お 楽 し み に




 ハウルが天井まで積みあがった膨大な魔法書と睨めっこをしている光景はなんとも珍しい。
 ソフィーは苦笑いを浮かべた。
「別に調べなくてもいいじゃない?」
「ああソフィー、なんてこと言うんだい! 知っておくのとそうじゃないのでは心積もりってものが違う。少なくとも僕は父親になるのなんて初めてなんだから!」
「…あたしも母親になるのなんて初めてなんですけど」
 呆れた声を出してもハウルの耳には届かない。彼はふたたび魔法探しに没頭していた。

 ソフィーが懐妊したと分かったのは昨日のことだ。
 最近気分が優れないと言っていたソフィーが、とうとう倒れてしまったのだ。本人はただの貧血だろうと言ったが、当然ハウルがそんなことを聞き分けるわけがなく、あわてて医者の所へ駆け込んだのだった。
 聞けばこれまでもなんどか嘔吐を繰り返していたらしく、それを初めて聞いたハウルは飛び上がらんばかりに驚いたが、診察結果を聞いたときは本当に飛び上がって驚いた。
「赤ちゃんですな」
 これ見よがしに白く長いヒゲをしごきながら医者は言った。
 最初はこの医者を(大丈夫かこのじいさん…)と胡散臭げに見ていたハウルだったが、このときばかりは彼の言葉をあっさり信用した。

「「あ、赤ちゃん――!?」」

 ハウルとソフィー、二人から同時発せられた叫び声は二軒隣の家まで聞こえたという。
 病院を出るときまで耳を抑えていた医者に見送られ城に戻ってからといえば、絶対安静にと暖炉のそばに座らせるわ、皆にも報告しなくてはと魔法を使って一度に数十枚の手紙を書いたりするわでとにかくハウル一人が大騒ぎだった。
 暖炉のそばのソファにはわざわざ二枚も三枚ものブランケットを用意したし、懐妊報告の手紙も「こんなに書いて誰に宛てるの」という声はまったく耳に入らず、いつの間にか送ってしまったらしい。
 そんな大騒ぎの城で一番冷静だったのが意外にもカルシファーで、ちらちらと炎を揺らしながらこんなことを言ったのだ。
「あんた達の子供ねぇ……で、男の子? 女の子?」
 その瞬間、ハウルの動きがぴたりと止まった。
「…今何て言ったんだい、カルシファー?」
「だから男の子と女の子、どっちが産まれるのって訊いたんだよ」
 ハウルは無言でソフィーの顔を見た。しかし彼女は首を横に振るだけ。
「そうだ、どっちなんだろう!」

 そうして、ハウルの魔法探しが始まったのだ。
 生まれてくる前の赤ちゃんが、男の子か女の子か分かる魔法。ハウルは「そんな魔法覚えなかったんだよ」とぼやきながら書物をめくっているが、それはそうだろうとソフィーは思う。そんな魔法、存在しても意味がない。
「ハウルの子なんだから、可愛いに決まってるわ。 それだけ分かれば充分だと思わない?」
「可愛いのは分かってるさ。なんといっても、きみの子なんだからね!」
 取りつく島のない、というのはこのことだ。
 似たようなやり取りはすでに昨日から何度も展開されている。しかしどれもハウルを止める効果はなかった。
 彼の中では産まれてくる子が可愛いということはすでに決定事項であり、ゆえに問題にはなっていないのだ。ただ男の子か女の子か、それを知りたいだけ。
「僕は女の子がいいな、ソフィーそっくりの可愛い女の子」
 そんなことを口走りながら、別な本を探しに部屋を出ていった。
「…まったくもう」
 さすがのソフィーも呆れてしまう。
 こうなることは予想できなかったが、結果としてこの状況を焚きつけてしまった形になるカルシファーは、古い書物の埃が飛んでくるのを嫌がったが、しかしその不平を口にすることはなかった。少しは責任を感じているらしい。
「カルシファー、あんたには赤ちゃんがどっちか分かる?」
「そんなの分かるもんかい。 だいたい本当に人間が産まれるのかどうかもあやしいってのに」
「失礼ね!」
 ぷいっと怒ると、カルシファーはけたけたと笑いだした。
「ハウルは異常だとして、やっぱりソフィーも知りたいものなのかい」
 問われて、うーん、と考え込む。
「知りたいようなそうでないような…不思議な感じね。ハウルは女の子がいいって言ったけど、私は男の子でもいいわ」
「おいらにはよく分かんないけど」
「そうでしょうとも」
 言いながらソフィーは背もたれにかけていたブランケットを膝の上に乗せた。
「本当に、どっちでもいいと思うの。あの人の子供だもの、可愛いには違いないわ。でも――本当はあんたと同じで、あたしにもよく分かってないのかもしれない」
「…言ってる意味が分かんないぞ」
「いいの。あたしにも分かってないんだから。 …あたし、少し眠るわ。どうせハウルはまだ魔法書探しに忙しいでしょうから」
 膝に置いたブランケットを胸の位置まで持ち上げて、ソフィーは目を瞑った。
 そういえば昨夜は気分が高揚してよく眠れなかった。そう思うと一気に睡魔が襲ってくる。
 意識を手放す寸前、カルシファーが何かを呟いたような気がした。しかし、それは薪がぱちりとはじけた音だったのかもしれない。


 ふとソフィーが目を覚ますと、見慣れた光景が視界に広がった。
 暖炉ではカルシファーの炎が揺れていて、それがとても温かくて気持ちが良かった。
 テーブルの上を見ると、あれほど山積みになっていた書物は跡形もなくなくなっていて、珍しくハウルが自分で片付けたのかしらとソフィーは思った。
「そういえばハウルは?」
 魔法書の山も見つからなければ、その持ち主も見当たらない。自分がどれだけ寝ていたのは知らないが、窓の外を見る限りそんなに時間は経っていないように思える。
「ねえ、ハウルは出かけたの?」
 薪を燃やしているカルシファーに訊ねてみるが、返事はない。
「なによ、返事くらいしてくれたっていいじゃない!」
 怒ってみるが、それでも無反応だ。
 疑問に思って覗き込んでみるが、カルシファーはソフィーを見ようともしなかった。厳密にいえば、見ようとしないのではない。目が全く合わないのだ。
 これはどうしたものかと思案していると、一人の少年がソフィーの隣に腰掛けてきた。
 綺麗な黒髪に整った顔立ちをしているこの少年に、ソフィーは見覚えがあった。
「あんた、ハウルね?」
 どう見ても少年なのだが、ソフィーはハウルにしか見えなかった。顔立ちも同じだし、彼の元の髪の色もこんな感じだ。ソフィーはこの少年が子供時代のハウルなのだろうと思った。
「ねえ、どうして子供になっちゃったの? カルシファーは何故あたしのことが見えていないの?」
 矢継ぎ早に訊ねると、少年はゆっくりと首を振った。
「僕はハウルじゃないよ。 カルシファーがあなたのことを見えていないのは、あなたがここの人じゃないからなんだ」
 そう言ってソフィーのお腹へ手を当てると、少年はにっこりと笑った。
 意味が分からないソフィーは少年の顔を不思議そうに眺めた。
「だいじょうぶ、すぐにもとの世界へ戻れるよ。 戻ったら父さんに……まあいいや」
「ねえ、何がいいの? お父さんって誰? あなたは誰? 本当にハウルじゃないの?」
 詰め寄るソフィーを少年は嬉しそうに見つめ返す。
「あなたは本当に昔からこういう人だったんだね。 父さんも苦労するはずだよ」
 そうして思い出したように肩を揺らして笑う。
「まあいいや。 近いうちにまた会えるし」
「ち、ちょっと待って、質問に答えて!」
 少年は立ち上がり、ソフィーの顔の前に右手をかざした。
「ねえ、質問ばっかりはダメだよ。いずれ分かる答えは急ぐ必要もないでしょ? 楽しみはとっておかなくちゃ」
「ちょっと!」
「戻ったら伝えて。 女の子じゃなくてごめんなさいって」
 そう言うなり、ソフィーの視界には少年の右の手のひらだけが残り、しかしそれも次第に薄くなってゆき、しまいには全てが霞んで白い空間だけが残った。
 質問に答えてくれなかった少年は、その世界もろとも姿が見えなくなってしまった。


 次に目を覚ましたときも、ソフィーの視界にはやはり見慣れた光景が広がっていた。
 暖炉の中ではカルシファーの温かい炎が揺れていて、しかし先ほどと違うのは、
「おや、お目覚めかい」
と声をかけてきたことだった。
 辺りを見渡すと、テーブルには魔法書が積みあがったままで、もしかしたら眠る前よりも数が増えていたかもしれない。
「さっきのは夢…?」
 カルシファーは知らないよ、と炎を揺らした。
「あたし、どれくらい寝ていたのかしら」
「そんなに長い時間ではないけど」
 答えたのはカルシファーではなく、更に一冊本を抱えて二階から降りてきたハウルだった。
「奥さんの可愛い寝顔を見れたのはラッキーだったな」
「なに言ってるの」
「本当だってば」
 くすくすと笑いながら、ハウルは持ってきた本をテーブルの空いているところに置く。その衝撃で乱雑に積みあがった本の山が崩れ落ちないやしないかと思ったが、しかし不思議なバランスを保っているらしく、本は一冊も落ちてこなかった。
 その光景を見てソフィーはふと思う。
 もしかしてさっき夢でみた少年は――…
「ねえハウル。 やっぱり調べるのはやめない?」
 おもむろに声をかけられ、ハウルは本から顔を上げた。
「どうしてだい? きみは男の子か女の子か知りたくないの?」
「それはもちろん知りたいけど……でも」
 ソフィーはハウルの顔をまじまじと見つめた。
 うん、やっぱりそうだわ。
 一つの確信を得ると、ソフィーはふわりと笑った。

「いずれ分かる答えは急ぐ必要もないでしょ? 楽しみはとっておかなくちゃ」
 
 あの少年が誰だったのか。
 あの少年が何を言いたかったのか。
 ソフィーはその答えに気づいてしまった。
「心積もりなんてだいじょうぶよ。 あたし達は、ただそのときを楽しみに待ちましょ?」
 ハウルは何故ソフィーが急にこんなことを言い出したのか分からなかったが、しかし結局は愛する奥さんの笑顔にはとても弱いわけで。
「――そうだね。 どちらでも可愛いには違いないんだし」
「今から親ばかだな」
「違うね。 これは必然的はことだよ」
 カルシファーの軽い嫌味をさらりとかわした。
 そしてパチリと指を鳴らすと、山積みの本が独りでに部屋を飛び回り、自分の眠っていた場所へと戻っていった。
「これで後片付けも無事完了。 あとはゆっくりお茶でも飲みながら、楽しみに思いを馳せるとしよう」
 悪戯っぽく片目を瞑ったハウルに、ソフィーは大きく頷いた。

 お茶は自分が用意すると席を立ったハウルの後を姿を見て、ソフィーはこっそり思う。
(あなたの伝言、伝えないことにするわ。 だって、楽しみはとっておかなくちゃ)

 ふふふ、と笑みをこぼすソフィーを、カルシファーは不思議そうに眺めていた。
 




END




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