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おそらく、10歳くらいの頃だったと思う。 完全に風邪を引いたみたいだ、と苦笑したクレオ。その隣で泣きそうになっている顔面蒼白のグレミオ。そしてその後ろで俯いたまま拳を握り締めている少年が一人。 フラフラだったせいか意識は朦朧としていて、その光景が確かなものだったのかはよく覚えていない。 もしかしたら自分も何かを口走ったのかもしれないが、それもやはり記憶には残っていない。 しかし、耳に届いた呟きの声の持ち主――これだけは確信できた。 「ごめん…ごめんな……」 大した思い出ではなかったけれど、今になって思い出すことが多いのは、やっぱりこの右手のせいかな。 テッドという少年。 自分よりも背が高く――数年後には追い越してしまったのだが、それは自然の摂理であり、彼の成長が「止まっていた」などとは露ほどにも考えなかった――本当の年齢はいくら尋ねても教えてはくれなかったけれど、それでも彼は自分と対等であると信じていた。自分の身分とか、彼の境遇とか、そんな下らないものは自分たちの間には存在しなかった。 何をするのも一緒で、離れていた記憶などほとんどない。二人が一緒にいるのは、それこそ自然の摂理だった。彼が食べようと言えば嫌いなものも食べたし、彼が出かけようと言えばどんなことがあっても一緒に出かけた。 それは強制や約束ではなく、やはり自然の摂理のようで、必然で、当然だった。 だから、あの日も。 「なあ〜」 「ダメ。」 「まだ何も言ってないってば。」 「……僕、まだ勉強中。」 テッドはちぇ、と拗ねたように隣に腰掛けた。 「今日はやけにグレミオがうるさいんだよね。あと一時間も机に向かってたら文句も言わないと思うけど。」 未だぶつぶつと文句を言うテッドには苦笑した。 坊ちゃんはマクドール家のご嫡男です。テオ様を超える素晴らしい跡取りとなるべく、教養はきっちりと身に付けて頂かなくては!――以上がグレミオの口癖だ。 根が真面目なのか、それとも生まれながらにしてそれを理解しているのか、はそれを鬱陶しいとも思わずにいつも「お勉強の時間ですよ」というグレミオの声と共に机に向かう。 「外に遊びに行こうぜ〜!お前が勉強ばっかりしてたらつまんねーよ!」 「じゃ、テッドも一緒に本でも読む?」 「……それは遠慮しとく。」 としてもテッドと遊びに行きたい思いはある。決して勉強が嫌いなわけではないが、彼とてまだ少年なのだ。たとえグレミオの言う通り、自分がマクドール家の跡取り息子であっても、その立場だけは変えようがない。 しかし、逆にその将軍家の嫡男という身分は要らぬ所で敵を作る条件でもある。グレミオの頬にある大きな傷はそれが原因だったのだ。は少年ながらに自分の身分を理解せざるを得なかった。 「ごめんね、テッド。」 は再び苦笑した。すると突然、 「よし、こうしよう。」と、テッドが何かを思いついたように立ち上がった。 「へ?」 「鬼ごっこしよう、!逃げるのは俺、鬼はお前だ。俺は一時間かけて逃げるから、お前はそれが終わったら俺を捕まえに来いよな。」 何を言い出すかと思えば。テッドは我ながら名案だと一人頷いているが、は首を傾げるばかり。 「何だ、かくれんぼじゃないのか、それ?」 「ち・が・う!俺を見つけるんじゃなくて、捕まえるんだよ。それができたら、お前の勝ちだ。」 どうだ?とテッドは笑った。 はふと真面目な顏になり、 「――…制限時間は?」 「そうだな〜グレミオさんが夕食の準備ができたって言うまで、とかは?」 時計をちらりと見る。夕飯までは数時間ある。あと一時間机に向かうことを差し引いても、テッドを追いまわす時間は充分にある。 やはり少年、勝負事は避けられぬ体質らしい。もにやりと笑った。 「よし乗った!僕が勝ったらどうする?」 「そうだな―――うん、俺に勝てたらお前の『一生のお願い』を聞いてやるよ。」 「その言葉忘れるなよ?」 「もちろんだって!」 そう言うなり、テッドはに手を振り得意げに出て行った。あと一時間も猶予があるというのに走って行ったのだろう、間もなく階下のドア――おそらく玄関だ――の扉が閉まる音がした。その瞬間、 「あ、テッドのばか!僕が負けたらどうするつもりなん――…」 は慌てて彼の後を追おうと立ち上がったが、すぐに諦め椅子に腰をおろした。 彼を追いかけるのは一時間後の約束。たとえ遊びでも男と男の約束だ、こちらから破るなんて冗談じゃない。 それに、には彼に問わずともよく分かっていた。 テッドの口癖。 …一生のお願いだよ、。 もう聞き飽きたよ、と何度苦笑したことか。 数時間後、なかなか姿を現さない親友にしびれを切らして先に帰宅したのは、テッドの方だった。 「おやテッド君、坊ちゃんはどうしたんです?」 台所から、来客の気配を察したグレミオが顔を覗かせた。当然、腰にはしっかりとエプロンを巻いて、手にはおたまを持って。 犬の真似事ではないが、鼻をひくつかせてもまだ良い匂いはしてこない。どうやらタイムリミットはまだのようだ。 「あれ…まだ帰ってないの?家に先回りされてると思ったから俺も戻ってきたのに……」 の早足はテッドもよく知っていたし、頭の回転も早いことは承知の上だ。だからこそ、なかなか姿を見せないのは家で待ち伏せをして制限時間を迎えるつもりなのではと思ったのだが。 「坊ちゃんは今日微熱があるんですよ。だから長時間外に出るのは駄目だと言っていたのに―――…」 グレミオの顔色がみるみる青くなっていく。そして、それにつられるかのようにテッドの顔色も。 「そんな、あいつそんなこと一言も……」 そう呟くと、数時間前のの声が頭の中に蘇る。 『今日はやけにグレミオがうるさいんだよね』 あいつ――…! 「グレミオさん、俺を探してくるよ!」 「ああ、待ってテッド君!わたしも行きま――」 慌てふためるグレミオの声を背中で受けて、テッドは再び外へ駆け出した。 が風邪気味だということを黙っていたのは、自分に気を遣ったわけではないことを、テッドは理解していた。は自分と一緒にいることを当然と考えているからだ。一緒にいることに、何の理由も言い訳も存在しないからだ。 そのくらいのことは考えなくても分かるほどに一緒の時間を過ごしてきたのに。 テッドが舌打ちをして最初の角を曲がった時。聞きなれた声―― 「あ、テッド君丁度良かった!手を貸して!」 クレオの声が聞こえた。正面からぐったりとした少年――を抱えて歩いてくる。 「!」 駆け寄った時には苦しそうに息をしていて、顔は熱のせいか明らかに赤い。 「坊ちゃん、噴水のところでフラフラになってたから連れてきたんだけど――ああ、グレミオも丁度良かった。」 後ろから「ぼっちゃーーーーん!」と必死の形相でグレミオが走ってきた。 「な、な、クレオさん!坊ちゃんは大丈夫ですか!?」 「落ち着いてグレミオ、完全に風邪をひいたみたいだけど…大丈夫、そんなに心配するほどじゃないよ。」 坊ちゃんだって男の子なんだしね、とクレオは苦笑したが、グレミオは完全にショックを受けたようで、顔面は蒼白だった。テッドはその光景に一歩下がり、心なしか俯いていた。 その時。 「グレミオ……?」 グレミオの声が大きかったせいか、がかすかに目を開けた。 「はい、はいっ坊ちゃん、グレミオはここにいますよ!」 とにかくまだに意識があったことが嬉しいのか、グレミオはしゃがんでと目線を合わせた。 「――夕飯はまだ出来てないよね?」 瞬間、テッドの顔が強張った。 グレミオはといえば、何を言って言ってるんですかと憤慨している。 「そんな、坊ちゃんがこんな状態なのに……まだに決まっているでしょう!」 クレオが大声を出すなと窘め、とりあえずを寝かせる準備をするからと家に駆けていった。 グレミオがを背負って後に続こうとしたその時、が俯いたままのテッドを手招きした。 「テッド…」 数時間前はもっと元気な声だったのに。自分が外に誘ったせいで風邪を悪化させてしまった。 情けなさと申し訳なさでよろよろと歩いてくるテッドの手をぎゅっと握り、しかし彼の表情とは正反対にはにっこりと笑った。 「テッド、これで僕の勝ちだよね?」 本当に、大した思い出ではないのだ。 現に、自分が噴水の辺りまでテッドを捕まえに行ったことは覚えていても、それ以降のことは熱のせいか思い出せなかった。だから、これはクレオとグレミオに聞いた話だし、数年前の日常のほんの一部だから、二人も正確には覚えていなかった。 ただ、その翌日に自分が倒れた時の熱が37.5度だったとグレミオ言われたことよく覚えている。今となっては、その程度の熱で倒れるのは情けないを通り越して恥かしい話だ。だから、誰にも話していない。 しかし。 自分が戦利品『一生のお願い』に何を頼んだのか、どうしても思い出せないのが悔しい。 クレオはすでにその場にいなかったから知らないという。 もうテッドもグレミオもここにはいないから、誰も教えてくれない。 僕はきっとテッドに『一生のお願い』を言ったはずなんだ。 でも、記憶の中のテッドは謝るばかりで頷いてはくれないんだ。 「ごめん…ごめんな……」 謝らなくていいんだよ。 ただ、願わくばもう一度鬼ごっこをしたいな。 僕はきみの『一生のお願い』を聞いてあげたわけだし、今度こそ僕のお願いをきいて欲しいな。 今度は37.5度の熱なんかで倒れたりしないからさ。 僕はきみに何を願ったんだろう? きみの『一生のお願い』は今も僕の右手にあるよ。 END |