それも日常
〜Beautiful Life〜
「ハウル、具合はどう?」
耳元で優しい声がする。
ハウルはゆっくりと重い瞼を持ち上げ、出来得る限りの苦しそうな声で答えた。
「頭は痛いし、気分も最悪だ。喉もいがいがするから息をするのも苦しい。 熱のせいかな?目がまわるんだ。 ああ、それでもぼくの奥さんが変わらず可愛らしく映ることには感謝しなくては」
死ぬ前にきみをもう一度見れて良かったよ、ああ欲を言えば僕らの子供もこの手に抱きたかったな、などと彼の唇が動く。
ソフィーはにこりと笑って彼の手を取った。
「大丈夫よハウル、一見重症だけど異常はないわ」
巷で評判のあの城の存在は、少々非日常的だった。
まずその住人がとても奇妙であるということ。魔法使いが一人、新米魔女が一人、魔法使い見習いが一人、そして火の悪魔が一人(?)とくれば普通の人間にとっては非日常的だと言わざるを得ない。
しかし新米魔女が「新米」であるという事実は案外知られておらず、大概の人間は彼女のことをインガリー王国一の魔女だと信じて疑っていなかった。
他にも非日常的といえることがある。
それは何と言っても、この城が空を飛ぶということ。これは住人の一人である火の悪魔・カルシファーの力によるものであるが、実はそれも案外知られておらず、大概の人間はこれはこの城の主、ハウエル・ジェンキンスという魔法使いの仕業であると信じて疑っていなかった。
さて、こんな非日常的なところに身を置く非日常的な彼らだが、そんな彼らにも「日常」というものある。それは普通の人間だろうが、魔法使いだろうが、ましてや悪魔だろうが同じこと。
この城の中では「喧嘩するほど仲が良い」ということが、日常となっていたりする。そしてそれは空飛ぶ城の主・ハウルとその奥方の新米魔女・ソフィーによって紡がれているのだ。
「あの男もバカだねぇ」
「ハウルはバカじゃないわよ、カルシファー」
ソフィーはまきの間でちらちらと燃える炎をたしなめた。
「じゃあバカなのはあんたの方だ」
姿は炎でも悪魔は悪魔だ。カルシファーはまきの間から意地悪くソフィーを見上げた。おそらくおもしろがっているのだろう、炎がちらちらと楽しげに揺れている。
――そんなことわかってるわよ。
ソフィーは声に出すことこそしなかったが、肩を竦めてふんと鼻をならした。そして二階のハウルの部屋の見上げ……大きな溜め息をついた。夫が病床に伏せ
ているのはまぎれもなく自分のせいなのだ。いや、半分は彼自身のせいと言ってもいいかもしれない。しかしベッドから起き上がる気配を一向に見せない雰囲気
から、罪悪感が彼女の心臓をちくちくと刺すのだ。
なに、病床といってもたいしたことはない。本人が「天国の扉が見える」と入り口を指してうめこうが、カルシファーのろくでもないフライパンソングに「天使の囁きが聞こえる」と絶望してようが、結局のところは何でもない。ただの風邪なのだ。
彼がこうなってしまったのは、話の筋からしてソフィーに原因があることはおわかりだろう。しかしそれは彼女にとって悪気のあるものではなく、あくまでも彼らの「日常」の一環だったのだ。
ふらりと出掛けてふらりと帰るハウルに、ソフィーが得意の癇癪をぶちまけるというのはいつものことだ。彼女としては夫の女性遍歴に今更けちをつけるわけ
でもなく、そして「今日はどこに行っていたの!?」などと詮索するわけでもないのだが、お帰りなさいと迎えた瞬間に彼からかいだことのない花の香りが流れ
てくれば、憎たらしくなるのも当然なのだ。
しかしその癇癪もいつまでも続くわけではない。結局のところ彼らはとても愛し合っているし、どれだけソフィーが暴れようと家出しようと全ては丸くおさま
るのだ。例えそれが彼のプロポーズの言葉通り、彼女が彼の服を切り刻んで思い知らせてやることがあっても、だ。ハウルが甘い言葉で誤魔化すのか、はたまた
土下座して謝るのか。それは本人たちのみが知るところだが(もし後者であれば、カルシファーが腹を抱えて―そんなものがあればの話だが―笑うに違いな
い)、癇癪の翌朝には仲むつましい夫婦に戻っているのだ。
今回ハウルが風邪を引くはめに陥ったのも、元を辿れば彼が原因だった。昨夜、いたくご機嫌で帰宅した彼からむせ返るほどのカモミールの香りがしたのだ。
その場で頭の中で何かがキレた音がしたかと思うと、ソフィーは真っ直ぐに物置部屋へ直行し、七リーグ靴を取り出したかと思うと、そのままキングズベリーへ
と出て行ってしまったのだ。唖然とするハウルを後に、ソフィーは今月に入り四度目の家出を決行したのだった。
しかしこれもあくまでも「日常」の一環。ハウルには彼女のこの後の行動が手に取るようにわかっていた(単に経験慣れしているだけと言ってしまえばおしまいだが)。
「あーあ、どうして彼女はあんなに考えが真っ直ぐなんだろう。まあいい、どうせキングズベリーのレティーの所だろう。愛する奥さんのため、僕は彼女を迎えに行ってやらなくては」
大袈裟とも言える身振りをしながらハウルは溜め息をついた。
そして「ご苦労だねぇ」とあざ笑うカルシファーの声と、いつものことだしと大して気にもとめていない「行ってらっしゃい」というマイケルの言葉を背中で受け、ハウルはさっそく義弟(もっともハウルの方が年下なのだが)の元へ足を向けた。
ソフィーはといえば、めずらしく迷わずにキングズベリーの妹夫婦の家に辿りついていた。しかし門を叩くことはせず、家の前にたたずむだけだった。なんと最悪なことに、キングズベリーに足をつけるなりハウルからあの花の香りがした原因を思い出してしまったのだ。
「そういえば今日は王宮に行くと言っていたわ。荒地にカモミールが咲かないから気がつかなかったけれど…キングズベリーにはこんなにも咲いているじゃない!」
王宮があるキングズベリーはまさにシーズンとも言えるべきか、レティーの家だけでなく、どこの家にもカモミールが咲き誇っている。ましてや王宮ともなれば庭園一面に咲いているのだろう。
「ああ、今度はハウルが悪いんじゃなかったんだわ!」
どうして自分はこうも早トチリなのだろう。さすがに自分が長女だからという概念は薄れているようだが、自分の失態が悔やまれて仕方ない。大人しく帰って
謝ればハウルは許してくれるだろうか。ここ最近緑のネバネバは出ていないが、今回もおそらく不機嫌になることは間違いないだろう。ソフィーは頭を抱えて
しゃがみこんだ。
彼女の最悪はまだ終わっていなかった。偶然にも家の中からレティーがが出てきたのだ。
「まあソフィー姉さん!こんな時間にどうしたの!?」
どうしたもこうしたもない。レティーにとって、姉が自分のところを訪ねてくる理由は選ぶほど多くは無い。しかも困った顔をしてしゃがみこんでいる姿を見れば一目瞭然。ソフィーが何かを言おうと口を開きかけたが、それを無視してレティーは叫んだ。
「また義兄さんね? 今度という今度はわたしが許さないわ!」
「ち、ちが……」
「姉さんはいつでも優し過ぎるんだわ! 大丈夫、今回はわたしに任せて」
何が任せてなものか、レティーは新しく覚えた魔法を使いたくてうずうずしているに違いない。このままではハウルが更に不機嫌になることは目に見えている。しかし人の話を聞こうともせず臨戦態勢に入る妹を止める術などあるのだろうか。
「ああどうしよう…」とソフィーは小さくうめいた。
その時、悩むソフィーに更なる最悪が訪れた。最悪にして最悪で最悪な事態発生だ。ハウルが追いついてしまったのだ。
「ソフィー、話も聞かずに飛び出すのは反則だよ」
多少唇を尖らせてはいるが怒ってはいないようだった。その彼をみとめて、ソフィーはホッと胸を撫で下ろすと同時、一言叫ぶしかなかった。
「ハウル、逃げて!」
それは彼女の声が彼の耳に届くか否かの刹那の出来事。スローモーションのようにも思えるが、実に一瞬でことは済んだ。レティーが不可解な言葉を呟いたかと思うと、彼女の庭にある池の水が盛り上がり、一気にハウルの上にかぶさってきたのだ。
バシャッ!というすさまじい音の後に残されたのは、唖然とするソフィーと、同じく開いた口が塞がらない濡れ鼠のハウル、そして得意気に両手を腰に当てて立つレティーの三人だけ。最初に我に返ったのはソフィーだった。
「ハウル!ハウル、ハウル! ごめんなさい、わたしが悪いの!!」
謝りながらも駆け寄るが、彼は未だ放心状態。ソフィーの心に一抹の不安が過ぎった。
――――まさか、緑のネバネバ?
冗談じゃない、こんな所でアレを出されてはたまったもんじゃないわ!ソフィーはまだ文句を言おうとしているレティーに事情を話すことも忘れ、そのまま七リーグ靴に足をつっこみ、ハウルを連れてもと来た道を戻って行った。
そしてそれが現在に至る。
城に着くなりソフィーは浴室に彼を押し込め、カルシファーに温かいお湯をたくさん出してもらい、マイケルに寝間着を用意させた。二人とも何事かと慌てふ
ためいたが、どうやら事態を察したようで文句の一つも言わずに動いた。二人とも緑のネバネバには散々な目に合っているのだ。
しかし我に返った彼は(すでに一時間以上も経過していたのだが)、意外なことに緑のネバネバどころか、ソフィーの姿を見つけるととろけそうな笑顔を見せた。
「ああソフィー、戻ってくれて良かった。 君は身重なんだから、心配させないでくれよ?」
「ごめんなさい、ハウル……今回はわたしが悪かったの。 レティーの分もわたしが謝るわ」
緑のネバネバの心配はなくなったが、それはそれでこちらの罪悪感が増すだけだった。いつも彼に癇癪を起こす時、彼はどうやって宥めてくれたのだろうか。こんな時になると急に思い出せなくなる。
「もういいさ。 誤解を受けるようなぼくにも責任はあるわけだし。 それに…今日王宮に行った理由を聞いてくれないのかい、奥さん?」
相変わらず微笑みを絶やさないハウルにソフィーは首を傾げた。そう言えばなんだったのだろうか。
「きみが懐妊したことを王様に報告しに行ってきたんだ。 “このたびは我が妻、ソフィー・ジェンキンスが懐妊いたしまして、わたくしめにも少々の休暇を頂きたく存じ上げます。”ってね」
「…どういう意味?」
「わからないかなあ。 きみが心配であまり家を空けたくないから、ぼくにあまり仕事をさせないでくれって頼んで来たんだよ」
「……それでどうだったの?」
「もちろん了解を貰ったよ」
そう言ってハウルが最高の笑みを見せるか否かの瞬間、ソフィーは彼の胸に飛び込んだ。
誤解どころか、彼はこんなにも自分を思っていてくれていたのに!
「ああハウル、本当にごめんなさい!」
「もういいって言っただろう?」
それに、と前置した上でハウルは軽くソフィーの唇に自分のそれを重ねた。
「癇癪を起こすきみの方が、謝るきみよりずっときみらしいと思うよ」
さて、物語りがそこで終っていれば見事なハッピーエンドなのだが、残念ながらここで冒頭に戻ることになる。
結局ハウルの風邪の理由は、これまで記してきたジェンキンス夫婦の「日常」の延長上にあるということに他ならない。風邪を治すまじないはないと魔法使い自身も言っていた。
「ソフィー、ぼくが死んでも子供と強く生きるんだよ」
「大丈夫よハウル、あんたがこれくらいで死ぬはずないでしょう?」
「だって今眠ったら、次に目を覚ます時にはきみがいなくなっているような気がするんだ」
「そんなことないわ。 それにハウル、あんたがそれを言って目を覚ましたのはこれで五回目よ」
この空飛ぶ城の主がここぞとばかり奥方に甘えているのを、カルシファーもマイケルも溜め息を一つもらしただけで後は何も言わなかった。
なぜなら、これもまた日常のひとコマでしかないのだから。
END??
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