砂 糖 菓 子
閉じられた瞳に、あらためてまつげの長さを羨ましく思う。
この人は本当に綺麗で、そして優しい顔をしている。
「あれ? 師匠は寝ちゃったの?」
「そうよ。 だから起こしちゃダメ」
人差し指を口元に立てて、ソフィーはにこりと笑った。
そして音を立てないようにそうっとキッチンへ入り、「カルシファーお願いね」と暖炉に火を入れた。
ハウルは港町ではジェンキンスの名前でまじない師をしているが、報酬は決して高額なものを要求しているわけではない。客人は主に海に出る前の漁師やその家族で、わずかばかりの硬貨で請け負う場合もあれば、とれたての新鮮な海鮮物で請け負う場合もある。
しかし今日に限り、珍しく果物を持ってきた客人がいたのだ。
「いつもお世話になっているので…」
そのときハウルは不在で、ソフィーはその好意をありがたく受け取ったのだった。
大きめのボウルに小麦粉を入れて、別の小さなボウルで泡立てていた卵と混ぜ合わせる。それにミルクも加えてさっくりかき混ぜ、砂糖や酒などのエッセンスで好みの味に仕上げてゆく。
そうして下準備が終わった頃、ハウルが帰宅した。
「ただいま―…」
いつになく疲れきった声だった。
「お帰りなさい、ハウル。 やっぱり王宮は疲れた?」
「うん…」
今やハウルとカルシファーの契約は解け、戦争も終結した。そうなっては彼がサリマンと決別する理由はどこにもない。だから仲違いが直るとまで望まずとも、せめて二人の間にある確執を少しでも和らげて欲しいとソフィーは思っていたのだが。
「先生は嫌いじゃないけど、やっぱり王宮は嫌いだな。むしろあの戦争好きの国王が嫌いだ。 僕はやっぱりここがいい。僕は優しい場所が好きだ」
ハウルは甘えるようにソフィーの肩口に顔をうずめた。
確かにソフィーも国王やサリマンのことを良くは思っていない。だがこのままでいいとも思えず、なんとかハウルを説得して王宮へ向かわせたのだが、どうやらそれは失敗だったようだ。
「私がわがままを言ったせいね。 ごめんなさい、ハウル」
柔らかい黒髪を撫でると、ハウルはかすかに首を振った。
「きみが謝る必要はないよ。 僕の居場所は一つだけでいいってことさ」
「…うん」
そして二人はソファに腰掛けて何気ない話をしていたのだが。
「ふふふ」
マルクルはハウルの寝顔を見て嬉しそうに笑った。
「あら、彼の寝顔がどうかした?」
訊ねると「うん!」と元気の良い返事が返ってきた。「しー!」と人差し指を立てると、マルクルは慌てて口をおさえた。
そっとハウルの様子を伺ったが、規則正しい寝息は乱れていない。マルクルはほうと息を吐くと、小声ではあるが嬉しそうに話した。
「あのね、ハウルさんがこんな風に無防備に眠ることって珍しいんだよ」
「…そうなの?」
「うん。 こういうのって、ソフィーが来てからなんだ。ハウルさんはずっと優しい人だったけど、ソフィーが来てからまた少し変わったみたい。 僕は前からハウルさんのこと好きだったけど、ソフィーが来てからのハウルさんはもっと好き!」
子供は正直だ。あまりにも目を輝かせていうものだから、なんだかソフィーも嬉しくなってくる。
「私もハウルと出会う前の自分より、ハウルと出会ってからの自分の方がとても好きだわ」
「僕もソフィー大好きだよ! おばあちゃんのソフィーも好きだけど、お姉さんのソフィーも大好き」
「ふふ、ありがとう」
頭を撫でてやると、マルクルはえへへと笑った。
「ハウルさんがソフィーを大切に思ってて、ソフィーもハウルさんを大切に思ってるから、みんな優しいんだよね。 僕もこの城が大好きだな」
ソフィーはハウルが帰ってきたときのことを思い出し、そしてゆっくりと頷いた。
「私も、みんな優しいこの城が大好きよ」
「うん!」
ちょうどそのときだった。
暖炉からパチッと大きな音が響いた。
「おーい三人とも、そろそろ焼けるぞ〜」
カルシファーがご丁寧にも――むしろ嫌がらせに近いが――炭を飛ばして知らせてくれたのだった。
ソフィーは「ああもう」と煤を拭くために雑巾に手を伸ばした――が、ふと今の言葉がひっかかった。
「…カルシファー、“さんにん”?」
「そ。 さ・ん・に・ん!」
意外な所から聞こえた返事に驚くと同時、キラキラとした光が足元をぬけてゆき、それが煤の上ではじけると、そこには何の汚れも残っていなかった。
「ハウルならずっと起きてたぞ。 あんた達が気づかないだけで」
カルシファーは二人をばかにしたように炎を揺らしている。
当のハウルはすでに起き上がっていて、面白そうに笑っていた。
「もう! 起きているならそう言ってちょうだい!」
「あ、もしかして僕が起こしてしまったんでしょうか…」
頬を膨らませるソフィーに反して、マルクルは肩を縮こませた。
しかしハウルはまったく気にとめていないらしく、
「こんなにいい匂いがしてるんだもの、誰だって目を覚ますよ」
指をパチリを鳴らすと、かまどに入れていた大きな皿が独りでにテーブルの上に落ち着いた。
そしてもう一度指を鳴らすと型が綺麗にはずれ、飾り気はないが形の良い甘い香りのするケーキが姿を現した。
「これ、これから飾り付けるんだろ? 僕も一緒にやるよ」
言いながらすでに手には生クリームの入ったボウルと泡だて器を持っている。
ソフィーは呆れながら、しかし心なしか嬉しそうに「お願いするわ」と言った。
ケーキの熱を冷ますのはマルクルにまかせ――これも魔法の修行だよとハウルが言った――ハウルがクリームを泡立て、果物はソフィーが担当することになった。
マルクルは魔法書を取り出して冷却魔法の方法を調べるところから始めなくてはならず、バタバタと二階とキッチンを往復している。
その間ハウルとソフィーはおしゃべりでもしながら、ケーキが冷めるのを気長に待つことにしたのだが。
「ねえソフィー」
「なあに?」
「ありがとう」
突然お礼を言われ、ソフィーはきょとんと首を傾げる。
「きみが僕に出会ってからの自分が好きだって言ってくれたから、とても嬉しくて」
言葉の通り、本当に嬉しそうに笑う。
「マルクルが今の僕が好きだって言ってくれたように、僕も今の僕がとても気に入ってる。きみを好きな僕が、物凄く好きなんだ」
そういえば先ほどの会話は聞かれていたのだと思い返す。
何となく気恥ずかしい気もしたが、誰も嘘を言っているわけではないから仕方ない。
「…私も、あなたを好きな私がとても好きよ。あなたは出会った時から優しくて、だから私もとても優しくなれる」
「そして、僕らはそんなこの場所が大好きで」
「そこに住む人たちが大好き!」
ソフィーは少し背を伸ばしてハウルの唇にチュッと音をたてて、自分のそれを重ねた。
一瞬驚いたハウルだったが、
「――ソフィー、甘い」
「あら、ケーキはまだ食べてないわよ?」
「ケーキなんて目じゃないよ、これは」
と、嬉しそうに笑った。
相変わらずバタバタしているマルクルには、ふたたび口付けを交わす二人は目に映らなかった。
END
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