をついた。
彼の大事を祈る思いは、確かに彼に届いていた。ましてやプライドを傷つけているなどとは、ルックは露程にも感じていないのだろう。何よりも、この手に咲く薄紫の花がそれを物語っている。セラは祈るようにラベンダーを抱きしめた。
「このお花、枯れないようにがんばってお世話しますね。」
嬉しそうなセラの頭を軽く撫で、ルックは今更のような言葉を口にした。
「――――…ただいま、セラ。」
そしてセラも、誰よりも最初にと願ったことを、最大の喜びとして伝えるのだ。
手の中に咲く、花よりも華やかな笑みで。
「お帰りなさい、ルックさま!」
Fin.
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