「ルックさま、もう飾りはつけないのですか?」
どちらかといえば塔の中で静かに本を読んでいる方が好きなルックが、こうして外で――しかも草原を枕にして――横になっているのは非常に珍しい。理由を尋ねれば「なんでもないよ」の一言で終ってしまいそうなものだろうが、今はそれを問う者もいないので本人には何も差し障りはないのだろう。
もう一つ加えて珍しいといえば、彼の横にまだ幼い少女が珍しそうにきょろきょろ辺りを見渡しているということだろうか。 「ルックさま、お空が青いです」 「うん」 「ルックさま、あのひらひら飛んでいるのは何ですか」 「蝶々だよ」 お世辞にも楽しい会話とは言えないものだが、少女は嬉しそうに次々と質問を浴びせた。 「この花の名前は何というのですか」 「今聞えるのは何の鳴き声でしょう」 質問自体も単純なものばかりだが、対するルックも愛想の欠片もない返事を淡々とするだけ。特に悪気があってそうしているわけではなく、ルックという人物がそういう性格なだけなのだ。 「ねえ、セラ…」 自分の名前を呼ばれて、少女はすごい勢いで振り返った。 「なんでしょうルックさま!」 寝そべっていた彼に対しセラはその勢いのまま顔を覗き込んだものだから、ルックは少々面食らってしまった。名前を呼ばれたことがそんなにも嬉しいのか、目の前の彼女は大きな瞳をきらきらと輝かせている。 ――まあこの天気じゃ開放的にもなるだろうけど… ここから見る空は青いし、陽の光を遮るものも何もない。おまけに色彩豊かに花が咲き乱れた草原で、鳥の鳴き声と蝶々がセットともなれば文句のつけようのない上天気スポットだ。 ルックは彼女で影になった目を丸くしたまま、まじまじとセラの顔を見返した。 「…嬉しそうだね、セラ」 「ルックさまと一緒ですから!」 子供ってやっぱり不思議だ。ルックは「いや、そうじゃなくて」と起き上がった。 セラはきょとんと首を傾げている。 「僕と一緒なのは塔の中でも同じことだろう。どうしたの、何かいいことでもあった?」 普段、塔の中でルックが本を呼んでいる時や師匠について勉強している時、はたまた考え事をしている時ですらセラは彼の傍から離れない。まるで親鳥を追いかける雛のようにも見えるが、それについて冷やかす者がいるわけでもないので、彼自身は気にも留めていなかった。もっとも彼女を連れて来たばかりの頃は、妙に暖かい視線を送って下さる師匠――実際、彼女の目にどう映っているのかはわからない――に舌打ちをしそうになることもしばしばあったのだが。 そのセラが今、やけにご機嫌なのがルックは気になっていた。自分と一緒だからというのは理由にならない。この上天気の所為と言われれば否定はできないが、それにしては少しはしゃぎ過ぎではないか。 「いいこと……やはりそれはルックさまです」 セラはそう言って傾げていた首を直して笑った。 「ルックさまにこうしてお散歩にさそっていただけたことが、セラはとってもうれしいのです」 ルックがセラを散歩に誘ったのはほんの気まぐれだった。 本を読むために下へ向けていた顔を、何かの拍子についと上げてみた。たまたま彼が窓際に置かれた椅子で読んでいたせいもあったのか、その拍子に外からの風が彼の頬を掠めた。 その風は紋章のそれとは違い、自然の恵みそのもので、あえて窓から覗かなくとも外の上天気を想像するのは容易かった。 ルックはその時、隣で本を読んでいたセラが自分と同じく外の風に目をむけていることに気づいた。 色素の薄い彼女の瞳は、もともと何を物語っているのか掴みにくい。子供が本来持ち合わせている喜怒哀楽の感情が彼女は少し、いやかなり欠落しているのだ。今回も何を見ているのか、何を考えているのか、ルックには掴むことはできなかったが、彼の口が自然と紡いだ言葉にセラは何度もぶんぶんと音をたてて頷いた。 「セラ、ちょっと外を歩こうか」 まさか、たかが散歩に誘ったことで喜ばれるとは思ってもみなかった。 「おさそいいただいたすこし前に、とても気持ちのいい風がお部屋に入ってきたのです」 セラはなおも嬉しそうに話し続ける。 「読んでいた本も面白かったのですが、その風が気持ちよかったのできっと外も気持ちがいいだろうなと思ったのです。 ルックさまは違うのですか?」 またこれだ。ルックは返答に困った。 確かにセラは喜怒哀楽の感情が欠落している部分があるが、たまにこうして無防備なまでの笑顔で自分を見てくる。 (それも子供、故(ゆえ)――か) ルックは自己完結で納得することにし、小さく溜め息をついた。 「僕のことは置いていてもね、きみは楽しくないだろう。僕はそんなにお喋りじゃないし」 昔の仲間であれば「それは嫌味か」の文句の一つも飛んできそうな言葉だが、セラは全く気にしないようだった。 「いいえ、うれしいのとたのしいのは似ているけどちがうと思います。セラはこうしてルックさまのおそばにいれるだけでうれしいです。それに……」 「それに?」 「…わたしはたのしいということがどんなものなのか、よくわからないから」 正直、失敗したとルックは思った。彼女の感情の欠落は一体何が理原因なのか、それは自分もよく知っていたはずなのに。セラはそのまま俯いてしまった。 「さっき…額飾りのことを言ってたよね」 ルックはそう言ってまた草原に横になった。 「あれはセラを連れて来る前…まだ僕の髪も少し長かった時だよ。百八の星が集まった時があった」 「……レックナートさまから聞きました。ルックさまもその星の一つだったと」 ぽつりと聞えるセラの声は小さい。 「僕が星に選ばれたのは二回。百七の星は僕の仲間…と呼んでもいいのかな、少なくとも彼らは僕をそう呼んでいたから。……その度に僕は夢を見ていたよ」 「ゆめ、ですか」 「今となっては叶わぬ夢さ。結局は自分自身でしか運命は動かせないって思い知ったからね」 そこまで言うとルックは口を噤んだ。とはいえ、セラも続きをせがむ様子はない。しばらくの間耳に入るのは草花が風に揺れる音だけだった。 「――…髪を短くしたのは百七の星と決別を決めた時だった」 ルックのようやく開いた口から聞えた声は、それまでよりもずっと硬い声だった。 「その時に額飾りも一緒に外したんだ。セラが言うように似合っていたかどうかは知らないけど、思い入れがあったわけじゃないからすぐに捨ててしまった。……過去に囚われるものはできるだけ切り離しておきたかったんだ」 「…なぜ、そのようなことをされたのですか?」 いつのまにか俯いていた顔を上げ、セラはまたルックを覗き込むようにしていた。そこには決して笑顔はなく、お互い読めない表情のままだった。 「僕もセラと一緒で、楽しいということがよくわからなかったんだ。でも星が集まり共に戦ったあの日々、あれが楽しいということだったのかもしれないと気づいた時……これからの僕に楽しいことは要らないと思ったから」 だからあの飾りは捨てたのだと。ルックは表情を崩さずに言ってのけた・ 楽しいことばかりが全てではない。むしろそれが足枷となって進むことができなくなってしまうこともある。思い出と呼ばれるものが、これから果たすことになるであろう目的に必要であるとは限らないのだ。 「ごめんセラ、きみはこんな僕のそばにいても楽しいことがあるはずはないんだ」 そう言ってルックは表情を崩したが、それは嘲笑のために歪んだ口もとのせいだった。 自分を覗き込んでいたセラの顔が離れた。そしてそのまま何も言わず走り去ったことを、ルックは音で聞いた。 どれくらい時間が経ったのだろうか。陽はだいぶ高くなっていた。 ルックはゆっくりと体を起こした。 (あれ、寝ちゃったのか……) まだ覚醒しきっていない目をこすりつつ、ルックは先刻の記憶に行き着いた。 「セラ!」 あのままどこか目の届かない所にでも行ってしまっていたらまずい。空間移動は禁じているし、ここは安全なものだけがあるわけではないのだ。 (また失敗した! なんですぐに追いかけなかったんだよ!) ルックは自分に舌打ちをしながら立ち上がった――はずだったのだが。 上着のすそが引っ張られて再度草原に腰を下ろすことになってしまった。「なんなんだよっ」と毒づいた彼だったが、次の瞬間にはそれを飲み込まなくてはならなかった。 セラが彼の上着の裾を握り締めたまま寝息を立てていた。 力いっぱい握り締めている手は、まだ本当にちいさく、誰がどう見ても子供のものだ。 ―――――僕もどうかしている。 一体なぜ、あんな話をこの少女にしてしまったのだろう。「楽しいことがあるはずはない」などと最初から夢を見させないことを言ってしまったのだろう。 セラはまだ子供なのに。 「きみには僕と違う道が用意されているかもしれないのにね」 その時だった。 「そんなのは嫌です。」 ルックの言葉に反応するように、セラがぱちりと目を開けた。 …寝たふりか。 ルックは一体誰が教えたんだこんなこと、と思ったがここはあえて黙った。 セラはルックが眉根を寄せているにのも気にせずに起き上がり、いつのまにか傍らに置いていた花飾りを取り、彼の頭に乗せた。 「……何、これ?」 「花冠です。ルックさまが寝ていらっしゃる時に作ったのですが……でもすこし小さいですね、すいません」 セラは本当に申し訳なさそうに頭を下げた。 「花冠はわかるよ。…… これを僕に?」 それは確かにかぶるのには少し小さい冠で、ルックの頭には置くことしかできない程度の大きさだった。 「額飾りの代わりです」 「は?」 「ルックさまは過去といっしょに飾りをすてられたのでしょう? ならばあたらしいものがひつようです」 何を言っているのかこの少女は。ルックは首を傾げた。 「言っただろう、百七の星と違う道を選んだ僕に過去は必要ないって」 「ルックさまの道はセラの道です。ならば同じ道をゆくセラとの過去はつくってもよいのではないでしょうか」 セラは変わらず首を傾げるルックににこりと笑った。 「ルックさまがたのしいことを捨てられたのなら、セラもひつようありません。ほしいとも思いません。ただ、ルックさまのおそばにいられるうれしい気持ち、これだけはなくしたくはないのです」 これくらいはよろしいでしょう? 彼女の瞳はそう物語っていた。 嬉しいことと、楽しいことは少し違う。さらに自分は楽しいと感じた日々とは決別する道を取った。そしてそれは時が満ちるまで変わらず進みつづけるのだろう。 目の前で微笑む少女は、彼女に眠る数少ない感情の中で精一杯の、そして最上級の笑顔でそれを受け止めると言った。呪われた自分と共に歩くと言った。 ――こうなることを望んで連れて来たのは僕の方だったのにね。 ルックの声にならない呟きは、小さな感傷として彼の喉元に留まった。 セラはこんな自分と一緒でも嬉しいと言った。そして自分と過去を作っていこうと言ったのだ。 自分の中にまだ嬉しいという感情が残されているのなら、もしかしたら今胸を浸すこの不思議なものがそうだったのかもしれない。ルックはそう思うと自然と笑みがこぼれてくるのを押さえることができなかった。 「セラ、やっぱりこの花冠はいらない」 ルックは花冠を頭から外し、そのままセラの頭にかぶせた。それはは彼女には丁度良い大きさで、彼女の綺麗な金髪は赤や青の花が良く映えた。 「ほら、セラの方が似合う」 それに、と付け加えて立ち上がる。 「僕たちのこれからに『かざり』はいらないだろう?」 ルックはおいで、と左手を差し出した。 「……そろそろ戻ろう」 セラは暫く自分の花冠とルックの左手とを交互に眺めていたが、やがてにっこりと笑った。 「はい、ルックさま!!」 彼の左手を嬉しそうに握り締め、もう片方の手で花冠が落ちないようにしっかりと押さえた。 何やら笑いながら戻った二人に、レックナートが「楽しそうですね」と口にしたのが聞えたかどうかは定かではない。 しかし、二人のその姿は誰がどう見ても―― END |