ベイビー ベイビー




「ああ、ソフィー! モーガンが泣くみたいだよ」
 たっぷりと光沢が塗ってある立派な木製のベビーベッドで、モーガンは可愛らしいレースに縁取られた空色のブランケット――ソフィーの手作りだ――にくるまれてぐずり始めていた。
「あら、おしめはさっき替えたばかりよ?」
「それなら、お腹がすいてるんだね」
 ハウルは指をパチリと鳴らすと、宙からこれまた可愛らしい哺乳瓶――マイケルとマーサがお祝いにくれた品だ――を取り出す。それは見事にソフィーの手の中に降りてきて、さあミルクを入れて下さいといわんばかりに蓋が開いていた。
「はいはい、今作ってくるから待ってて」
 ソフィーはくすりと笑って、キッチンへと入ってゆく。
 ふぎゃぁふぎゃぁ、と猫のような、もっと悪く言えば怪獣のような鳴き声が背中に届き、ソフィーは「あらあら、もうちょっと待ってね」と慌てて肩越しに振り返った。
 そこにはもう見慣れたはずの光景があった。最愛の夫が、愛しくて仕方ないといった表情で息子をあやしている。
 非力そうに見える腕なのに、彼は軽々とモーガンをベビーベッドから持ち上げる。そして片腕に抱いたかと思うと、空いた方の手でモーガンの小さな手を取り、細くて長い指を器用にからませ遊んでいた。
 それはとても幸せな光景ではあるのだが、しかしソフィーは何となく釈然としなくて溜息をついた。
「――なんだか悔しいわね」
 ソフィーがぽつりと呟いた言葉は、暖炉からハウルの子煩悩ぶりを傍観していたカルシファーにしか届かなかった。
「ソフィー、今度はモーガンにヤキモチかい?」
 まきの間から炎を揺らしながら聞こえてくる声から察するに、カルシファーは明らかに面白がっている。ハウルが浮気したとかそうじゃないとか、とにかくそんな話題が絶えないこの城では「ヤキモチ」という言葉が日常化していた。
 ソフィーは失礼ね!と眉を寄せた。
「ハウルがモーガンを可愛がってくれるのはとても嬉しいのよ。 あたしが悔しいって言ってるのは、そのことじゃないの」
 ぷい、と横を向いてミルクを温め始める。カルシファーは不思議そうに顔を出して、ソフィーの周りをちょろちょろと飛び始めた。
「いったい何に悔しがってるんだい」
「あんたには分かんないわよ、カルシファー」
「そうでもないよ。 おいらはモーガンのことは詳しくないけど、昔のハウルのことならなんだって知ってるぜ」
 カルシファーはふふん、と得意げに言った。
 ソフィーは温めていたミルクを哺乳瓶へ入れながら、横目でちろりとカルシファーを睨む。そして意を決したように大きな溜息をついた。
「じゃあ聞くわ。 なんでハウルってあんなに子守りが上手なんだと思う?彼にとってもモーガンは初めての子供でしょう。あたしより赤ちゃんの扱いがさまになってるって、何だか面白くないわ」
 ソフィーの弁はある意味もっともだった。
 そもそもハウルはモーガンの出産に立ち会っておらず、ようやく愛息子に出会えたのは産まれてから暫く経ってからのことなのだ。それなのに初めて抱き上げたときからなんとも手馴れた様子で、初めはそんなに気にならなかったものの、最近ではそれがやけに目にとまる。
 子育てなら、父親より母親。そういう概念が頭にあるソフィーにとっては、子育てという仕事において同じラインからスタートしたはずのハウルが難なくこなせているのが不思議で仕方がなかったのだ。そしてその一つ一つの仕草がいちいちさまになっているのも、悔しいと思う要因の一つでもあったりした。
「おいらは人間じゃないからよく分かんないけど、そんなのが悔しいもんかね」
「あたしが悔しいと思ってるとかはどうでもいいの。 ねえ、なんでハウルはあんなに子供の扱いが上手なのかしら」
 カルシファーはうーんと考え込むように伸び上がり身体を捻らせたが、
「――さあ?」
と、ケフッと煙を吐き出した。
「なによ、ハウルのことなら何でも知ってるって言ったのはあんたでしょ!」
 ソフィーはいきり立つが、カルシファーはけろりとしている。
「それはおいらがハウルの心臓を持ってたときの話だよ。 あんたと結婚したあとのことなんて知るもんかい」
「じゃあ、理由はあたしと結婚してからってこと?」
「ハウルがどっかでヘマを踏んで子供を作ったって話は聞いたことないからね」
「まあ!」
 ソフィーはぷいっと顔をそむけると、ちょうど人肌程度に温まったミルクを持ってキッチンを出ていった。「やっぱり聞くんじゃなかったわ!」と捨て台詞を残して。
「人間ってのは面倒だなあ…」
 カルシファーは興味があるのかないのか、もう一度ケフッと煙を吐き出した。

 
 ミルクを飲み終えたモーガンは、あっという間に眠りの世界へ逆戻りだった。
 ハウルが哺乳瓶をくわえさせようとしたところ大暴れしたので、その役目はソフィーが請け負った。ふたたびベビーベッドの中ですやすやと眠る姿はそんな騒ぎがあったことなどまったく感じさせない。「まるで天使のようだね!」とハウルが大声を出すのではないかと、ソフィーはひやひやした。それほどハウルの表情は嬉々としたもので、目じりが完全に垂れ下がっていた。
「ハウルは本当にモーガンが可愛いのねぇ」
「そりゃあね。 僕ときみの子だから」
 ソフィーは声に出すつもりのなかった言葉を思わず呟いてしまい、それだけでも驚いたのに、ハウルが間髪いれずに返事をしたものだから彼女の方こそ大声を出すところだった。
 慌てて口を抑えてなんとかその声を飲み込み、大きく深呼吸をする。ハウルはそんなソフィーを愉快そうに見ながら、モーガンの頭を何度か撫でた。どうやら目を覚ます気配はない。
 ハウルはベビーベッドから離れソファに腰掛け、そして長い足を優雅に組むとソフィーを隣に座らせた。
「さっきカルシファーと僕のことを話してたろ」
「…聞いてたの?」
「聞こえたの」
 きみらの声は内緒話にはてんで向いてない、とハウルはくすくす笑う。ソフィーは憮然とした表情で頬を膨らませた。
「それでね、僕はなんて答えようかとちょっと考えたんだ」
 ソフィーは話を聞かれていたことを恥ずかしいと思ったが、しかしハウルはそれを笑いもしなかったし、むしろ真剣に答えようとしてくれていることに驚きを覚えた。
「…まさか本当に別宅があるんじゃないでしょうね?」
 絶対に有り得ないと思いながら、カルシファーの言葉が頭の中を巡ってこんなことを訊いてしまう。
 ハウルはさも意外そうに目を丸くして、慌てて首を振った。
「そんなことあるわけないだろう! きみはそんなこと疑ってたのかい!?」
「ち、違うわよ、だってカルシファーが…!」
 くそ、あいつめ!と悪態をつくハウルは本当に怒っているらしい。その様子に安心したソフィーは、やっぱりカルシファーなんかに聞くんじゃなかったわ、とこっそり溜息をついた。
「とにかく、僕がモーガンの扱いが上手だとかソフィーは思ってるみたいだけど、それは僕が人よりほんの少し器用なだけだからね」
 気を取り直したハウルが真面目な顔で言う。
「幼いニールやマリを抱き上げたことだってあるわけだし、きみが思うほど僕は初心者じゃないんだよ」
「でもあの二人を見ても、ハウルがここまでかいがいしく世話をするところは想像できないわ」
 姪のマリはともかく、甥のニールに対してはどうも愛情の比率が少ないような気がするとソフィーは思っていた。もちろんそんなことはないのだろうが――彼らはハウルと血の繋がった人間だ――、モーガンと照らし合わせるとやはり何かが違う気がする。
 そんな不思議そうにしているソフィーの頬に軽くキスをして、ハウルはくすくすと笑った。
「だからそれはさっきも言ったじゃないか。 モーガンは僕ときみの子供だもの、可愛くて当然、何かをしてあげたいと思うのだって当然だよ」
「でも、あたしよりハウルの方が上手っていうのはやっぱり悔しいわ」
 キスなんかで誤魔化されないわよ、とソフィーは不満げに言う。
 ハウルは困ったように天井を仰ぎ、背もたれにトサッと寄りかかった。
「うーん、上手く説明できないんだよなあ。 だからどんな言葉を使って答えようか考えてたんだけど……わからないかなぁ。 例えばさっきもミルクをあげようとしたけど、僕からは嫌だってモーガンはごねただろう?僕はそれでソフィーがちょっと羨ましいと思った。ああソフィーは母親なんだなって」
「…意味がわからないんだけど」
 覗きこんでくるソフィーの表情があまりにもきょとんとしているからか、ハウルは苦笑いを浮かべた。
「だから、ソフィーにしかできないこともあるんだってこと。きみは母親で、僕は父親で…できないことがあっても、僕らがお互いにそれを埋めていけばいいってこと。 そういうことなんだと思う」
 ソフィーはハウルの言葉を頭の中で何度か反芻し、それが三回目ほどになると、「なぁんだ」と溜息をついた。
「ハウルの方が上手なこともあれば、あたしにしかできないこともある。要するにあたしが悔しいって思ったのは、しょせん無いものねだりってことね」
 手にした答えが想像していたものよりずっとあっけなかったせいか、ソフィーも思い切り背もたれに寄りかかった。そして自然と肩へまわされた手にしたがって、そのままハウルの肩に頭を預けてみる。
「それでいいんじゃない? 僕だって僕がソフィーだったらどれだけ良いだろうって思うことがあるし」
「…それは初耳よ」
「僕は相変わらず臆病だからいつも不安でいっぱいなんだ。心臓を失った時間が長すぎたせいか、どうにも自信が持てない。ソフィーをきちんと愛してあげられているだろうか、とかね」
 気弱なハウルはいつものことだが、この言葉にはとても重みがある。
「だから、ソフィーになって僕にどれだけ愛されているのかを確認したくなるときがあるんだ」
 珍しく弱々しく微笑うハウルを、ソフィーは何故か怒鳴りつけそうになった。しかしそれはなんとか押さえ込み、代わりに腕をそっと絡ませた。そしてぴったりと身体を寄せて、くすりと笑った。
「弱虫魔法使いさん。あんたがあたしをどれだけ愛してくれてるかなんて、一目瞭然よ? モーガンがいるのがその証拠じゃない」
 愛の結晶などとナンセンスな言葉は使わないけれど、でも。
 ちょっと派手めのベビーベッドで小さな寝息を立てるその存在は、二人にとっては確かに一つの証なのだ。
 モーガンの方へ目を向けながら自然と笑みがこぼれるハウルを見て、ソフィーはぽつりと呟いた。
「…でもあたし、やっぱり少しだけ悔しいかもしれない」
「何がだい?」
 ふたたびソフィーに視線を落とすハウルの瞳を見上げて。
 ソフィーは本当に悔しそうに眉を寄せた。
「だって、ハウルのモーガンをあやすときの顔といったら!」

 誰にも負けない愛情でいっぱいなんですもの。

 そう言ったソフィーの顔がたまらなく愛しくて、ハウルは今こそ自分がソフィーになりたいと思った。
 きっと今なら、これ以上にないほどの愛情をたたえた自分が見れるはず、と。






END




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