境 界 線
自分の中で未練がないといえば嘘だった。生まれ育った愛すべき我が祖国、ハイランド。その地を自らの足で踏みしめることすらも誇りと信じて疑わなかったあの頃のことを忘れようなどとは、軍人である自分には無理な話なのだ。 今でもたまに夢に見ることがある。 「クラウス様!」 「わたしには構うな!将軍を、キバ将軍をお守りするのだ!同盟軍などに将軍の御身を渡してはならぬ!」 「クラウス様、将軍直々のご命令です!我らにはクラウス様の護衛をと……!」 「構うなと言ったのが聞こえぬか!この軍の軍師はわたしだ、このわたしが命ずる!将軍を失うわけにはいかない―――早く将軍のもとへゆけ!!」 父の命令で護衛に就くといった数人の兵士に、喉が潰れるのではないかと思うほど叫ぶ自分。そう、あれはハイランド第三王国軍の命運を決した戦いの時だ。実際、あの時は声を張り上げすぎて幾度か血を吐いた。 自分の読みの甘さから背後を取られ、勝利までの策は完全に覆された。諦めてはなるものかと努めて冷静に策を巡らすも、周囲の動揺は激しく戦況は最悪の状況に陥っていた。敗北の覚悟は戦地に赴くその瞬間に決めているものだが、勝利を信じなければ兵は剣を構えることができないし、足が竦んで騎乗することすらままならなくなってしまう。軍師とて同じことだ、勝利に確信があるからこそ剣を持たずして戦いに参加することができる。 それがこの時はどうだ。目 の前にぶら下がった敗北の二文字に目眩がし、口から飛び出すのではないかと思うほどの心臓の動悸は激しさを増すばかり、あろうことか手綱を握る手はがくがくと震えていた。敗北や死を恐れたことはなかった。しかしこの時ばかりは目に見えぬ力に圧倒され、敵軍の成した完璧な策に焦りを覚えずにはいられなかったのだ。 おそらく少しでも緊張を解けば気を失い、落馬してしまうだろうことは目に見えていた。しかし軍師としての役職はそれを許さず、最後の最後まで策を練らねばならない。自分は気力だけで意識と冷静さを保ち、何としても将軍だけは守らねばという使命に駆られていたのだ。軍師だけおめおめと生き残るわけにはいかない。何としても将軍は、父だけは―――… しかしこの時自分は、策は残らずとも軍師としての才で一つの道をすでに読み取っていた。この戦は我らの敗北に終わる、と。 父とともに捕らえられた時、真っ先に浮かんだものは「自決」という言葉だった。しかし実際は護身用に忍ばせていた短刀もすぐに取り上げられ、舌を噛み切ろうにも喉元を掴まれそれも適わなかった。このまま生恥を晒すのかと思うと怒りと悔しさで目の前が真っ赤になった。 そんな自分が、今はとても穏やかな心情でこの同盟軍に籍を置いているのだから不思議だと思う。石版の守人だという少年が云うには、これは全て運命という名の星廻りで、ある意味計算されたものの上に成り立つ現実なのだという。それは違えることのない結果なのかと訊ねたところ、自分もそれを確かめている最中なのだと意味深な答えが返ってきた。 少年の真意はともかく、これが自らに与えられた道ならば全うするしかないのだ。仕える君主が変わり、自分の才を揮う場も変わってしまったが、しかし信じるものは何一つとして変わってはいない。何処で誰に信用のなるものか、裏切り者、と罵倒されようと軍人としての誇りがある限り自分が揺らぐ事はないのだ。 あの敗戦の夢を見た日に限ってとても穏やかな朝を迎えるのは、その誇りのおかげなのだろう。 「――クラウス殿?」 名を呼ばれ顔を上げると、トレーにクロワッサン数個とコーヒーを乗せた青年が立っていた。目線で相席は構わないかと言っているのが分かる。 「これはジェス殿、おはようございます――…どうぞ」 「ありがとう」 彼は軽く会釈すると向かい側の席に腰を下ろした。誰かが「ジェスは朝食にクロワッサン以外に手をつけることはない」と言っていたような気がするが、どうやらそれは本当だったらしい。彼は上品に一口大にちぎってそれを口へ運んだ。 「ところで、クラウス殿はいつもこの時間に?」 「ええ、まぁ…今日は少し遅いくらいですが」 「そうか、こんな早朝からとは…大変だな」 まだ若いのに、そう続けられた言葉には苦笑するしかなかった。 軍師の朝とは早いものだ。自分はそれを心得ているからか、苦になると思ったことはあまりない。しかし若いと言われると可笑しさが込み上げてくる。目の前にいる彼も、実は自分と五歳程度しか離れていないのだから。 「そんな、ジェス殿も昨夜遅くまで書類の整理をされていたではないですか。…そういえば昨日も誰かに同じことを聞きましたが…もしかして二日連続ですか?」 「…正しくは三日、だな」 「気の毒に……ジェス殿もお若いのに」 今度は彼が苦笑した。 彼とこんな風に話ができること。それは自分だけでなく、彼もまた穏やかな心情でこの同盟軍に籍を置いているという証拠だと思う。 彼が 正式に入城したのはつい最近のことだ。先日ティントで起こったネクロードという吸血鬼の一件が解決するまで、彼は同じ同盟軍でありながら、軍主殿とは違う道を進んでいた。かつて彼らの間にあったことなど詳しくは知らない。知ったところで原因が祖国ハイランドにあることは目に見えているし、それを気遣っているのか誰も自分や父に対してその話をしようとはしない。当然彼も、軍主殿も。 彼は後にそれを「怒りをぶつけていただけ」と言っていたが、実は違うのではないかと思う。彼は間違ってはいなかった。 「こいつはハイランドの回し者だ!」「都市同盟を救うのは都市同盟の人間の手で行うべきだ」 立ち聞きをするつもりはなかったが、どうしても耳に入ってきてしまった言葉。これは軍主殿に向けられた言葉ではあったが、少なからず自分も気落ちするのを感じた。ハイランドの人間として生きることを許されなくなった今、自分は都市同盟の人間と区別されるのだろう。しかし、軍主となられた方であってもこうして罵倒されることがあるのだ。――ハイランド出の者は信用できない、と。 この時ティントに一軍を率いたのはリドリー将軍だったが、正軍師として 命を預かったのは自分だった。彼の率いたミューズの軍が強攻策に出たため、こちらも兵を出さざるを得なかった。彼の策は愚策だ、まず間違いなく反撃にあう。それは誰の目にも明らかだったのだが、彼は耳を貸さなかった。 彼もまた、一つの道を信じていたのだ。自分の中に軍人としての誇りがあるように、彼にもミューズの人間として、都市同盟の人間としての誇りが。 ――案の定、軍は半壊し、結局ネクロードを仕留めたのは軍主殿を含めた数人の精鋭だった。 「そういえば、こうしてクラウス殿とゆっくり話しをするのは初めてだな」 おもむろにカップに口をつけながら彼が言った。 「―――いろいろと話したいことはあったんだが」 「そうですか」 軽く、努めて軽く返事をした。彼の空気が突如重くなったからというのもあるが、何よりも今自分が考えていることが正しければ、彼は自分に対して悔恨の念があるのだろうと思ったからだ。 一見穏やかな会話ではあったが、彼が自分に対して何を思っていたのかは容易に想像がつく。 「ティントでのこと、俺はあなたに謝らねばならない」 「……」 正直なところやはり、と思った。 軍主殿に暴言を吐いたとき、彼はそばにいた自分がハイランド人だとは知らなかったのだ。ティントをネクロードの手から解放した軍主殿に彼は言った。今までの非礼を詫びよう、と。軍主殿は喜んでおられたが、しかし自分はどうだっただろうか。あの暴言が自分に向けられたものではないことは知っていた。しかし傷ついたことは確かだ。だがそれは詫びてもらうようなことなのだろうか。 「俺は流れの中のほんの小さな物しか捉えることができなかったんだ。アナベル様があってこその都市同盟なのだと信じて疑わず――」 「ジェス殿、もう宜しいのですよ」 彼が目を丸くしてこちらを見た。 「あなたは信じる道を進み、そしてその道が今わたしの道と繋がった…そういうことで良いのではありませんか?」 「しかしクラウス殿、俺がハイランドのことを悪く言っ」 「そもそも、この同盟軍とハイランドの王国軍との境界とはどこにあるのでしょうか」 静かに話したつもりだったが、彼は大人しく言葉を飲んでくれた。 自然と笑みがこぼれた。そう、自分は今正しいことを言った。 「ジェス殿、この同盟軍には様々な人間…以外の種族もまぁおりますが、それでもたった一人の人間を志すことで共に戦いを続けている。当然ハイランド人のわたしもそうですが、実はそれは王国軍に属していた頃より変わりないのです。つまり、境界というものは存在しないのですよ。誰が良くて悪いのか、そんなものは存在しないのです。ですから、ジェス殿がわたしに詫びる必要はありませんし、わたしもハイランド人として…生きることは許されなくとも、誇りだけは捨てるつもりはありません。」 ――あの日、夢にまで見るハイランド第三王国軍の敗戦の日。自らの命よりも将軍の命を優先させようとした自分。捕虜として捕らえられた時も自らの命を絶とうとした自分。死すら恐れぬ自分は一体何に支えられて来たのだろうかと考える。 その問いは、幾度反芻しても同じ答えが返ってくる。「誇り」だ。君主に最後まで仕えるという誇り。これは祖国ハイランドで育まれたものであり、対象は変わってしまったが、その実は何も変わってはいない。これこそが軍人としての自分が志すものであり、生涯不変のものなのだ。状況が変わり場所が変わり、時間も過ぎた。そしてその時間はこれからも流れ続ける。それでもこの誇りだけはどこにも行かず、常にこの胸にある。 「あなたも都市同盟の人間としての誇りを志すために戦うのでしょう。ならば、わたし達の道はやはり同じなのです。だからあなたは謝るべきではない――…むしろ、わたしや父を憎きハイランド人め、と罵って下さっても結構なのですよ?」 「クラウス殿―――…」 「…少々お喋りが過ぎました。今朝は少しゆっくりし過ぎたので、軍師殿もいい加減待ちくたびれているでしょう」 そう言って微かに笑ってみせると、彼はカップを手にしたまま、微かに目を細めた。 失礼しますと席を立とうとしたとき、カチャリとそのカップを置く音がした。―――これで彼を納得させることができたのかどうかは知らないが、試しに言ってみることにした。 「ジェス殿、今夜も遅くなるならば一言声をかけて下さい。……二人でやれば、もしかしたら四日連続は免れるかもしれませんよ?」 ちらりと覗うと、満足そうに頷く彼が見えた。 「―――…そうだな、その時はお願いしようか」 「はい、喜んで」 そう返して目を伏せる程度の会釈をした。そして、そのまま軍務室へと足を向けた。 形のない誇りとはいえ、やはり捨てるものなどでは決してない。現にそれは今、一人の人間の迷いを絶つのに充分に役立ってくれた。 この先、どれだけの時間が流れてもそれは変わらないのだろう。祖国はなくなれど、命ある限りは誇りという志一つでいつまでも生きてゆける。軍人とはそういうものだ。 「大丈夫、わたしはまだ生きている」 そう、この命ある限り尊い誇りもまた、いつまでも生き続けるのだ。 そして一つ、また一つと境界を無くしていくのだ。 END |