I feel fin of silent







世界が眠る夜。外気温とさほど温度の変わらぬまで冷え込んできつつある一室に、彼は一人籠もっていた。少年めいた容貌は、しかし不相応な影を翠の双眼に宿す。
窓の外は、漆黒。
奏でられる音は、寂寥。
彼は資料を検索する手を止めない。机に広げた複数の書物のページをめくり簡素な紙に目的の文章を書き写していく。時間帯が時間帯のため頼りにできる灯火は机の上の蝋燭台だけだが、資料を閲覧しつつの事務をこなすには頼りない光量だ。しかしそれを彼は改善とようとはしない。黙々と腕を動かしている。終わらせればそれで良いのだと、そう処理しているからだった。
彼がいま手掛けている資料は、彼の昇進に関係してくる類である。凡人から見れば、志を持つ者ならば尚更にそれは栄光極まりない役職―――ハルモニア神聖国神官将という国の根幹を掌握する類い希なる任だへの道だ。しかし、彼はだからといって死に物狂いになっているわけではなかった。むしろ印象的見解は切り捨てた客観的な見方で以て見据えているに過ぎない。それもそのはず。彼にとってこの昇進は最初から適うと約束されていたも同然であったのだから。自分の力量と、そして軍師たる男の力で。
これは通るべき道の一端に過ぎない。その事を誰よりも重く彼は解っているからこそ冷静であった。
そもそも、本来なら“ここ”に居ること自体が苦痛でしかない。それを今は抑えている―――抑えていた。少し気を抜けば吐き気がするし、かつてに関係する文書に触れれば回顧が脳裏を過ぎって平生を壊されそうになる。そう、彼にとっては嫌悪の塊でしかないのだ、この場所は。
屈辱を殺し、名と経歴を隠し“ここ”に潜入した。そして一人の候補生として、強大な力を把握するには手っ取り早い“神官将”の座を目指した。それが達成されるまでは思いの外早く、気付けば彼に向けられる視線は好奇と妬みだらけというような、異例の速度の昇進への異質扱いがなされていたのだが。……それもどうでも良いことだ。
ただ1度。偶然出会した、彼の兄とも呼べる人物が向けたきた眼差しが気に食わなかった。仮面で顔を覆った彼へ、まるで珍獣を見るような目をした。実際は表に出た変化であったわけでなかったのだが、それくらいの心境変化は彼には容易に読み取れたのである。心の底から兄が憎く思えた。何も知らないからと沸き立つ感情を宥めるのも甚だしい。
蝋燭はその身の大半を炎に当てられ、燭台の上で指の関節1つほどの高さまで溶け落ちている。彼が無心に資料へと手を走らせる間にも、非常にゆっくりとしたはやさで蝋は溶けていった。炎の周辺のものから蝋は透明な液体と化し、ゆっくりと残り僅かとなった蝋燭を滑っては白くなって固まった。
燭台には溶け落ちた蝋が不細工な造形として波打ちながら重なっていく。役目は終えたのだから、そんな醜悪な外見だって構わないのだ。
(必要とされなかったのならば……形を為す意味もない…)
ふと顔を上げた先に見咎めた燭台上の光景を、彼は感情の無い顔を見つめた。風もないのにゆらりと揺れる炎は、彼の白い顔を赤く照らす。炎の暖かさ、けれども彼の顔には変化がなく、蝋人形そのもののようで。そして彼自身があながち間違いではないと嗤うのだけれど。
「ルック様」
彼…ルック以外の気配が、扉をノックする音と共に1つ増えた。
「入れ」
単調なトーンでルックは応える。おおよそ物怖じという言葉を知らない態度――言葉にして尊大であるわけでなく、決して自らを跪かせようとしない――で入室してきたのはアルベルトだった。くすんだ紅い髪と、知性さえ伺わせる奥を見せない目を持っていた。軍師の名門シルバーバーグ家の血筋をされる彼は、目下ルックの部下に当たる。もっともそれは疑似同盟に過ぎなかったが。
「火の1つも灯さずに…勤勉なことです」
いつものことでルックは顔を合わせない。扉の隙間から侵入していた回廊からの光が途切れたあと、アルベルトはその場から動かず静かに口を開く。
彼の言う通り炉を取るものがない部屋は、廊下の気温と大して変わりなかった。部屋の主がそうしているとはいえ、この環境下で動き続けて効率を問われればあらゆる側面にマイナスだ。もちろんそこには身体面も含まれる。
軍師としての視野は何も戦場だけに生きるのではない。そこにまで繋がるありとあらゆる物事に対し、そこに支障が出るようであれば処分する事も厭わない。感情的動機というよりは、理論的動機が彼の言動になる。
ルックは聞こえていないようにアルベルトの言葉の後も書物のページを捲っていた。
そうして数分が経過した頃だろうか。ルックはようやく手からペンを離した。
「………」
アルベルトが静観している――待たせている――前で、しかしルックが直ぐに顔を上げることはなかった。ペンが離れた手は次は数十に及ぶ書き留めの紙を拾い上げ纏めて束にしていく。机の上でタンタンと端を整えて紐で端を括った。
急ぐこともしない、動きはあくまで静かであるだけだ。彼のペースで纏め上げた資料を片付けていくのである。
事に切りを付けて引き上げるつもりなのだと、判ったからアルベルトは口を出さなかった。ルックの意志に差し出がましく割り込ませるつもりは毛頭無い。
それにルックがこの作業を終えたあとにもう1つ、往くべき場所があると言っていたことが念頭にある。ハルモニアに関わる強制された行動ならともかく、それを放置することはまずないだろう。
「おまえは時間にうるさい」
すっかり机の上を整理して、椅子から立ち上がったルックはアルベルトの方へ向かう。
アルベルトが執務中のルックの元に現れたという事は、それだけで十分彼の言わんとしていることが読んで取れる。ルックの言葉にアルベルトは淡々と答えた。
「あなたの行動に支障が出ないよう、軍師として最小限の忠告までです」
実にらしい発言だとルックは思う。―――人間味がなくて良いではないか。要らぬ干渉もこの男はしない。人との接触を厭うルックには願ってもない要素であった。
「ああ、出掛ける」
「その方が宜しいでしょうね。人を待たすのは得策でありませんから」
アルベルトの側を横切って、ルックは扉のノブに手を掛けた。そして回す。カチャリという無機音は、静まりかえった廊下にもよく響いた。
「あの男がそこまで勤勉とは思えないがな」
皮肉めいた言葉。けれど表情に変化はなかった。
回廊へと身を移す手前で、ルックは思い付いたように肩越しに部屋を振り返る。正しくは机の上の、光源の役割を果たしていた燭台へと。そこにはまだ僅かなれど炎が揺れている。ルックが視線を合わせて幾ばくもしないうち、ふ…とその炎が消えた。風を操って殺したのだ。
元々薄暗かった部屋の中からは完全は光が消え、頼れる光源は回廊の両端に備えられた燭台のみとなる。ぼんやりと淡く浮かび上がる程度だったが、長い回廊の全体に一定間隔を置いて備えられているおかげで移動する分に支障はなかった。
目も闇に慣れており、ルックは無言で回廊に足を運び始める。回廊の蒼い床はまるで氷のように冷たく、ブーツの踵が当たる度にこぉんと済んだ音を立てた。
アルベルトはルックの後ろに控えるように、やや距離をあけて付き添った。
と。ルックはふいに窓の外の景色に目を留めた。
「雪、か…」
完全な暗闇の中で、無数の白いモノが乱反射している。はらりはらりと落ちてくる。興味を惹かれたわけではないが、機会の少ない巡り合わせに目を細める。
「ええ、先程から」
ハルモニアでこの時期に雪が降るのは珍しいことだった。積もるなんてことには、まずならない。
それにしてもよく降る雪だった。微かに漏れる光で照らされたその白磁の身は銀色に翻りながら、下へ下へと途切れる予兆もなく注がれていく。
ルックは革手袋のはめられた右手をそっと硝子に合わせた。冷たかった。
「…アルベルト。おまえはこの景色を見てどう思う?」
ルックの背を視界に捉えながらアルベルトは瞼を伏せ、そして静かに開く。それも時間にしては即答だったろう。
「特に何も。積もれば何かしらの不便も生じると…それだけでしょう。子どもは喜びそうですが」
目を細めた力を抜きながらルックは短い息を吐いた。それは寒さに白く濁っている。
「……そうか。おまえらしい回答だよ」
寒いと。壁一枚を隔てて尚そう感じるのに。外は、雪の舞う外気はどれほどに冷たいのだろう。
地震や嵐などの自然災害の前に人は無力だ。気紛れを起こした自然は、その見えざる大きな手で軽々と大地に生きる人の足を攫う。あっけなく命を奪う。それほどに怖ろしいもの……これも1つの“神”の意志…。
それなのに、人は未だ神が敷いた不安定な見せかけの穏やかさの中に暮らし続けている。時には土砂崩れを起こそうと牙を潜ませる野山を駆け、時には人を飲み込む津波が寄り添う海に揺られる。まるで共存しているように。それさえも神の仕掛けでしかないと気付かずに。そのどれもがルックには到底理解できない行動だった。ルックには神の意志が寄り添っている。誰も気が付かないように時間を掛けて“その時”まで誘っていこうとする残忍な神のそれを、知っていながらどうして反感を抱かずにいられるだろう。
ある日、若き軍主に連れられて湖の入り江へ行った。その時は丁度夕日が水平線の向こうに落ちていくところで、連れ立っていた同世代の者達は口を揃えて歓声を上げた。
――――きれい!
けれど、ルックの心は彼等とは全く対照的に「ああ、また神が気紛れでも起こしたんだ」的な冷めた感想しか持たなかった。持てなかったのだ。彼等は純粋に感じることのできるその感情を、ルックは知らなかった。
こうして今目の前にしている“雪”も、彼等の目に留められたなら宝物のように迎えられるのだろう。「この地方じゃ雪は降らないんだ。ねぇ誰かか降らせてよ」と子供じみた頼み事をした少年、周囲はどっと笑いながらも耳を傾け話を盛り上がらせていた。
しかしルックにとって、静寂を伴って空から堕ちてくるそれらは、あの灰色の世界の予兆としか思えないのだ。目前にしてその想いはより一層強くなる。
命の鼓動が消え失せ、色彩さえ喪われた、あの世界の終末が。直ぐ近くで囁く。
(分からないな……)
知らないのは幸せなのだろうか?―――彼等のように。
ならば、知っているのは不幸なのだろうか?―――僕のように。
(美しいと、知らなければ思えた…?)
そんな事を考えた直後、はっとする。馬鹿馬鹿しいまでに叶わぬ事を、無意識の回想のうちに自分は望んだのだ。彼等のように偽りの幻想と知ってでもその時を享受したかったと、そう願うように。
そして意識を現実へ引き戻したのが、タイミングを計ったように割り込んできた言葉だったから、ルックの思考回路は少しの間何も考える事ができなかった。
「足を止めてご覧になっても宜しいのではありませんか。そのくらいの時間はありますよ」
声の主は、いつもと変わらぬ平静さをたたえている。目が合った。
まだ始まっていない。
いまなら、そう、まだ――――――……始まっていないから。
「可笑しなことを言う」
表情は変えず、ルックは声のトーンだけを吊り上げた。本当に可笑しかった。






夜明け近く――あれから細々とした作業があり、いまこの時間を作るためにはどうしても片付けねばならぬものだった――になって、ルックとアルベルトは“待ち合わせの場所”に到着した。分厚い雪雲が空を覆っていることもあり、周りはまだうっすらと暗い。
雪が吹き付けていた。ハルモニアの首都から転移魔法で移動した距離は国境を越えるほどのものではなかったのに、遠い昔に忘れ去られた奥深いその地には真新しい雪が積もり、時間を重ねるだけ目に見えた早さで積み重なっていった。身を横たえるために大地から熱を奪うのは容易いことではないが、一度基盤が整ってしまえば溶けることなど知らず傲慢にテリトリーを広げていく。
空気は冷たく、肌を刺す。葉の落ちた木々の細い枝にも既に雪が降り積もり、枯葉色の茂みですらその色彩を白に奪われつつある。
「ルックさま…」
視界を多少なりとも妨害する雪の向こうから女が1人姿を現した。緑色を孕んだ淡い金髪に、透き通った蒼い双眼を静かに開いている。
「来ていたのかセラ」
セラと呼ばれた女は小さく会釈した。寒さのせいか、ただでさえ色素の薄い肌が血の気を失っている。彼女の着る青い服が更にそう見せているのかも知れない。
ルックの後方にいたアルベルトが、そんなセラを見て人知れず「理解し難い」といったように眉を寄せる。この寒さの中セラはいつ訪れるかも知れない――あるいは来ないかも知れない――ルックを待ち続けていたのだ。おそらく自己犠牲という意識さえ彼女になく、取る行動は全てルックのためになるかどうかだけを真っ直ぐに見据えている。依存と表現するべきか、しかしその割には冷静な応対をする。アルベルトは初めに彼女と対面した刹那から、彼女がルックに抱いているのは好意――愚かしいまでに純一な――であると判った。いかにも単純な動機であると、だからこそ怖ろしいとも思った。ルックの為ならば貫き通す固い意志が…その意志が生み出す魂の限界が。
セラの能力に関しては他者が通じる事の出来ない域を至っている。比類無き魔力の才を秘めるルックでさえ会得不可能な、生得的能力である。
アルベルトは直に実行されるであろう計画の進行を任されているが、そこにはセラなくしては達成出来ない場面が多く想定されているのだ。こんな能力が存在して良いものかと、知らされた直後はアルベルトも多少なりの理論変更を余儀なくされたほどに。もちろんそんな能力が“かつて”存在していた事は知識の上にあった。しかしまさかそれが己が手中で計算される数式に加えられる日がくるとは思いもせずに。
ルックにしろセラにせよ、途方もなく常識の域を脱した者達だ。その存在そのものが希有だ。ルックについては契約を交わした際に、彼自身の口からその目的と共に自らの素性を明かされている――アルベルトも彼に荷担する条件を隠す事もなく提示している、つまりは公然として利用し合う関係だ――。後にセラに引き合わされたが、その言動と能力を洞察するだけで、彼女の信念を造りだすに至った環境は容易に想像できた。
――――ハルモニア。歴史上の繁栄とは裏腹に血にどす黒くまみれてた国。
ルックも、そしてセラも、その非道たる裏世界で生み出された。表の世界の秩序を保つために。永久の継続のために。……その精神を殺されることを前提に。
秩序を保つために造られた存在が、その秩序を破壊するのだという。
(飼い犬に手を噛まれるか…)
ハルモニアも馬鹿ではない。幾ばくか時間が経てば事の計画をバレるだろう。ルックとセラ、この2つの存在が脱走した事自体が裏世界を血眼とする事態であり、刻とともに忘れ去られ放置されるような生易しいことでないだろう。当然、密やかに網が張られているとも予想された。
しかし、アルベルトは己の中にある“愉悦”を否定しきれない。あのハルモニアが果たしてどう動くのか、そして自分の才がどこまで欺けるかという前代未聞の挑戦が、常に客観的なアルベルトの心理にも波紋を生ますのだ。
――――…見届けようではないか。
雪の舞う中、向かい合って言葉少なに話す男と女。その姿は世界を敵に回すとは到底考えもつかぬほどに危うくか細い…。
果たしていつまで歩いていられるか。いつまで立っていられるか。
「アルベルト、手筈は?」
セラを控えてルックが言った。雪は一層深くなり、肩や髪にもまとわりはじめる。先に着いていたセラなど、その冷え切った身体は格好の餌食だ。それでも瞳に宿った強かさは褪せることを知らず、アルベルトを射抜いてきた。セラの視線はどんな時にもルックに通じている。アルベルトに向けられた視線も、その次にあるルックを見据えての通過点に過ぎずない。ルックに少しでも害が出るようなら…と。そんな警戒心を張り巡らせた様子に、アルベルトは再度人の情というモノを見た。
無言でセラからルックへ視線を移し――逃げたわけではない――応える。
「ええ。抜かりはありません」
「後はあの男…というわけだな」
視界は奥になるほど舞い散る雪に閉ざされていた。ましてやどの方角から現れるかも知れぬ存在を、とても人の視力で捉えることは不可能だ。大気にはビョウと鳴く風の声が混じり、零下に落ち込んだ気温は感覚を麻痺させていく。
ルックが雪の原へ一歩足を進めた。真っ白な雪は踝ほどまで積もっていた。
「ルックさま………」
セラが呟く中、ルックはその翠色の双眼を閉じる。五感を一時的に手放し、感じる全てから“魔”に関するものだけを探り集めている。彼の持つ風の性質、あらゆる場所・次元に吹く風の眼を開かせるのだ。
少しして、ルックはうっすらと瞼を上げた。
「気配が……」
手繰り寄せる――――糸。
「はい…」
「ようやく来たようだ」
すっと焦点を結んだ目が、右側面へ鋭さを宿したまま向けられる。一見したところ何も変化はない。ルックのいう“来る”が何の指しているのかも判らない。だが、疑う理由こそ吹雪の奥には無いのだ。
風が強くなる。それに乗せられた雪は、荒々しく横殴りになって僅かながらの殺傷力を携える。
音という音を掻き消す、嘆いているように吹く嵐。本来ならそれだけで終わる風景にも、セラはひしひしと圧迫感を感じていた。近付いてくる足音。人でも精霊でもない、圧倒的な負の気配。
ユーバーと名を云った。
「貧相な出迎えだな」
白色とは対照的な闇色。つやのない真の黒。
目深く被った帽子を、更に深く引き下ろしながら、ルック達を間合いに入れたところでユーバーは足を止めた。顔色は見えないが、言葉の裏で嗤っている。
「おまえの価値観に合わせるつもりはない」
間合いに…――それだけの行為でルック達に警戒心を擡げさせるには十分だった。特に彼を呼んだ張本人であるルックは一瞬たりとも神経を緩めない。冷徹に受けながら、吹雪に紛れさせていつ振るわれるかも知れぬ剣を意識せねばならなかった。
ユーバーとルックはかつての大きな2つの戦で、所属勢力的には敵対関係として対峙している。
類を見ない剣技を操ると同時に、ユーバーの性質とも云えるそれは残忍を極めた。戦場に出ればその黒衣は返り血でまみれた。将に仕えるといえども名目だけで、利用価値が無いと彼自身が判断すれば何の躊躇いもなく切り捨てる。そんな男だった。
黒い霧を具現化させたごとき雰囲気と只ならぬ威圧感から、人ではないという噂も――その力に圧倒された敵味方両軍の間で――まことしやかに囁かれていたものだ。……実際、彼は人などではないのであるが。
(人の皮を被った…血に飢えた獣…)
そして混沌を望む破壊者。自分を満たす為だけに振るう剣は、幾人の命を啜ってきたのか。
危険だと、そう思うのは凡人が抱いたような畏怖からではない。ルックには彼の正体も生き様も判っている。それでも警戒するのはユーバーの気性そのものだ。そして、


…―――――1対の剣がルックに斬りかかった――――――――


一瞬の出来事だ。
左右の手に握られた長剣が、クロスを描いて振り下ろされる。それを寸前のところでルックは飛び退く。張り巡らせていた警戒はどうやら的を射たようだ。剣をどうやって出現させたか―――もしもそんな所を見ていたなら、間違いなく切り裂かれていた。
「ルックさま!」
セラが悲鳴に近い声で叫ぶ。反射的に応戦しようと杖を翻すが、横にいたアルベルト進路を憚るように伸びてきた。バッと睨み付けるように顔を上げれば、何を考えているのか読めない顔がそこにある。
「お退きなさい…」
含みを効かせて牽制をかける。だがアルベルトは一切動じなかった。再びセラが声を上げようとすると、そこに他の誰でもないルックの声が割ってきた。
「少し確かめるだけだ。セラ、君は下がっていろ」
その声に臆する響きは一寸足りともない。不意打ちを繰り出された――彼自身が予想していたとは云え――刹那ですら外さなかった強い眼光を、ルックはユーバーに向け続けている。鋭く、冷たく、底が見えない色だ。
セラは自分を制する言葉を噛み締めるように佇んだが、それからようやく肩の力を静かに抜いた。それでもルックに危険が生じるようなら誰の制止も効かないだろう。アルベルトも水平にあげていた手を下ろした。
大人しく引き下がったセラを気配で確認し、ルックは雪に膝を付いていた身体を立ち上げた。雪(水)の重みで身体が重い。痺れにも似た感覚がじわじわと指先から攻めてきていた。
雪は吹雪のまま降り続ける。いくら流れても流れても、灰色の雲は絶えず山の向こうからやってくる。
「ユーバー…」
「どうした…反撃してこないのか?」
試すような口調で挑発しながら、ユーバーは剣を十字に構えた。カシャン――…と吹雪の中でそれほどに響いた無機質な音はない。
「相変わらず…戦いを好むか…」
喚んだまでは良かったものの、幾分かは扱い難さを覚悟していた事を差し引いてもまだ、ユーバーという存在は手に余る。尤も、アルベルトの時のように現実的な交渉が成立するとも思っていなかったが。
「俺を満たすのは混沌、嘆きと悲鳴だ。これを満たすにそれ以上の場所はないだろう?」
白銀の刀身。何百年と血を啜ってきた呪われた刀身。錆びることもなく、残酷なまでに美しい光沢を放つ。死神の持つ鎌もきっとあんなふうなのだろう。そして、それを操る人物もまた…。
「……ああそうだな。」
ユーバーの理屈などを聞くつもりは毛頭なかった。
ゆらりと靡く風。どくんと大きく大きく脈動する。脈動は瞬く間に全身を巡り、ルック自身を目覚めさせていく。魂に絡み付いた絶対なる力―――真の紋章もまた目覚める。ルックの意志からの働きかけか、紋章の意志からの働きかけかそれは判らない。ただ1つ明晰なのは、右手が異常なまでに熱を持っているということ。
「面白い…」
それこそがユーバーの望んでいた反応だった。乾いた喉が潤いを切望しているのを、自制する必要がどこにあろう。己を満たすと確信できる力が間近にあるというのに!
「相手をしてやるよユーバー、お前の気の済むまで…」
やや顔を伏せたルックは半眼で、津波が起こる直前の海のように得体の知れぬ圧倒感を秘めている。まとう翠色は何も読みとらせない。そんな静かなる攻撃性。多くの時間を側にいたセラですらこのようなルックを見るのは希だ。
そして、ルックは右手をゆっくりと目前に掲げた。
詠唱のロスはほぼ無く。
凄まじい力の凝縮と焼け付く輝きを感じた時には、その力は刃となって放たれていた。
ユーバーは動かない。その刃が己の肌を掠める寸前になっても、口元に浮かべた嗤みは消えなかった。これが人間ならば死を間近にして気が狂ったとでも取れようが……彼はそんなものではない。彼そのものが常識で量れないイキモノだ。そしてそれはルックも同じで。
「お前の覚悟、見せてもらおうか!」
風の刃をひと薙ぎのもとに相殺させる。白い大地で翡翠の刃が砕かれ、砂が散るように消滅していく。衝撃で大きくえぐり取られ足下一帯の雪が霧散して舞い散る。
視界がそれに遮られた僅かの間に、ルックはユーバーの間合いから離れた場所に転移した。最初から攻撃が命中するなど甘い事は考えていない。あの位置関係から戦闘を開始するのは、あまりに魔術であるルックに分が悪かったという理由に過ぎない。
積雪の薄い地面に着地すると、ユーバーがこちらを見ていた。
成る程、ユーバーもハンデを与えてやろうという趣旨らしい。余計なところでフェアである。魂胆は見え透いて、しかも施しを受けるような扱いをされたとあってはいい気がするものでない。
「余裕だな」
次の詠唱の入りながら、ルックは単調に言い捨てた。
ユーバーのような性質の持ち主が相手の出方を窺う戦い方がするとは、余程滅多とない好機(真の紋章継承者との打ち合い)を十二分に愉しもうとしていると見える。ひゅっと片方の剣を脇に薙ぐ。
「18年前とは比較にならぬ魔力値の増大だな。それを駆使する技術もだ」
いつの間にか、雪は再び穏やかに舞い始めていた。しんしんと…静寂が降り積もる。
「何もしてこなかったわけじゃないさ」
「そして出した結論がそれか。お前にしては非合理的ではないのか?」
嘲笑っているように聞こえたのは、ルックの自覚が是を唱えた為か。
「………」
眉1つ動かさずルックは風に吹かれている。
雪が降りしきる中で彼だけが全く影響を受けていない。彼を庇護する風が遠ざけているのだ。その分だけ彼は異質に浮き出ていた。ゆらぐ大気すらねじ伏せられる。
「何とでも言えばいい。僕は決めた道を歩む―――それだけだ」
暗闇に鳴る鈴の音。決して視ることができなかった世界。囚われていると、それさえ知らなかったあの頃。求めるものは遠すぎて、底知れぬ闇に堕ちながら夢の終焉に気付いた時から。
「ならば力尽くで俺を従わせてみろ」
「ならばお前の応えを僕に示してみろ」
――――その力で。
2人は同時に言い放った。そしてそこからが、本当の衝突の始まりでもあった。
白き舞台が血に染まる。
魔術師と剣士という属性の違いも関係ない。それを補うだけの技量を彼等は既に得ているのだから。
人ならざる者。人を捨てた者。
互いに遠慮は一切ない。宣言のもとに打ち捨てる、そのことのみに縛られる意志。
どちらがどちらを切り裂いたのか、そんな事は翻り続ける2つの刃――風と剣――の間では見極めがつかない。残映だけが煌めき、その間隙に紅い血が飛び散った。致命傷を思わせる血量でなくとも、その紅さの艶やかさは目立ちすぎだ。
固唾を呑んで見守るセラの手には、自然と杖を握る力が強くなった。白く繊細な指先が震えている。ルックの言い付けを破る事は出来ない。だが、気持ちを抑える事はもっとできない。押し寄せる感情は畏れ。彼を失う事への畏れ。
「セラ、」
慎ましさを湛える双眼には判然とした感情が滾っていた。ほんの僅かの変化すら視界の隅で捉え、咎めたアルベルトをセラは痛みを伴うまでのその真摯さで見上げる。
「あなたに…何が解るというのです…」
「仰る通りです。私は貴女ではありませんから」
どうしてこんな目ができるのか。ぽつりと落ちて波紋を描く―――滴。
「ですが私は私の役目を果たさねばなりません。軍師は主あってこそ生きるもの。むざむざ死に向かわせるような事はさせません。ですからセラ、あの方は……」
ふと怖ろしく落ち着きを持ったセラの声が、続きの言葉を遮った。
「あなたの言葉など聴きたくありません」
今だけは確保される安否など。
直ぐ先には免れようのない死さえ口を開いて待っているというのに。
アルベルトの能力を信じていないわけではない。彼がリスクを知りつつルックとユーバーが引き合う事を衝突承諾したのは、賭などという野蛮なものに出たのでないとも判っている。
限りの見えているリミットで危うい橋を渡らせるアルベルトが許せなかった。例えそれがルックの望みであったとしてもだ。
「…………」
何が起こっても顔色の変わらないその鉄面皮が、余計に非道さを思わせて。
「放っておいて下さい」
強く強く、セラは言い切った。
セラが身を捧げる人はルックただ1人。盲目で、そして哀しい愛情…。
そうしてセラが心を静めようとでもするかのように目を伏せた矢先、鈍い音がずぶりと鳴った。待ち構えていたような単独突出したその音に、アルベルトですら思わず息を呑んでいた。視線の先には――――右肩を抉られたルックがいる。
それでも表情は屈していない。平生の無表情のままだ。我慢強さか、あるいは痛みなど彼にとって苦痛を伴わないものであるのか。血はどくどくと溢れるのに止血――彼程の魔力があれば簡単なことだ――しようとも彼はしない。
「切り落としてやろうとしたんだがな…」
その右手にある元凶ごと決別できて好都合だろうと。
向かい合うユーバーの剣は、やはりと言うべき真っ赤な血を吸っていて。それは傷の深さを物語る。
「要らぬ節介だ」
そもそも腕の1本や2本が消えたくらいで、紋章がルックという器を諦めるはずがない。融合とも同化とも近い部分まで彼の魂と紋章は絡まっているのだから。今は右手にその姿を現す紋章だが、それが切り捨てられたところで別の部位――可能性として高いのは額か――に移動するだけである。
馬鹿げた理屈だと、ルックは思った。
「戦意喪失はしていないか。なかなか楽しませてくれる」
かつての戦場で見えた時は、気配を慎重に探り合うだけで終わっていた。それはその場の、拮抗ともいえるモノを保つためだ。むざむざ大規模になると判っている衝突を引き起こすことは、ルックがまずしなかった。彼の位置・宿星の1つとしての(今思い返せば)責任を持っていたのかも知れない。
しかし、戦場の先々でユーバーの放つその気配がどれだけルックを動じさせていたか。真の紋章に敏感なルックが、あれだけ大っぴらに所在を示されては相当の負荷にもなる。無視する事などできなかった。ユーバーの混沌を求める声は、風に乗って強烈に耳朶を打ってきたものだ。
あれだけ血を見ながら。あれだけ悲鳴を上げさせながら。あれだけ命を奪いながら。
まだ足りないと呻り続けている。
「お前は本当に貪欲だ。―――…だが、もうすぐ終わる。お前の望みを、叶えてやるよ」
ルックが言い終わるや否や、全ての音が消失した。
ピン―――と、弦が張られる清澄を最後に、ぷつりと世界から遮断される。
「これは……」
視界が閉ざされたわけでも、耳を塞がれたわけでもない。
白亜の世界は見えている。ただ音だけが失せた。聴こえてくるのは、ルックのそれだけ。
「風の記憶は僕に様々なことを教えてくれたよ。この術は以前の継承者が得意としていたものらしいけど、どうやら僕とも相性が良いみたいだ」
きつく引き締められた口元と目が嘘みたいに解け、ルックはふわりと風のように柔らかく目を細めた。
「自らの血肉を餌に精霊を誘うんだって…」
刹那、ユーバーの身体は四方八方から切り上げられた。それまでとは較べ物にならない殺傷力の風の刃だ。魔術の発動には必ず予兆として空間へ変化が現れる。だから突然とは云わない。それなのにこの風は全く空間を干渉させることなく生み出されたのだ。
「が…はッ」
剣を地面に突き刺し、倒れる事だけは免れたものの、ユーバーが受けたダメージは相当だった。
一方思考は鮮明で、むしろ意外な伏兵に満足している己がいるのだ。否定するでもなく受け入れるユーバーの口元は薄い嗤みが張り付き、露わになった銀と紅のオッドアイの奥では愉しみを掴んだ事への喜びに騒ぎ立つ。
次第に全く刃の出現を感知させなかった理由も分かってきた。
空間に変異を起こさずに、否、空間の変異を悟らせない手段。空間と空間との寸隙の境界に風を滑り込ませ、空間の変異を変異として感じさせぬよう膜を貼る。膜に内側にもう1枚同質の膜を展開した――――言葉にすれば単調だが、常識では考えられる神業である。言い換えるなら、ルックという男は空間そのものを一時的とはいえ支配下に入れたということになる。
そして、その為に必要であった精霊達を喚ぶ方法も常識の域ではない。ルックは意味もなく血を流していたわけではなかった。緻密に計算した印――魔術発動の母胎――の上に、己の血を垂らしていたのである。ルックとユーバーの双方が血を流していたことが、知らぬ内に印の存在を隠すための撹乱となっていたのだ。
「派手にやってくれる…」
謀られたと舌打ちをしてユーバーは立ち上がる。帽子を拾い上げ、再び目深く被った。
「気は済んだか?」
無表情の中に険しさを押し隠した顔に戻ったルックが言う。相変わらずこの空間では彼の声だけがよく通る。
見た目は十代半ばの少年。それも特別体格が良いわけでもなく――むしろ小柄だ――、いかにもという武器を備えているわけでない。もちろん中身は決してそうでないと、それでもその見てくれは誤認材料に十分で。
ユーバーにも甘く見ていた部分があったのかも知れない。結果としてそれは油断を生んだが、その代償として放たれたあの風は鋭すぎた。ユーバーでなければ、確実に死に至っていたろう。なんという可能性だ。なんという怖ろしさだ、紋章の記憶というものは。
あの時微笑んだのは、あるいはルックでなく先代の記憶―――風であったかも知れない。
「いいだろう。お前の野望とやらに付き合ってやろう、盟友としてな」
「…………」
「どうした、不服か?」
直ぐには応えず、ルックは怪我をしていない左腕を真っ直ぐに薙いだ。
疑似空間が解かれた、外の音が一気に耳に入ってくる。舞い散る雪、岩場を吹き抜ける風。ここまで外は騒がしいものなかと偶感し――実際は静かな部類であるはずだが――、あの音の閉ざされた空間も悪くはないとユーバーは思った。そうしていると、自らの中に魔力を封じ終えたルックが身を翻す。
「お前と手を組むなど堕ちた話だと思ってね…」
戦場の死神に協力を求めたのは、かつて人々を希望で照らした人物の元で魔法兵団を率いていた者。なんとも皮肉な取引ではないか。
「フン、言ってくれる」
ルックが巻き起こす戦乱は多くの人々の混乱を生むだろう。血が、悲鳴が紅く大地を染めていく。
本当に神を殺す行為まで為せばユーバーにとっては最善の利だ。しかし、しくじったところでデメリットは要求されないのだ。実に気楽なことだ。要求を呑んだ理由の半分は興味。愚かな理想を抱いた魂が……どこまで神に抗えるかを見てやりたかった。そして、残る半分は――――。

「ルックさま…!」

駆け寄ってくる女。決着が付いたのを見計らって出てきたのだろうが、その表情は普段に見られない焦燥を露わにしていた。叫んだ言葉の通り(ユーバーは無視して)ルックの元へ雪に足を取られるのも構わずに寄る。
手を伸ばせば届くぐらいの距離まで来たとき、セラは輪を掛けて顔色を蒼白にする。ルックの右肩に深く抉り取られた傷口を見咎めたからだ。傷口からはまだ鮮血が滴っている。
「セラ…」
ルックもセラが訴えたいことくらい読めたろう。だが、両者間に言葉が交わされることはなかった。暗黙の内に理由と理由が交換され、必然の行為だ―――とルックの目が語ったから。だからセラは不平1つ言うことなく、自分の心の内に封じ込めた。代わりにきゅっと唇を噛んで静かに請うた。
「怪我の治癒を……させて下さい…」
伏せた顔に髪が落ちてきて表情は見えない。それでも酷く思い詰めた声は彼女の内心を偽ることなく投影していた。
「……あぁ、頼む」
彼が吐いた小さい溜息は、安堵だとかそんな区切りに浸るものではなく、苦し紛れにほんの僅か自分の身体に休息を許しただけのそれ。
怪我をした身体はルックの意志とは無関係に弱っていた。それが普通だ。
だが、ルックにとって己の肉体への執着心など反吐を吐くような話だった。紋章が魂を絡め取っていなければとっくの昔に離反できた―――切り捨てたいと思っていた造り物の肉体だ。そのヒトはこの世にひとつだとは良く言うけれど、既に自分と全く同じ姿をしたものをルックは2人知っているのだ。忌々しかった。
こんな器――!と何度衝動に駆られたか分からない。
けれど肉体は確かにルック魂と繋がっていて、痛いだとか煩いだとかの反応を感覚器官を通してくる。そんな部分だけが人間じみていて嫌悪がさした。
器としか必要とされなかったどうせなら、目も口も鼻も耳も、そして感情も全て潰してくれれば良かったのだ。模造人間を拵える技術があるなら、それくらい動作もなかっただろうに。
そんなものを残してくれたお陰で、こちらは愚かな夢を見るだけだ。愚かな夢に理想を描き、己を知って以来ずっと剥き出していた牙を具現化させようとしている。
世界の終焉…―――灰色へと染め抜くのは停滞と秩序。…させはしないと。
ルックの傷口にセラの掌がそっと近付けられ、詠唱と共に水の癒しが淡い蛍火の姿を見せる。傷口を縫い合わせるような慎重さからは、なるべく自然治癒の形に近付けようとしているセラの意が汲めた。ユーバーは時間の無駄だと肩をすくめるのだけれど。
丁寧に丁寧に治療されていく組織が、やがて皮膚の再生にまで達した。10秒もあればできてしまえる治癒を、セラはその数十倍時間を掛けて精神をそこに注いだのだ。その間ルックは何も言わなかった。
薄れていく淡い蒼を手に帯びさせながら、セラは杖を携えた右手と熱が残る左手を脇に下ろした。そしてルックをじっと見つめた。
「痛みはありませんか?」
おもむろにルックは左手を右の肩に持ち上げ、少しだけ皮膚を指で押してから「問題はない」と言った。あれほどの深い傷が綺麗に完治されている。紋章を扱えるというだけで、ここまで完成度の高い治癒は不可能だ。精々皮膚の裂け口が遺る。セラの才能と何より精神は有無を言わさず人を圧倒させるだろう。ルックでさえ彼女の予想以上の才能に目を瞠ったこともあった。
「……なんだ女?」
ルックの治療は終えたセラが、やや距離を取った場所で足を投げ出していたユーバーに視線だけを向ける。表面に出されていないとはいえ明らかに敵意を秘めた双眼に、ユーバーは訝しげに問い返した。
「………」
セラの傍らにはルックがいる。彼もまた無言でユーバーを見据えていた。
何の気だと(まだ)無言を保つセラに向かってユーバーが悪態をついていると、そのセラが何の予告もなく蒼い宝玉が結い付けられた杖を翳した。反射的に剣を取り出そうとしたユーバーだったが、それが行動となるより一瞬だけ早く紋章が発動した。水の、癒しの紋章だった。対象の身体を包みあっという間に傷を塞いでいく。
「ハッ!」
ユーバーは吐き捨てるように嗤った。
ずいぶんと粗治療ではあるが、今の今まで彼女が慕う相手斬り合っていた者を治癒するなど、そうそう踏ん切りが着くものではない。己の感情を殺してまでルックの利を取ったセラが何とも理解し難く……だが同時に面白いとも思った。こんな“人間”がいようとは。
「ユーバー。事の詳細はアルベルトから聞いてくれ」
傷が癒えたユーバーを見届けたところで、それまで静かに傍観していたルックが単調に言った。まるで先の衝突など無かったかのように平然としている。
ルックとユーバーの争いで大部分が踏みならされ、血と泥で汚れた雪の上を渡ってアルベルトが歩いてくる。既に事態を掌握しているのだろう、わざわざ様子を確認するでもなくルックの声に頷く。
「彼がアルベルトだ」
あまり見ない髪の色に、ユーバーはその長い記憶から素早く1つの事実を拾い上げた。その色は一種の目印とも証ともとれる要素だった。
「シルバーバーグ…名軍師の直系とはな。大層な人材を引き入れたものだ」
ルックが寄り集めた人材自体アクが濃すぎる。いろんな角度から人の域を超えた能力を有す者達ばかりだ。ルック自身が同種であるということもあろうが、他者との係わり合いを厭う内面が強調されている部分がいっそ克明だ。最低限の―――尚かつ優秀な才。
アルベルトもアルベルトで、よくもこんな馬鹿げた策に荷担しようなど考えたものだ――歴史上こんな賭けめいた位置からスタートした軍師がいたか――とユーバーが言うと、アルベルトは目を合わせる事もなく淡々と理屈を述べた。
「私にはルック様の力が確信できていますから」
「アルベルト」
無駄口はいいとルックが口を挟む。アルベルトは軽く視線をすくった。
「後の手筈は整えておきます。ルック様はそれまで暫しお休み下さい」
休む、という事が実際に可能なのかはどうあれ。いや…精神的にそんなこと不可能であるに違いないと自身で過ぎる程気付いているのだけれど。
「後は任せる」
少しの時間で良い。刻々と足音もなしに近付いてくるその時から目を背けたかったかも知れない。
ルックは雪の中に踵を返し、セラもそれに付き添った。
雪野原に散る血の斑点だけを残し、彼等はその場から去っていった。白く白く、再びそこに静寂が降り立つ。それはひとときの静けさ。赦された、時間。






   錆びた歯車は軋みを上げながら廻り続け、
          
その存在を片時も忘れさせまいと不気味に語りかけてきた。


                  すべてを殺してしまう静寂のなかで

                          その残酷なまでの囁きは止むことがない。


        全てを狂わせ、それでいて導となる。…―――なんて傲慢なその存在。







ちらちらと舞い降りてくる雪、その属性は静寂と無慈悲で。
―――…考えた事があった。あの灰色の世界も、この雪と纏う色彩が異なるだけではないかと。灰色の世界に到達するまえに、雪が降り積もり大地を覆い尽くした過程があったのではいかと。
なぜなら雪は、雪の静けさと冷たさはどこまでも似ていて。終焉の予兆のようで。
「セラ」
雪の原の中をしばらく歩き続けたところで、ルックは俄に立ち止まった。
「はい、何でしょうかルックさま」
雪が降り積もった広野一帯には、ルックとセラが歩いてきた足跡以外何もなかった。それも新たに降ってくる雪に消されつつある。孤独に、取り残される。
「…君にこの景色はどう見えているんだい?」
セラはルックがかつて自分に言って聞かせた告白を思い出していた。ルックの目には色彩が映らないのだと。モノクロの虚無が広がるだけなのだと。きっとこの雪も…。
人が雪を美しいというのは、その汚れ無き純白さにあるのだろう。日常に把握し切れぬほどの明暗度様々な色の中、自然に生まれてくる色を纏わぬ色は、業や柵を洗い流す意味も兼ねる贖罪だ。
人は“白”の内に、始まりや無といった無尽蔵の原点を求める。
雪は生まれたばかりだ。だから白い。清らかなる無垢な赤子。淡き静けさの化身。
けれどルックには色彩がなくて。雪でなくても無彩色なものは視界に常にあって。灰色の濃度が濃いか、薄いかのそれだけの延長線上にある色でしかないのだろう。そして共にルックに感じさせるのは―――拭いようのない空しさなのだと。
「雪が、」
悴んだ唇をセラはゆっくりと動かす。
「……ルックさまにとって不安を扇ぐ存在でしかないものなら、私にも安息でありません」
セラの強い意志は、常にその双眼に宿っている。
彼が求めるそれを得るためならばどんなこともしようと固く決めていた。彼に出逢ったときから、彼の命を糧に生きているのも同然なのだと明確に自覚していたから。すべて捧げて良いと何の苦痛もなく思える人。
「―――…ルックさま、私は常にあなたの側に控えております」
彼の命がこの先に潰えること承知で。だからこそ片時も離れたくなかった。
ルックが何を考えようと、自分はその意志に沿うだけだ。己の我が侭を殺すなど、ルックの事を考えれば造作もない事だった。そんな何よりも愛しい人。
「ですから、どうかご自分の意志を貫いて下さい」
ルックの受けた傷は自分も受けよう。自分の選び取った道が罪である事ぐらい解っていて、それでも彼の側を離れるくらいならあえて身を曝す事もしようと誓った。
何が起こっても、決して離れない。
「ありがとう…」
灰色の世界。降り立つ静寂。
人への警告とも取れる雪降る日に、ルックはただ一度だけ眼を閉じた。





      願わくば、この愛しい人に安らぎを…―――





超国家ハルモニア。昨晩から降り続いた雪は今朝方ようやくおさまったものの、その痕跡をしっかりと残していった。いつもなら人の声で騒がしい中庭も雪に埋もれ、しんと静まりかえっている。
「き…休暇を出したあ!?」
首都クリスタルバーの1つの神殿、その中でも中核にあるその一室。他者の声が眠っている分だけ響きまくるその声はディオスのものだ。そして事務用のテーブルを挟んだ向かいにはササライがいる。
「そこまで驚く必要はないだろう」
泰然としたササライの態度は書類を片付ける手を止める事もない。ディオスを軽くあしらっているようにも見えるが、そこまで利己的な人物ではない。…ないのだか!
「ですがササライ様、身辺の警護も残さないなんて…」
「ハルモニアでここまで雪が積もるのは珍しいからね。家族や恋人と過ごす時間を持たせてやっても恨まれはしないだろう?」
あまりと堂々と言い切られて、ディオスは唖然とする。
ササライの言うつまりは、部下への配慮からなる大多数の者にはありがたい臨時休暇である。家族云々までしか口にしなかったが、この雪では交通にも不便が生じ多少なりの滞りが発生する。いつもと同じ時間は流れないこと確定なのだ。だから息抜きにも良い機会じゃないかと、ササライは机の上でペンを踊らせながら言う。否、押し付ける。
「というわけだ、―――…ディオス?」
カタッと椅子を退いて立ち上がったササライは、含みを持たせた笑みを浮かべる。見る分だけには綺麗の一言で、しかし、この人が意味もなく笑みに感情を込めることがないと知っていた。
「お前も帰れ」
―――命令だ、と。
ディオスの権限内に“反発可能”という文字は何処を探しても出て来なかった。上司と部下という決定的な主従関係もあるが、それがなくともササライという人間が持つ発言力の説得性と強打性に打ち勝てる自信はなかった。部下に慕われている性格も、それを為すためには幾分かの支配力を有していなければ務まらないから、性格の二面性(意図的な)を一様に善悪で分別することはできないのであるが。
ササライは人と対峙した時常に目を反らさない。むしろ見据え続ける。これは相手の真意を窺う手法で無意識に誰もが使うものであるが、これを有効に使用する才はやはり画然と現れるのであり、無言の圧迫感を与える大抵もこれを上手くこなす者であったりする。
目を合わせる―――ただそれだけの事なのに。焦点を合わせられたまま時間が経つに連れ、じりじりと感じてくる居心地の悪さに逃げ出したくなる。この場合は何より相手が悪い。
「………」
そうしてディオスは強制送還を余儀なくされ、寒い中頑張って通勤してきた人気寂しい路地を、再び1人でとぼとぼ帰っていった。早々の帰宅に何と言われるか。想像するのは何かと楽しいが、そこまでササライが気に掛けて配慮することでない。
やっとディオスを追い出したササライは、久しぶりのひとりきりの空間に大きく肩の力を抜いた。報告書や依頼書や何やら幅は広く尽きる事を知らずに提出を請求された書類と格闘する日々、やっと一息吐いてみれば――やや強制的に作ったものであるが――両肩にはズンと疲労がのしかかっていた。
(肩…凝ったな)
やっぱりなあと頷きつつ、一応身体は身体的にも活力が向上一直線な年頃のまま成長を止めているのにと思う。若くとも肩凝りは発生するが程度が違うのだ。
………中身が老化すれば、いくら不老の身でも精神面から影響を受けてしまうらしい。柔軟体操とはいえないが、せめてもの回復を図って腕を回したが、あとにはなんとも云えぬ脱力感が襲ってきた。
しかしその脱力感は、同時に身体から無駄な力を全て抜き去ってくれる。
「はぁ…」
手近の椅子を角度は無視して引き寄せ、ふわりとした感覚に任せたまま椅子に座り込む。勢いがあったので、椅子の脚が後ろに数センチ後退した。力を抜いているため、座る姿勢もだらしないものだ(人前ではまずこんな真似できない)。
それからササライは特に何に手を付けるでもなく――仕事が無いわけでない。逆に部下を休暇ませたことでこなさねばならぬ量は増している――、ぼんやりと視線を泳がせていた。そして何の気なしにのろりと首を窓側に向ける。窓から見える景色には全て雪が被さっており、並列された樹木とアーチの上に積もったそれは、朝日を受けてきらきらと煌めいていた。だぶんきっと―――……綺麗だ。
強い先入観というほどでないが、ハルモニアには、特にこのクリスタルバーの首都には静寂が似合うと思う。理由なんてないイメージだ。だから実際にこうして雪が降り積もって、本当に色合いの良い組み合わせだと思う。
このような希に天から授かる贈り物でも眺めて部下達には羽休めをしてもらおう。マンネリ化するより効率も上がるというものだろう。
―――…大切な人、か。
親兄弟・恋人、そんな一言で他人と割り切れぬ存在。
人はこの世界に創造されたイキモノのうち最も醜悪な存在だ。ササライが精通する政界に限らずありとあらゆる場面――戦場など特に――人間同士のやりとりで嫌という程見せ付けられてきた事である。
しかし、そんな本性さえも覆してみせるものがある。それが人を想う心だ。その人を為に何かを捧げたいと、そう心から思える時こそ、人は人として美しいと表現されるのである。
正直、今のササライにそこまで大切だと思える者は居ない…。
職務に忙しい日々のせいもあってか、あまり自身に検索をかけることもせずにいたから、そういえばそうだなと振り返って思う程度の感想であるのだが。
強いてササライを動かすのはハルモニアという彼が仕える国………神官長の恩恵に沿いたいという理念だが、果たしてそれが“大切な人のため”と云えるかどうかは答えのでない自問だ。別に今の環境に物足りなさや不満を感じているわけではない。だが、道破することは出来ない。恐らくそれは、一度でもそんな想いをしたことがないからだ
「……言葉に説得力を伴わない指導者というのもどうか…だな」
(大切な者と余暇を楽しめと言ったが…)
キィと椅子を揺らす。首を擡げた先には白い天上が見えた。
静寂に包まれた日には尚、取り残されたという感覚がしんしんと染み入ってくる。微かな音は炉だけで。それもそろそろ火種を追加しないと消えそうで。
…かりに。もしも神官将という地位を手放してしまったら、一体この手に何が残るのか。ふとそんな事を思い至り…―――その先が真っ白であることを知った。
「……笑える話だな」
自分の頭の上に翳した両の手の平。掴むための手、でも何も掴んでいない自分。
思わず苦笑が零れて、ササライは手の中の空気と共に手を握りしめた。

今はまだ遠い存在であったから。
自分が壊されるなど思いもしなかったから。
唯一の人は絶対であったから。








  
―――…ねぇ


      唄を歌うのは  楽しいだけ?


              その想いは暖かくて。そのまま受け入れていたけれど。


    私が思っていたよりずっと、それが尊いものだった。



            自分の醜さと同時に、幸せだった自分にようやく気付く。














end.


かとと様のサイト「からっぽの時間」にてクリスマス企画をされておりまして、それがこちらの作品になります。いつもながら、かととさんの書かれるお話は描写が凄い!!今回も初見で鳥肌が立ちましたよ。うわわ・・・申し込んで本当に良かった(嬉泣)
かととさん、これからも素晴らしい作品を書かれるよう、ひっそりと応援させて頂きますねー!!