まずはここから




「さて、と」
 いまだ重く感じる身体をなんとか起き上がらせ、ハウルは可笑しそうに周囲を見渡した。
 いろいろあってそれどころではないと思っていたものも、冷静になってみればどこから手をつけてよいのか分からない現状に嫌でも気づく。これはもう、笑うしかない。
「ソフィーはやることがいっつも派手だね。 うん、僕好みだ」
 そんなことを言いながら、ハウルは崩壊した動く城――元、と言った方が確実に正しい表現だが――のかろうじて残った部分を眺めた。
「カルシファー、また僕に力を貸してくれる?」
 星の光やちろちろと燃える炎に姿を変えながら、カルシファーは「おいらに雨があたらないようにしてくれるんなら」と言った。
 ソフィーはまだハウルを休ませたいと言ったが、さすがにカルシファーを死なせるわけにはいかない。まずは全てが落ち着いてからだ。
 ハウルはカルシファーを手に乗せた。
「それなら、まずは引越しから始めようか!」


 隣国の王子を送り出し、このまま戦争が終結することを祈りながら皆が安堵の一息をついたとき、彼らに残っていたものはわずかな板切れだった。
 幼い子供が拾ってきては宝物だと呼ぶようなガラクタで構成された外観は消え、そしてそれらを支えてどこへなりと運んでくれた四本の足は崩れ、人々が恐れおののいたハウルの城はこんなにも小さくなってしまった。
「ごめんなさい……」
 スカートのすそを握り締め、うつむきながら謝るソフィーの姿はもはや九十歳の老婆ではない。ハウルの目の前にいるソフィーは、カルシファーと契約を交わしたあの夜、未来で待っていて欲しいと叫んだ星の光に染まった髪を持つ綺麗なひとだった。
 あのときからずっと綺麗な女性だと思ってはいたが、しかし実際に出会った彼女はなかなかどうしてとても可愛らしい娘だった。
 心臓が戻ったとかそういう次元ではなく、ハウルはこの娘のことを本気で愛しいと思う。
「ソフィーが謝る必要なんてないさ。これはきみが僕を助けたいと願ってくれた結果なんだから、少なくとも僕は誇りに思うね」
「でもおいらは暖炉がないと安心できないよ」
 横から拗ねたような声でカルシファーが言う。
「カルシファー、契約は切れたんだからそんな必要はないだろう?」
「それでもあの暖炉はおいらのお気に入りだったんだい!」
「そいつは失礼。 全然知らなかったよ」
 肩をすくめてみせると、カルシファーは「ふん!」と鼻を鳴らした。
 その隣を見てみればソフィーは相変わらず申し訳なさそうにしているし、マルクルはとりあえずことの成り行きに順応しているようだが、荒地の魔女はいまやただの老婆だ。やはりなんとかしなくては。
 そう思い、ハウルは立ち上がったのだった。

「今度の引越しは前みたいに簡単にはいかないからね」
 ハウルは適当に探した野原に魔法陣を描きながら言った。
「まず引越しする前に、城を元に戻さなくちゃ」
 いまや板切れとなってしまった城は、屋根がなければ入り口も出口もない。あれだけのガラクタの中で実際部屋として機能していたのはほんの一部だが、しかし一番根本的なものすらなくなってしまっているのだから、さすがのハウルもこれを戻すのには骨が折れるだろうと誰もが思った。
「ハウルさん、だいじょうぶなんですか?」
「そうよ、あなたは疲れきっているはずだわ。無理をしてはだめ」
 マルクルもソフィーも心配そうな顔で見上げてくる。ハウルはそれを嬉しいと感じながら軽く笑った。
「おいおい二人とも、僕を甘くみてないか?僕はあのサリマン先生の後継者にと考えられた魔法使いだよ。疲れたってだけで使えなくなる魔法なんて一つもないさ」
 少し過剰だと思うような言葉も、ハウルは何でもないことだとばかりに言ってのける。
「ハウルだけじゃなくて、おいらもいるしね!」
 カルシファーまでもそんなことを言うものだから、少なくともマルクルは安心したように胸を撫で下ろした。
 しかしソフィーは眉間にしわを寄せながら、不満げにハウルの服のすそを引っ張った。
「ソフィー?」
「…だって、あなたはそうやってすぐに誤魔化すけれど、いつも無理ばっかりするんだもの。こっちは心配しすぎて心臓が何個あっても足りないわ」
 まるで子供がわがままを言うように、頬を膨らませる。
 それが本当に自分を心配してくれているのだと思うと、ハウルはたまらなく嬉しかった。愛しいと思う娘が、こんなにも自分を想ってくれている。
「ソフィーの心臓が何個もあっちゃたまんないなぁ。一個くらい悪魔に取られても気づかない、なんてことになりかねない」
「ハウル、私は本気で…!」
 からかわれたと思ったのかソフィーは声を荒げた。しかしその拍子にハウルの服から手を放してしまい、ハウルはくすりと笑ってカルシファーを手の中で燃やしながら魔法陣の中心へ立った。
「ごめんソフィー、からかったんじゃないよ。本当にそう思ったんだ。きみの心は僕だけのものでいい。一個で充分だってこと!」
 そう言った瞬間、ハウルの手の中で燃えていたカルシファーが伸び上がった。かと思うと巨大に膨れ上がり青色の炎へと姿を変える。以前に引越しをしたときよりも遥かに大きい。
 皆は唖然と眺めていたが、しかしハウルはけろりとした表情のままだ。手の中のカルシファーは温度を伴っていないらしく、その炎がハウルに燃え移ることはなかった。
「よし、じゃあ危ないからマルクルはソフィーと荒地のマダムをちゃんと見てて。 安全だとは思うけど、動かない方がいい」
 そして足元でくるくる回っているヒンにも「マルクルのところへ行っておいで」と声をかけ、今度は巨大化したカルシファーに何語かを呟いた。
 すると伸び上がったカルシファーの周りに崩れ落ちたはずのガラクタの山がどこからか集まってきた。
 ヒュンと音を立てて物凄いスピードで飛んでくるものもあれば、面倒くさそうにゆっくりと集まってくるものもある。カルシファーの周りに集まったガラクタたちは、やがてそれぞれが意思を持ったように組みあがってゆき、傍観者と化しているソフィーたちをも取り囲んだ。とりわけそのスピードの速いガラクタが通り抜けるときに頭を引っ込ませなければならなかったことを除けばソフィーたちは何をするでもなく、最後に扉がバタンと音を立てて閉じると、あっという間に城ができあがってしまった。
 完成した城で皆が呆然と立ち尽くす中、天井を見上げながら最初に口を開いたのは、意外なことに荒地の魔女だった。
「これまた良いおうちをつくったねぇ」
 それで我に返ったソフィーがハウルを見ると、例の飄々とした態度で笑っていた。
「ね、ちょっと危なかったけど、大丈夫だっただろ?」
「ハウル…」
「僕よりもカルシファーの方が疲れたんじゃないか。 おーいカルシファー?」
 手の中の炎はいつの間にか元の大きさに戻り、ちろちろと揺れていた。名前を呼ぶと面倒くさそうにきょろりと目が開き、意地悪く溜息をついた。
「うううっやっぱりハウルはおいらをこき使うんだっ」
「そんなに拗ねなくたっていいだろ。 あとひと息だ」
 やっぱり戻らなきゃ良かったとぼやきながら、カルシファーはもう一度青色へと姿を変える。
「ソフィー、ちょっと離れて。 今度こそ本当の引越しをするからね」
 よくよく見ると行き先が変わる扉には何の色もついていない。おそらく扉の向こうには先ほどと同じ野原が広がっているだけなのだろう。
「ハウル、それはまた今度でいいわ。 やっぱり無理はしないで」
 ソフィーは止めたが、しかしハウルは首を振るだけだった。
「こういうのは一気に終わらせてしまった方がいいんだ。先延ばしはだめ。逃げるのと同じことだ」
 ハウルはまだ何か言いたげなソフィーをやんわり笑って制し、ふたたびカルシファーに呪文をささやいた。
 なんだかんだと嫌がっていたカルシファーだが、呪文を受けて大きくなると、彼らをとりまく景色がどんどん変わっていった。
 壊れた家具は飛び上がりながら元の位置へ戻り、割れたガラスはキラキラと光りながら窓枠へ収まってゆく。そしてじゅうたんが羽根が生えたように舞い上がりやがて家具の下に落ち着いたかと思う頃、扉には以前のように四色の飾りがつけられていた。
「――…すごい、すごいですお師匠さま!」
 またもやあっという間に終わってしまった魔法に、マルクルは飛び上がって感動した。ヒンも一緒になって部屋の中を駆け巡り、荒地の魔女は「カルちゃんすごいねぇ」などとにこやかに見守っている。
 今度こそ完全燃焼してしまったのか――もっともそんなことになったら大変な事態に陥ってしまうわけだが――、小さくなったカルシファーはハウルの手からふよふよと飛び出し、暖炉にまきが組んであるのを見つけると、物凄い速さでその中へ入っていった。
 まきが燃え始めるのを確認すると、ソフィーは泣きそうな顔でハウルを見上げた。
「…ハウル、ありがとう」
「きみが笑ってくれるためなら、いくらでも」
 ハウルはどうってことないと笑うと、飛びついてきたソフィーを転ぶことなく抱きとめた。

 新しい城は、以前の城とは同じようでまったく違うものになっていた。
 まず階段を上がった先に小さなベランダを作ったとハウルは説明した。洗濯物を干すというよりも景色を眺めるためらしい。ご丁寧にも二人分のスペースしかないと言われ、マルクルは不思議がった。
 他にも細かなところが変わっていたが、誰もが驚いたのは新しい出口の扉だった。
 一つはソフィーの店へ、一つは花畑へ繋がっている。これは以前と同じことで、違うといえば黒色の扉がもう二度と開かないということだけだった。
 しかし、扉の行き先を決める色は四つあるのだ。
「マルクル、扉を開けてごらん」
 扉を最後の色に合わせ、ハウルに言われた通りにしたマルクルが見たものは、頭で想像した以上の光景だった。
 そこには緑の庭が広がっていて、小さいながらも花壇があり木陰ができるほどには木も立っていた。そしてその向こうには海の色とは違う、明らかな青色が広がり――
「ハ、ハウルさん! この城、空を飛んでますよ!」
 庭に飛び出すと、気持ちがいいほどの風が通りぬけていった。
 マルクルは興奮しきりで、ヒンと一緒に緑の上で転がりながら喜んでいる。
 木陰にはゆったりした椅子が置いてあり、ハウルは荒地の魔女をその椅子までエスコートした。椅子に腰掛けた魔女は「いい男だねぇ」と笑ったが、どうやらそれ自体に深い意味はないらしい。
 その背景で、ソフィーはただ黙って目を瞬かせていた。
 ハウルは少しだけばつが悪そうに肩を竦めた。
「――四本足より二枚の羽根の方がいいと思って。 僕はもう、独りでは飛ばないし」
 するとソフィーはやっと笑顔を見せて、ハウルの肩にこつんとおでこを預けた。
「そう、ハウルは独りじゃないのよ」
 その表情をたまらなく愛しく感じたハウルは、ソフィーを力いっぱい抱きしめた。そして
「ほんとはさ、僕らにはこれからあま〜い生活が待ってるんだって思ったら」
耳元でささやいて、
「喜びのあまり天にも昇る思いっていうか、できあがったらこの城に羽根が生えてたんだよね」
「……もう、ハウルったら!」
 星色の髪ごと優しくキスをした。 
 そして頬を染めるソフィーを見て、ハウルは喜びのうちにこっそり確信する。

 彼女のたった一つの心臓は、やっぱり僕のものなんだ。
 




END




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