太陽の加護 戦乱が終結してからこちら、不思議なほど早くに新体制が整ってゆき――当然、全てが簡単にというわけではなかったが――これはもう何かの加護があってのこととしか思えない日々が続いた。ファレナの守護神のおかげという話をよく耳にしていたが、よく言ったものだと他人事のように当事者は笑う。むしろ守られているのは僕の方なのに。
そろそろ寝ようかと、枕元の灯りを消すために身体を起こす。そこでふと耳を澄ますと、石床の上を歩いてくる足音に気がついた。おそらく一生懸命足音を消しているのだろう、そう判るほどにたどたどしい足音がどんどん近づいてくる。 それが扉の前で止まると、軽く笑みがこぼれた。 「――開いてるよ、入っておいで」 声をかけられるでもなく、扉を叩かれたわけでもなく、それでも扉の向こうにいる人物を呼んだ。そこから覗かせるだろう顔にはとっくに見当がついている。 「あ、兄上…こんな夜分にすまないのじゃ……」 申し訳なさそうな声を出し、半分ほど開いた扉からひょっこり顔を出した人物はやはり予想通り。なかなか入ってこようとしない明日には女王になるという妹姫を手招いて、王子はにっこりと笑ってみせた。安心したのかぱっと笑みを広げた姫は、そうっと扉を閉めて、とたたたと軽い足音を立てて駆け寄ってきた。 「もうお休みになっておったのか?」 「ちょうど寝ようと思っていたところだよ。 リムはどうした? 眠れないの?」 本当は訊ねなくとも知っていた。姫が寝室を抜け出したことを、ミアキスが気づかないはずがない。王子の部屋の扉が開いたことに、リオンが気づかないはずがない。それでも両者が咎めに来ないのは、二人も姫がここへやってきた理由に行き当たっているからに違いなかった。 寝衣を握り締めて何かを言おうと逡巡する姫の手を取り、王子はかけていた夜着を持ち上げた。 「眠れないなら、いつかみたいに一緒に寝よう」 ほらおいで、と少しだけ横に詰めてもう一人分の場所を作ると、姫は嬉しそうに頷いた。 最後に一緒に寝たのは数ヶ月前、ルナスで清めの儀式のあとだった。あのときは母も父も健在で、妹が明日にも女王になるという事態はとても想定できなかった。 ――それだけ、幸せだった。 「……兄上」 顎のあたりにあった妹の頭が見上げるように動いた。どうかしたかと訊くと、話をしてもよいか、と言ってきた。王子はもちろんと返事をしたのだが、しかし姫はなかなか話しはじめようとはしなかった。少しの間が空いて、姫は王子の寝衣をきゅっと握り締めてから、ようやく口を開いた。 「母上が言っておったことを思い出したのじゃ。 わらわの名のもとに何万という兵が集い、死んでゆく。 わらわはそれを知っておったのに、親征を宣言したのじゃ。 けれど戦は終わらず……のう兄上、わらわは一体どれだけの民を死なせてしまったのかのう……」 今となってはもう遠い昔に感じられる闘神祭、そのとき確かに母は言った。争いを見ているとお腹が痛くなるという姫に、女王という立場を諭しその意味を理解せよと。姫はその言葉を受けて、確かに女王たる資格の片鱗を見せてはいたのだが。 しかし、まさかそれがこんなにも早く現実になるとは、あの場にいた者は誰一人として考えていなかっただろう。母と父にはそれなりの覚悟が常にあったのかもしれないが、少なくとも自分と女王騎士たちには。 「親征のときはわらわも必死で、とにかく兄上に会いたい一心で部隊を進めた……。 じゃが、わらわを守ろうとして死んだ者たちは、果たして本当にそれを望んでわらわのもとに集ったのか? 民を守れない女王を守るために? 戦は長引き、決して兄上と敵対したいわけではなかった者たちまでをも死なせ、それでもわらわはファレナの女王なのか? ……それを考えると、今になってお腹のあたりがきゅうっと痛むのじゃ」 掴んでいた寝衣をさらに強く握り締める。そのちいさな拳が小刻みに震えていて、王子は安心させるようにそれに手を重ねた。それでも震えが止まらない姫は、ちいさな声で搾り出すように呟いた。 「――…あのとき、叔母上が兄上を裏切らなければ、こんなにたくさんの民が犠牲になることはなかったはずなのに」 暗い、沈んだ声だった。 そこにどんな感情が含まれているのか、王子には判らない。裏切った叔母が太陽宮で姫とどんな話をしていたのか知らないし、あえて聞こうともしなかった。けれど、叔母付きの侍女たちは口をそろえて言ったのだ。殿下、どうかサイアリーズ様をお恨みにならないで下さいまし。 そのことを姫が知っているかどうかも、王子は知らない。幼い妹はちいさな身体いっぱいに苦渋を味わったのだ、知っていてもそれがどう転じるわけでもないだろう。それに裏切った事実は変えようがない。あの日、王子は確かに裏切られたのだ。 けれど、王子は涙ながらに訴える侍女の顔を忘れないし、彼女の墓の前に立つゲオルグとカイルの背中を忘れない。何よりも、叔母の最期の顔が忘れられないのだ。 王子は、それらが何を意味するか知っていた。 「――僕たちは王族でありながら、たくさんの民を死なせてしまった。 だから今を生きるファレナの民にするべきことはたくさんある。 だけどね、リム……いくら民のためとはいえ、僕たちが絶対にしてはいけないことが一つだけある」 寝衣を握り締めたまま見上げる姫と目を合わせる。不思議そうな表情で次の言葉を待つ姫に、王子ははっきりと言った。 「叔母上を恨むことだ」 「あ、兄上……っ!」 「ファレナの民、誰しもに叔母上を恨む権利があるだろう。 叔母上のしたことで戦は長引き、たくさんの民の命が散っていった。 だけど、僕とリムだけはそれを恨んではいけない。 あの人が為したことは、今ある僕たちのためだったんだから」 王子は女官から、ゲオルグとカイルの背中から、叔母の最期の顔から、すべてを知った。 確かにあの親征の日、サイアリーズが去っていったときは裏切られたという衝撃が強かった。だが、残された結果を見ると彼女の思惑が手に取るように理解できたのだ。 あの戦の後、姫の手が断罪の血で汚れぬまま明日の戴冠式を迎えることができるのは、戦という波が全てを帳消しにしたからだ。ファレナの統一を図ることができ、周辺諸国の理解を受けて、断罪の血が女王家に流れることなく敵を消し去ったのは、実は戦争の功績なのだ。 あの親征の日、戦が終わっていたらどうだろう。多くの人々は死なずに済み、王子も姫も苦しまずに済んだことがたくさんあったのかもしれない。けれど女王家に反する貴族はそのまま存在し続け、ゴドウィン家を一掃するのも不可能だっただろう。周辺諸国の理解を取り付けるまではゆかず、アーメスとはいまだにらみ合いを続けていたに違いなかった。 戦の力は大河の流れ、しかし幼い女王と若い王子の手は、断罪を流してしまうほど大きな河には成り得ない。 王子は、それを知った。 「今、リムの手は綺麗なままだ。 だけど、その分だけ叔母上は血にまみれてしまった。 叔母上はあの日のファレナの民よりも、それよりずっとずっと先の僕たちのことを想ってくれたんだ」 「じゃ、じゃが兄上、王家の人間たるもの民を平和に導かねばならぬ! 叔母上のしたことは間違いじゃ!」 「だから、だ。 叔母上のしたことはファレナの民にとって許されるものじゃない。 だから僕たちだけは、その理由を知っている僕たちだけは、あの人を恨んではいけない」 姫の、王子の寝衣を掴む手が緩んだ。けれど震える手はやっぱりそのままで、王子はそれを両の手でしっかりと包み込んだ。 「叔母上はたくさんのファレナの民を死なせてしまった。 けれど、その叔母上を死なせてしまったのは僕だ」 「あ、兄上のせいではない…! あれは、黄昏の紋章のせいだったと聞いておる! だからリオンも本当は……」 「違うよ。いや、確かに紋章のせいであったかもしれない。 だけどファレナの民は王子が裏切り者を討ったと言うだろうし、それで満足だろう。 ……だから僕はそれでいい」 理解する前に死なせてしまったあの人を、死なせてしまったという業を背負うことで理解したい。 父を手にかけてしまった母は、紋章の圧倒的な力の前に自身を流されてしまった。けれど、生きていればきっと母も同じだったはずなのだ。父のために、業を背負いながら生きてゆく。たとえ故人がそれを望まなかったとしても、悲しすぎる現実はそうでもしないと向き合えないのだ。 今、自分はどんな顔をしているのだろう、と王子は思った。視線の先にある姫の目がみるみるうちに揺れてゆく。ああ、僕はそんなに悲しい顔をしているのだろうか。 「わらわも……本当は知っておったのじゃ。 叔母上は、兄上はぜったいに負けないと言っておった。 叔母上は、いつだってわらわ以上に兄上を信じておった」 「そうだね」 「……兄上、わらわは叔母上に謝りたいのじゃ……!」 「うん、僕もだ。 だけど叔母上はもうここにはいない。 母上や、父上のもとへいらっしゃるんだ」 「……母上と父上のもとに?」 「そうだよ」 王子はふわりと笑う。もしかしたらそれはとても笑顔に見えなかったかもしれない。それでも王子は微笑んだ。姫は王子の胸にすがりついた。震える手は全身を伝い、王子をも震わせた。 「叔母上は地獄になぞ墜ちておらぬな? 母上や父上がそのようなところにおるはずがない。 叔母上は、叔母上は…」 「大丈夫だよ、リム。 みんな、太陽の加護のある明るい場所から、僕たちを見ているよ」 矢継ぎ早に言う妹の背中を、なだめるようにぽんぽんと叩いてやる。 「だから僕たちは謝るなんて自己満足よりも、母上たちみんなが望んだファレナを作る努力をしていこう」 「あにうえぇ……」 「大丈夫、大丈夫。 リムのことも、みんな解っているよ……」 いつの間にか姫の震えは嗚咽に代わり、王子の寝衣が涙を吸い込んでゆく。 まだ幼い妹は、明日には女王になる。もしかしたら、もう兄と妹としての会話がなくなるのではないかと、不安だったのかもしれない。だから戴冠式の前夜に、こうして訪ねてきたのだろう。頼れる母と父はもうなく、本当は叔母のことだって信じていたかった。その不安定な感情が、この涙なのだろう。 けれど、そんな心配は杞憂だのだと伝えてやらなければならない。 「リムはずいぶん泣き虫になったなぁ」 「べ、別に良いのじゃ! 明日からは女王になるのじゃ、もう兄上に甘えることはできぬ。 だから…」 「いいんだ」 「え?」 涙でぐっしょりの顔を上げ、きょとんとした表情で兄を見る。それは高貴な人間の顔には見えなかったが、リムスレーアという新しい女王の存在を象徴しているようでとても微笑ましかった。 「リムは、リムらしくファレナを良い方に導こう。 疲れたり、泣きたくなったりしたら僕のところへおいで。 お腹が痛くなったときでもいいよ。 そのための女王騎士長代理で、僕はリムのたった一人の兄なんだから」 「兄上……」 すん、と鼻をならして兄の肩口に頭を預ける。その姫の様子はまだまだ幼く、可愛らしかった。王子は目線だけで何かと問うと、 「大好き」 それはとてもちいさな声で。 けれど、きっと見守ってくれている彼の人たちのところへはしっかりと届いただろう。 寄り添っているちいさな身体から静かな寝息が聞こえてくると、器用に手だけを伸ばして枕元の灯りを消した。そして王子はゆっくりと目をとじる。無意識に動いた手が、たった一人の妹の髪を梳くように撫でた。あまりのすべらかさに笑みがこぼれる。そして、思い出す。 ああそうだ、母上と父上もこうして僕を撫でてくれた。抱きしめてくれた。笑ってくれた。よくやりましたね、頑張ったな、と褒めてくれた。そなたは父のような男になるでしょう、お前は母に似て美しい。なんと自慢の息子だろうと、褒めてくれた。僕はそれがたまらなく嬉しくて、誇らしくて。 だから、僕もこの妹を大切にしよう。辛いときには髪を撫で、抱きしめてあげよう。嬉しいときには一緒に笑ってあげよう。よくやった、頑張ったと励ましながら生きていこう。母よりも気高く、父よりも毅然で、なんと素晴らしい女王だろう。何よりも自慢の妹だと、お前を守れて僕は幸せだと、大声で誇ってあげよう。 真っ暗なまぶたの裏に一つの光が浮き上がる。その手前で微笑む母と父が、叔母が映し出された。そして彼らをとりまくようにしていたマルスカールやギゼル、ザハークにアレニア、そしてたくさんのファレナの民がその光の方向へ歩いてゆくのが見える。太陽の光か、大河のきらめきか、その光が一体何なのか、王子には判らない。 「……、」 母を、父を、叔母を呼ぼうとした。けれどその声が決して彼らに届くことはないことを、王子は知っていた。一人、また一人と光の中に吸い込まれると、その光はどんどん大きくなってゆく。やがて母と父、叔母も穏やかに笑いながら光の中へ歩き出した。一歩一歩が遠くなるたび、光は大きくなる。 王子はそれを最後まで見届け、やがて光が太陽のような大きさになるのを見た。彼らは、その光の向こうからこちらを見ているに違いない。傍らに眠る妹と共に歩むファレナを見守っているのだ。 大きな光は、太陽の加護となって。 「ああ、そうか」 王子は唐突に目を開けた。灯りの消えた部屋は暗闇そのもので、太陽の光などどこにもない。 けれど眩しさに目がくらんだように目を細めた王子は、寝ている妹姫に囁きかけた。 「リムスレーア、彼らは太陽の加護のある場所にいるんじゃない」 いつだってこの国を憂い、この国の民を愛し、自身の信念のもとに流れる大河とともに戦ってきた彼ら。 その彼らが。 「彼らこそが、太陽の加護なんだ」 f i n . |