いつもと同じことです
二階で強烈な扉の閉じる音がした同時、だだだだだと駆け下りてくる人物を見て、カルシファーはまたかと呟いた。
「あたし本気よ!」
「また家出かい、ソフィー」
絶妙な突っ込みに彼女はキッと睨みつける。
カルシファーは肩を竦めるふりをしてみせたものの、すぐにけらけらと笑い出した。
バカにされたと思ったのか、ソフィーは頬を高潮させながらありったけの声で怒鳴り散らした。
「何よ、今度こそ本当の本気よ! ただの家出じゃないわ。浮気だってしてやるんだから!」
そして扉をがやがや谷へ合わせ、勢い良く外へ飛び出していった。
ソフィーの家出など、今更どうってことはない。
ジェンキンス家ではいつものことだし、それは周知の事実でもある。大体はハウルが迎えに行けば大人しく手を繋いで帰ってくるし、そうでない場合でもそれまで以上に仲の良い夫婦に戻るのだ。
しかし今回は少し違うような気がしないでもない。
「浮気してやる、だって」
「聞こえてたよ。 ここが空中じゃなければ街中に知れ渡ってただろうさ」
ハウルは長い溜息をつきながら暖炉前の長椅子に腰掛けた。
「どうせまたハウルが怒らせたんだろ」
意地悪く笑うカルシファーに、ハウルは心外とばかりに目を丸くした。
「どうせとかまたとか、失敬なことを言わないでくれ。 それじゃいつも僕が悪いみたいじゃないか」
「違うのかい?」
「――黙秘権を行使する」
「あんたがいくら黙ったってソフィーは帰ってこないぞ」
さすがのハウルもこれには返す言葉がない。形の良い眉がかすかに寄せられたのを見て、カルシファーはふたたび笑い出した。
「このおしゃべり魔法使い。 一体何を口走ったんだい?」
「少なくとも、火の悪魔の退屈を紛らわすようなことではないさ。 さ、僕は愛する奥さんを迎えにいかなくては」
ハウルはいそいそと立ち上がった。その仕草がまったく面倒くさそうに見えないのは、奥方を迎えに行くことに慣れてしまっているからではなく、ハウルが常々「ソフィーは怒った顔がまた素敵なんだ」とのろけているのをカルシファーが嫌というほど聞かされているからだろう。
「ソフィーは行き先を言わなかったぞ」
家出なのだから当然である。
ハウルは扉に手をかけ、溜息をついた。
「僕には分かってる。 先に口走ったのは僕の方なんだから」
ハウルが向かった先は広い土地のわりには外観がつつましく、どうにも街の雰囲気とは違う異文化をかもしだしている家だった。
分かっている。分かっているさ。今回は(も)明らかに僕が悪い。
そんなことを考えながらハウルは扉を叩いた。
「アブダラ、いるんだろ?」
すぐに声があり、それより間もなくハウルを出迎えたのは、アブダラではなく彼の美しい妻の方だった。
「まあ、御用は何かしら」
彼女、夜咲花は誰もが認める美貌の持ち主だ。自分では自覚がないようだが、彼女の持つ美しさは外見だけに留まらず、常に高い好奇心や教養までとすみずみまでに行き渡っている。アブダラはこの妻をたいそう大事にしている。
この夫婦はいつもは旅に出ている。最近になりこの街に戻ってきたとハウルが知ったのは、つい昨日のことだったのだが。
「やあ夜咲花、今日も素晴らしくお美しい。 ところで僕の妻がこちらにお邪魔していないだろうか」
がやがや町ではこれを見たいがために花屋が繁盛したと言われる極上の笑みを湛えながら、ハウルはうやうやしく訊ねた。
すると夜咲花は怪訝そうに首をかしげ、
「あら、お美しいとは昨日も仰いましたわね。わたくし、人の外見はそう簡単には変わらないと思いますの。ですから“今日も”と仰られるのはおかしくはありませんか。しかしわたくしを美しいと仰ること自体もとてもおかしいと思いますわ。なぜなら――」
などと理屈を語り始めた。
彼女の美しさはどこを取っても文句の言えないものではあったが、この理屈っぽさ、そして人によっては物凄く無駄ではないだろうかと思うような好奇心が、彼女をどこか強烈な人間に仕立て上げていた。
もともと面倒ごとが嫌いなハウルにとっては非常に頭が痛くなることで、彼は慌ててそれを遮った。
「あーはいはい、すまない僕の言葉が悪かった。 ええと、それでソフィーを探しているんだけど」
「――わたくし知りませんわ」
夜咲花はぷい、と顔をそむけた。少なからず不機嫌な表情なのは、話を途中で遮られたからだけではないだろう。ハウルはやっぱり、と苦笑した。
「そんなことを言わずに、頼むよ夜咲花。 どうせ浮気してやるって叫んでもここに来るのは明白なんだからさ」
通された居間で、喧嘩の理由は本当に些細なことだったのだとハウルは語った。
昨日、王宮に呼び出されたハウルはたまたま報告にきていたアブダラ夫妻と久しぶりに顔を合わせた。常に顔を合わせていればそんなことはないのだろうが、
やはり久々に見た夜咲花は美しく、自他ともに認めるほど美しい女性に弱いハウルはついついお世辞――といっても事実彼女は美しいので決して嘘ではなかった
のだが――を並べて長話をしてしまったのだ。
しかしこの長話がハウルだけのせいかといえば、そうではない。話すことに関してならアブダラもかなり負けてはいない。通常、自分の妻が他人の男に誉めら
れれば嫉妬心を覚えるだろうが――事実、ハウルはそのタイプの人間だ――彼は違った。一緒になって褒め称えるのである。しかも、一体どこからそんな言葉が
浮かんでくるのやらというほど、ボキャブラリーの幅が広い。
そんなアブダラと理屈っぽい夜咲花に囲まれてしまっては、時間もあっという間に流れてしまうというものだ。それで帰りが遅くなり、ずっと待ちつづけていたソフィーのご不興を買ってしまったわけなのだが。
ハウルの目の前に座るアブダラと夜咲花は、そろって溜息をもらした。
「――そこで、夜咲花の名前しか出さなかったというわけですね、高潔なる魔術師殿」
相変わらず大袈裟な呼び方にハハハと乾いた笑いをもらしたハウルだったが、しかしそれでもいつもより控えめな表現だったと気づくと、彼も少しは怒っているのかもしれないと思った。
「いやぁ、売り言葉に買い言葉というか」
「お二人の喧嘩は犬も食わないと、よく申されていましたよ」
「誰が」
「気高き魂をお持ちになる話好きの青き炎の悪魔殿です」
カルシファーめ、とハウルは心中で舌打ちをした。
お世辞に弱いカルシファーは、この家にやってきては誇らしげな顔をして帰ってくる。大人しくおだてられているだけかと思いきや、どうやら余計な世間話までしているらしい。
「とにかく、ソフィーが夜咲花と浮気したと勘違いしてくれたおかげで、こうして僕が迎えにきたわけなんだ」
はぁ、と溜息をもらす。
ハウルにも自覚はあるのだ。ソフィーを怒らせるのは、自分に関心を向けて欲しいからだ。喧嘩の原因のほとんどが自分だとは思いたくもないが、少しでも自覚がある限りはどうしようもない。彼女の怒りはいつもまっすぐに自分に向けられていて、それが嬉しいことだと感じるのは腹立たしく喧嘩をしてしまった後であり、こうして彼女がいなくなってみれば残るのは後悔しかないのだ。
「僕が夜咲花とって口走ったから、きっとソフィーは当てつけにアブダラの所へ来るだろうと思ったんだ。 当たってるだろ?」
「その件については、わたくしからお話いたしますわ」
夜咲花が言うことには、ソフィーはまず扉を叩くもせずにずかずかと家の中へ入ってきて、アブダラを見つけるなり「悔しい!」と叫んだらしい。事情を何も知らない二人はただただ驚くばかりで、こういう場合は女同士が良いということでとりあえずアブダラは席をはずしたという。
ソフィーが夜咲花に話した内容はハウルが先ほど話したこととほとんど同じで、やはり売り言葉に買い言葉で喧嘩になったということを認めているらしい。
「しかし何が悔しいのかは決して仰ろうとしないのです。それはもう、困りましたわ。愛する夫が移り気に他の女性へうつつをぬかしているとは考えもしないと、はっきりと仰いましたのに…」
夜咲花とアブダラは顔を見合わせて、はぁと溜息をつく。
話を聞いている間のハウルは真剣そのものだったが、しかし最後の言葉を聞くと悪戯っぽく目が輝いた。
「――僕が浮気しているとは考えもしないって? ソフィーが本当にそう言ったの?」
「わたくしは嘘を申したりしませんわ」
夜咲花は、つんとすましたように言ってのける。
ハウルはそれを見て安心したように息を吐き、そしてくすくすと笑い出した。
「どうされました?」
心配そうに顔を覗き込むアブダラに手を振って何でもないと言い、しかしハウルの笑いの虫はなかなか収まらなかった。
「ごめんごめん、いや、僕らって本当に――… ソフィー!いるんだろう、ソフィー!」
ハウルは笑いすぎて目じりにたまった涙をぬぐいながら、愛する奥方の名を呼んだ。
ソフィーが出てきたのは隣の部屋の扉からではなく、インガリー国王からの贈り物とされる豪勢な食器棚の影からだった。
それがまた可笑しかったのか、ハウルの笑いはますます止まらなくなる。
「そ、そんなに笑うことないじゃない! あたし、まだ怒ってるのよ!」
膨らませたソフィーの頬は、怒りと羞恥のせいかいつもより高潮している。
ハウルはごめんと謝りながら、ソフィーの手を取った。
「今回は僕が悪かった。だから機嫌を直してくれないかい、奥さん?」
「そんなのもう聞き飽きたわよ。腹が立つったらありゃしない。あんたはいつもあたしを散々心配させて、怒らせて、そしてそんなあたしを上の方から楽しげに見てるんだわ」
「そんなことないよ。僕が楽しげなのは、嬉しいから」
「あたしを怒らせてそんなに嬉しいっての!?」
この二人の喧嘩については話に聞いているが、しかし実際見てみるとカルシファーの言っていることがよく理解できると、二人の傍観者は思った。
ソフィーは次から次へと文句を並べ立てるが、ハウルはといえば、それを真剣に聞いているのかそうでないのか、とにかく愛しそうな笑みを浮かべながら全て受け止めている。
「何よ何よ!だから悔しいのよ! あたしだって、ハウルが夜咲花と本気で浮気しただなんて思わなかったわよ! ハウルはいつもあたしが怒るって知ってて怒らせるの。そしてあたしが結局あんたを許してしまうってことも知ってるんだわ! だから悔しいのよ!」
最後には夜咲花が「まぁ!」と驚くような口汚い言葉でハウルを罵ってみたが、しかし当のハウルは腹を立てるでもなく大人しく耳を傾けている。
やがて怒鳴り疲れたのか、ソフィーはしゃがみこんでしまった。
「ソフィー、もう気が済んだ?」
頭の上から降ってくる優しい声に、ソフィーはふうと溜息をつく。
「――どれだけ怒ったって無駄なのよね。 あんたはいつだってあたしを迎えにきてくれるし、結局あたしもあんたを待ってるんだもの」
「だからあんな食器棚の影に隠れてたのかい?」
くすりと笑われ、ソフィーはむっとして顔を上げた。
「だって、こんなに早く見つかると思わなかったんだもの!」
「はいはい」
ハウルはくすくす笑いをそのままに、ソフィーの手を引っ張りあげた。勢いがついてしまったソフィーの身体はそのまますっぽりとハウルの胸の中に収まり、ハウルはぎゅっと抱きしめ耳元でささやいた。
「僕が嬉しいのは、こうしてソフィーがまっすぐに僕を想ってくれるからだよ。 そりゃ怒らせてしまうのは悪いとは思ってる。でもそれは僕がソフィーしか愛せない証拠だから。 だから僕は何度でもきみを迎えに行くんだ」
「……知ってるわよそのくらいっ」
こうしてまた絆されるのだと思うとふたたび悔しさがこみ上げてくるソフィーだったが、しかしこうしてハウルを待っているのは自分も彼しか愛せないという自覚があるからで。
「だいすきよ、ハウル」
なんとなく涙が出そうになったのは、かろうじて堪えることができた。
嵐のようなジェンキンス夫妻はアブダラ夫妻に礼を言い、ハウルがぱちりと指を鳴らすと言葉通り嵐に乗って帰って行った。
「――わたくし思うのだけれど」
「なんだい、夜咲花?」
ことの成り行きを呆然としながら見守っていた二人だったが、仲直りまで見届けるとアブダラはたいそう喜んだ。
しかし夜咲花だけは首を傾げっぱなしだ。
「あのお二人の話を聞いていると、何の解決にもなっていないような気がしますの。結局怒ったり怒られたり、家を出たり迎えに行ったりするのがお好きだということかしら?」
「夜咲花…」
「ということは、またいずれ同じことがあるということですわね」
嵐の去った我が家を見て、二人はなんとも不可思議な溜息をついた。
城に戻ったジェンキンス夫妻は、珍しくマイケルの説教を受けることになった。
「二人ともひどいですよ! 僕にモーガンを押しつけて…おかげで僕はチェザーリの店に行けなくなったんですからね!」
その隣では、カルシファーがつまらなそうにゲフゥと下品に煤を吐き出したという。
「なんだ、オチは結局いつもと同じかい」
END
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