インソムニア
(ああ、どうりで暗いと思った。) ルックはぱたんと本を閉じた。几帳面な彼のこと、当然しおりを挿めることは忘れない。 窓の外を見上げると、いつの間にか月が顔を出していた。確か本を開いた時には、同じ場所に太陽があったと思うのだが。思いのほか、読書に熱中していたらしい。 (時間にして……真夜中、くらいか。) あまり関係ないけどね。誰ともなしにルックは呟いた。 ルックは通常、睡眠をあまり取らない。それは不眠症というわけでは決してなく、理由をあえて挙げるとすれば、彼の右手が原因であることは間違いない。本人曰く呪われているというその右手は、幾夜もわたり彼に悪夢を与えつづけていた。逃げることは不本意だったが、嫌気がさしてしまうのは当然のことで。彼にとって眠ることとは、いつの日か拒絶するものになり、それが習慣となってしまったのだ。 本人にしてみればたかが睡眠、眠らないことなど大したことではないのだろう。しかし体というものは彼自身が考えている以上に正直で、間違いなくそれは体力を削ってゆく。過去の戦争に身を投じていた頃は夢を見ることなく深い睡眠を得ることができたが、この穏やかな魔術師の塔ではそうもいかない。 静か過ぎる夜は、逆に彼を落ち着かないものにさせていた。 窓の外の月は少し欠けていて、しかし情緒を語るには十分な光を放っていた。ルックは眉を寄せ小さく舌打ちをした。 「半端な光だ。もっと明るければ夜を忘れられるのに。」 彼の言葉は月に届くはずもなく、嘲笑うかのように静かな夜闇に消えていった。 ルックは軽く溜め息をつくと、のろのろと寝台へと足を向けた。やるべきことは山ほどあるが、体力を補うほどの精神力は、今の彼にはまだない。とりあえず体を休めるくらいのことはしなくてはと思ってのことだったが、しかしルックは眠るつもりは毛頭なかった。 その時、微かに扉の外で物音がしたような気がした。 塔全体に張られた結界が破られた様子はない。つまり、外部からの侵入はまず有り得ない。現在この塔の居住者はルックを含め三人だけ。そして、師がこんな真夜中に弟子の部屋を訪れるとも思えない。となると、残る選択肢は一つだけ。 「―――…セラ?」 扉の外に小声で呼びかけると、慌てたようなガタガタという音がした。そして次の瞬間には、バタンという大きな音と「キャッ」と小さな悲鳴が聞こえてきた。 予想通りの人物の声に、ルックは寝台に向けた足を扉の方に戻した。 「セラ、どうかした――――」 扉を開けたルックの足元には少女が一人。案の定、セラがうつぶせになっていた。 「転んだのか……大丈夫かい?」 そう言ってセラに手を差し出すと、彼女はおずおずと顔を上げ、その手を取った。ルックはそのままセラを引き上げると、屈んでスカートの裾についた埃を丁寧に払った。 「……もうしわけありません、ルックさま…」 頭上より、本当に申し訳なさそうな声が落ちてくる。 「謝らなくていいよ。僕もおどかしてしまったようだし。」 「…でも……」 「いいってば。そんなことより、どこか痛いところは?」 先ほど聞こえた音は結構大きなものだった。どこか怪我をしていてもおかしくはない。何よりもセラはまだ小さい。転んだ衝撃に驚いただけで泣いてしまってもおかしくないほど、小さい女の子なのだ。 ルックは心配そうに見上げると、セラは表情を変えることなく首を横に振った。 「………だいじょうぶ、です。」 まだ沈んだ声だったが、とりあえずセラに怪我がないことにルックは胸を撫で下ろした。 「それなら良かった。とりあえず中にお入り。」 ルックは立ち上がり、そのままセラの手を引いて部屋の中へ招き入れた。 「――――で、何故あんな所にいたんだい?」 とりあえずルックは先刻自分が読書をしていた椅子にセラを座らせた。しおりを挿めた本はそのままテーブルの上に置いてあり、セラはそれを見てますます顔を曇らせた。 「こんな夜中に…とっくに休んだものだと思ってたんだけど。」 「……もうしわけ、ありません。」 「別に責めてるわけじゃない。」 そっけない言い方でも、表情からはトゲトゲしい空気は伝わってこない。それでもセラは首を横に振り、「もうしわけありません」と繰り返すばかりだった。 「だからいいってば。僕に何か用?」 そういえばこの言葉を使うのも久しぶりのような気もする。ルックは知らず苦笑した。セラはそんなルックとテーブルの本を数回見比べて、おずおずと口を開いた。 「ルックさま、本を読んでいらしたんですね……」 「…え?ああ、まあね。今日はもう終わりにしたけど。」 しおりが挿んであるだろう、と開いて見せる。「今日はここまで読んだんだ。続きはいつでも読める。」そう言いながらも、セラの様子をうかがうと、やはり晴れた顔にはなっていない。自分が読書の邪魔をしたと思って沈んでいるのかと思いきや、どうやらそうではないらしい。 「では、お休みのところを…」 ああ、そうか。どうやらこの少女は自分が物音を立てたせいで読書かまたは睡眠の邪魔をしてしまったと思っているらしい。 「言っておくけど、寝ていたところを起こされたわけでもないからね。確かにそろそろ休もうかと思っていたけど……どのみちまだ起きてたんだよ。」 そう言いながらセラの顔を盗み見ると、ようやく微かな笑顔が戻ったようだった。それは年相応なものとは決して呼べないけれど、ルックには十分なものだった。 「じつは、こわい夢をみたのです。」 セラはぽつりと口を開いた。 「とっても、とっても、とっても……こわい夢だったのです。」 ゆめ、と聞いてルックは思わず自分の右手に目を移した。 (ばかな) セラが言っているのは子供の見る単純な恐い夢であって、自分の右手の悪夢とはあくまでも異質だ。ルックは浮かんだ考えに首を振り、右手を握り締めた。 セラはルックの様子には気がつかず、続きを話し始めた。 「お外が、まっくらなのです。」 ――――ドクン。ルックの心臓が嫌な音を立てた。 「それで、セラはびっくりしてルックさまを探したのですが……」 「僕は、いなかったんだろう。」 ルックが言葉に繋げるよう言うと、セラは困ったようにルックを見上げたが、やがて小さく頷いた。 なんてことだ。ルックは知らず知らずのうちに眉を寄せていた。 (セラが見た夢は僕の見る未来図と類似している。いくらなんでも未来を覗く力を持っているとは思わなかったけど――――) 右手の悪夢と同じものがこの少女には見えるのか。 「――――僕だけじゃない、みんな、誰もいなかっただろう?」 暗く、静かな無機質な世界。それ見た少女はどう思っただろうか。ルックは心臓を鷲掴みにされたような気分になった。 しかしセラは相変わらずルックの様子には気に止めていないようで、 「知りません。」 答えはたった一言で、かつ単純だった。 「セラはルックさましか探さなかったので、他の人がいたかどうかは知りません。」 「―――…え?」 「ルックさまはいつもお呼びすれば答えてくださるのに、夢の中では答えてくださいませんでした。ルックさまがいないと、セラはひとりになってしまう―――…」 そこまで言うと、セラは大きな瞳から涙を一つ、また一つと零し始めた。 「ひとりはいやです。ひとりはこわい。ルックさまがいなくなるのは、とてもこわいのです―――」 目の前の少女は、自分がいなくなることが恐怖だと言って泣いている。 暗い世界よりも?音のない世界よりも?彼女はその世界において、自分だけをまっすぐに探し歩いていた。 「目が覚めてお外を見たらやはりまっくらで…月が出ているのを見て、夜だからだと知ったのですが……」 「…それで僕を探しに来たのかい?」 ルックがそう言うと、セラは嗚咽で震える肩をそのままに、何度も何度も頷いた。 「お部屋の前まで来たのですが、でも、もしお呼びしてもルックさまが答えてくださらなかったら…こわくて、こわくて―――」 「ずっと部屋の前で迷ってたのかい?」 「―――はい。」 ルックは長い、長い溜め息をついた。 (どうやらセラが見た夢は僕の夢とはやはり異質らしいね。) 彼女がみた世界が、ルックの見る未来と同じものだったかは結局はわからない。セラにとって「ルックのいない世界」が、ただの無機質な世界に比喩されて夢に現われただけなのかもしれない。 それでも。 「セラ、僕はここにいるよ。」 まだ何も成し遂げていないこの世界で、そう簡単に消えてたまるか。 やるべきことはたくさんある。 ましてやこの少女を置いてなどいけるわけがない。 「僕にはセラが必要なんだから。」 その時、ルックがどんな顔をしていたのかはわからない。 ただ、セラが彼を見て、彼の言葉を聞いて、花が開くような笑顔を見せたことは確かだった。 その夜のルックの寝台は、本来の持ち主ではなくセラが独占することとなった。 彼女の精神がまだ不安定なようだったので、ルックがあえてそれを勧めたのだった。 「ルックさまのお部屋は風のにおいがします。」 「―――…そう?自分じゃ気がつかないけど。」 「セラはこのにおいが大好きです。セラはルックさまのおそばにいるのが一番すき―――……」 どこにも行かない約束として、セラが寝るまで手を繋いでおくと言ったのだが、眠りの妖精は一瞬で舞い降りてきたらしい。手を繋いで間もなく、彼女から小さな寝息が聞こえてきた。 「僕のそば―――…ね。」 ルックは自嘲まじりの溜め息をついた。自分のこれから歩む道は、それこそセラの見た暗い世界よりも暗いのかもしれない。それでも、彼女は自分についてくるのか。 「僕の望みとは少し違う気もするんだけどね。」 そう呟くと、珍しいことにルックは一つ欠伸をした。どうやら、眠りの妖精は彼のもとにもやってきたらしい。 (あくまでも僕は「ついで」なんだろうけど) すやすやと眠るセラの寝顔を見ると、どうしてもそう思えて仕方がない。そして、そんなことを思う自分が妙に可笑しい。 「予定変更、かな。」 ルックは眠るつもりはなかった予定を、繋いだ手の中でこっそりと訂正した。 なぜか今日に限っては悪夢を見る事はない、そんな予感がしていた。 END |